「「万博」へ、「万博」から。」


 3月4日に京都造形芸術大学・春秋座で開催されたシンポジウム「「万博」へ、「万博」から」。同日まで学内で開催されていた2011年度の卒業制作展の関連イベントとして開催されたもので、現代美術家岡崎乾二郎氏とヤノベケンジ氏、建築学者五十嵐太郎氏、そして同大の大学院長を務めている浅田彰氏の四人が参加していた。


 個人的にはTwitter経由でこのシンポジウムの情報を知って以来、この面々で万博について語るというイベントが面白くならないはずがあるまいと思いつつも、しかしその一方で、なぜこの時期にことさら「万博」なのか、管見の限り別に今年が何がしかのメモリアルイヤーだからということもなさそうだし…… と、首をかしげることしきりだったのもまた、事実といえば事実。学内で配布されていた告知チラシに書かれた文面*1を見てもそのあたりについて説明されているとは言い難かったので、軽く疑念に思いながらも現地に赴くと、今年の同大学の卒業制作展のメインコンセプトとしてこの「万博」という言葉が使われていた*2という、それはそれで新たな疑念を呼び起こすところではあるオチが待っていたわけで。で、実際、かかる疑念は劈頭においてMC役を務めていた浅田氏によっても表明されており、この「万博」というキーワードを学生たちの会議において発した者がこの場にいたら名乗り出て欲しいと言っていたわけで。無論、と言うべきか、その彼/彼女が名乗り出ることはなかったのだが。で、さらに、当初このシンポジウムには建築家磯崎新氏の出席が予定されており、大阪万博に深く関わった磯崎氏を囲んで云々という形で行われる予定だった――が、手術を受けるハメになってしまい、出席できなくなったという――そうで、してみるとこのシンポジウム、最初からキーパーソンの不在に徴づけられていたことになるのだった。


 ――というわけで、出席者よりもむしろ欠席者の存在がクローズアップされる形で始まったこのシンポジウムだが、それ以外は五十嵐氏→ヤノベ氏→岡崎氏の順番で基調講演めいたプレゼンが行なわれ、その後MC役の浅田氏を交えたクロストークが行なわれるという流れで概ね普通に進行していく。五十嵐氏は大阪万博の前後における建築界隈の動きや建築をめぐる諸思潮を軸に、ヤノベ氏は自身の創作活動のモチベーションとして語り続けている大阪万博の解体現場を見ながら育った少年時代の話を軸に語るという、両氏の著書や作品に接したことがあれば必ず仄聞することになるであろう出来事が中心になっていたのだが、その中であげられていた具体的なエピソードがなかなか興味深かったわけで。五十嵐氏は当時の建築雑誌などのデータを駆使しながら大阪万博アーキグラムの関係性(丹下が設計した大屋根が(アーキグラムが提唱していた)空中都市の具現化であった、とか)について語る一方で、建築雑誌における“反博”の動きとして《ディストピア大阪》というドローイングが載せられていたことを紹介していたし、ヤノベ氏は愛知万博で発表するはずだった幻のプロジェクト――廃材で巨大マンモス型のオブジェを作って名古屋市から万博会場に運ぶ、というもの*3――について語っており、個人的には初めて聞く話が多かったので、深く聞き入った次第。


 かような具合に“学生向けトークイベント”という態にふさわしいキャッチーな資料やエピソードを用いたプレゼンを見せた五十嵐氏とヤノベ氏に対して、岡崎氏のプレゼンは打って変わってきわめてハイブロウかつ韜晦に満ちたものだった。他の二氏が大阪万博に注目する中、岡崎氏がプレゼンの中心に持ってきたのは、その三年前、1967年に開かれたモントリオール万博であり、ことにその基本理念として掲げられた「人間たちの惑星Terre des hommes」というもの。サン=テグジュペリの同名小説のタイトル――日本では「人間の土地」という邦題が訳者の堀口大學によってつけられている――から取られたこの理念を、岡崎氏は大阪万博において様々な形でフィーチャーされたメタボリズムと突き合わせて論じていく……

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。あの一軒では読書したり、思索したり打ち明け話をしたり、この一軒では空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう…… 試みなければならないのは、山野のあいだにぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。


 ……上の引用文は岡崎氏が読み上げた「人間の土地」の一節だが、この一節に描かれているような場面や「試みなければならないのは、山野のあいだにぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」という“ぼく”の感慨にこそ、モントリオール万博を大阪万博とを、つまりモントリオール万博において実験された建築(思潮)と大阪万博におけるそれ(=メタボリズム)とを分かつ重要なモーメントが存在するのではないか――氏のプレゼンを超乱暴に簡略化すると、概ね以上のようになる。


