中小路萌美「かたちのいのち」展

 

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 西天満にあるOギャラリーeyesで4月9〜14日の開催されていた中小路萌美「かたちのいのち」展。昨年(2017年)のシェル美術賞に入選するなど近年進境著しい中小路女史ですが、ここ数年毎年この時期にOギャラリーeyesで個展を行なっております。当方は一昨年から毎年彼女の個展に接しておりまして、今年も最終日になんとか拝見できた次第。

 

 さておき、今回も大小十数点の新作絵画が出展されていました。中小路女史の絵画は、不定形な色面がランダムに配置された抽象画といった趣を見せていますが、最初に風景画を描き、その中の様々なモティーフを切り取って色面に還元した上でコラージュし、それをモティーフにして改めて絵画を描くというプロセスを経て制作されています。風景画から切り取られた諸要素が画面の中にフォルムに還元され、改めて緩やかに並存しつつ結合するという形で描かれているわけですね。昨年のシェル美術賞で入選した作品も、そのようにして描かれている。ですから、具象的なものごとから完