 では「人間たちの惑星」という理念(?)はいかにしてメタボリズム批判たりうるのか――そこで岡崎氏が持ち出すのが「葉と幹」というモデルであった。よく知られているように、メタボリズムは生成や成長、代謝という(擬似)生物学的な思考を建築や都市計画に導入する際にツリー状のモデルを採用している。幹があってそこから成長していって葉をつけていくというメタファーによって建築や都市計画を構想していくというわけである。そしてこの「幹」とは、実際の建築や都市計画において明示的に現われるよりもむしろ、そこに現われないもの、現われないにもかかわらず全体を統制するような、一種の無意識に比せられるべきものとしてあることになるだろう。こういった思考法が何もメタボリズムに限ったものではないこと、かような表には現われてこない部分を対象にするような思考が50年代〜60年代において同時多発的に出てきたことが、浩瀚な事例をスキャンしながら説明されていくのだが(もの派、吉本隆明の言語論における指示表出(幹)/自己表出(葉)、武谷三男の科学哲学における三段階論(現象(葉)→実体→本質(幹))etc)、いずれにしても、世界の多様性を想像的にせよ束ねるような理念を、19〜20世紀的な(つまり近代的な、ということでもあるのだが)国家や資本主義とは別のところに求めようとしたとき、多様性を「葉」と置いて、それらに対する「幹」を、「葉」それぞれの生成、成長、代謝の基礎となるものとして対置するという思考が大阪万博においては――そう明示的に言われていないにしても――遂行されていたという具合に、岡崎氏は大阪万博を総括していくのだった。従って、かかるメタボリズム的思考に対して、「あのともしびたちと、心を通じあうこと」が、「葉」/「幹」という思考と似て非なるものとして提示されていたことにこそ、モントリオール万博のアクチュアリティが存在するということが、氏のプレゼンにおいて重要視されていくことになるわけで。言うまでもなく「人間の土地」における「あのともしびたち」と“ぼく”との間の関係は「葉」と「幹」というモデルとは決定的に異なるし、さらに言うと「あのともしびたち」相互の関係も無関係である。もしそれらの間に何がしかの関係があるとするなら、それは“ぼく”が空からそれらを見出す以前には存在し得ないからだ。


 以上のようなことを梃子にして、モントリオール万博における「人間たちの惑星」という理念を岡崎氏は「(世界の多様性が)互いに孤独のまま、その間の関係を主題にすること」と読み替えていく。「葉」と「幹」の比喩で言い換えるるなら、「幹」=本質は一つであるというのがメタボリズム大阪万博の隠れたモードだったとすると、モントリオール万博の隠れたモードは「葉」それぞれに「幹」があるというものであり、従って「葉」それぞれは単一の「幹」に還元され得ない固有性を持ち、その無数の固有性をそのままにしつつ「心を通じあう」ことが「人間たちの惑星」という理念にはインプリケーションされている、というわけである*4。実際、モントリオール万博はストのためにいったん中止になったり、一部のパビリオンが期間終了後も1981年まで営業していたり(!)というようなアクシデントが多発したために今でも失敗した万博扱いを受けるわけであるが、複数の固有性が固有のモーメントを保ったまま存続していくような事態が続いたことは、岡崎氏的な視点からすると、むしろ成功だったのではないだろうか。


 ――以上のような岡崎氏のプレゼンを経た後、四人による共同討議に移っていったわけだが、五十嵐氏が来年のあいちトリエンナーレの芸術監督に就任しており、そこにヤノベ氏も出展するとのことで、この二人による公開打ち合わせ状態になったり(内容的にはおそらくどこにも出せなさそうなので、ここでは触れないが)、岡崎氏が岡本太郎の「対極主義」を強烈に批判したり、時間的に押していたのを見て取った浅田氏がすげぇ取って付けたような結論を滔々と語って終わらせたりと、なかなかアレげな感じに進行していった次第。

*1:以下の文章を参照のこと《1851年に始まる万国博覧会国際博覧会:Universal Exposition)は、世界を覆いつつあった近代文明の――つまりは国家と資本主義の祭典であり、初期は植民地主義的な性格を持つものでした。しかし、それは芸術文化にとってインスピレーションの源となり、発表の場ともなってきたのです。とくに、1970年大阪万博は、国家と資本に支えられたテクノロジーと、どちらかといえば反体制的な前衛芸術とが空前絶後の出会いを遂げた、注目すべきイベントと言えるでしょう。丹下健三(お祭り広場)と岡本太郎太陽の塔)の激突は、その象徴です。(むろん、前衛の中には、反万博の立場をとる芸術家もたくさんいたことを忘れてはいけませんが。)この1970年大阪万博を中心に、「万博」というものの可能性と限界を改めて問い、21世紀のいま、芸術文化を核とする出会いの場を構想するうえで、それがいかなるヒントを与えてくれるのか、あらためて考えてみたいと思います。》

*2:以下の文章を参照のこと《万博−万国博覧会は世界各国がその工業製品、科学技術、美術工芸品などをパビリオンに展示して、力と差異を示す場でした。しかしいまの国家や企業が威力を誇示することを人々は望むのか? 3.11後のいまこそ、大学とそれをとりまく社会をつなぎ直し、人と人、人とモノ、モノとモノの新しいつながりを模索すべきだ、そして大学はそんなつながりをもたらすパビリオンであるべきだ、と私たちは提案します。 万人が博くつながる。「万博 BANPAKU−新しく、つながる」》

*3:ヤノベ氏いわく、中日新聞社からのオファーに対して、ロシアから氷漬けになったマンモスを持ってきて展示するという読売新聞社のプロジェクトへの当てつけとして提案したが、上層部の判断でボツになったとか。氏のプロジェクトはその後(後に提案した巨大ロボット《ジャイアントとらやん》製作プロジェクトともども)豊田市美術館での個展「ヤノベケンジ―ウルトラ」展(2009)において実現した。

*4:岡崎氏自身、翌日のTwitter上で以下のように簡潔に説明している《ひとつの幹に沢山の葉(取り替え可能な葉)が集うのではなく、いちまい、いちまいにはぐれ(散った)、葉がそれぞれ離れたまま、自律した構造をもつ、こういうコンセプトをもった万博が大阪の前にあったのでした、という話(がきのうの話)》 https://twitter.com/#!/kenjirookazaki/status/176354532060700672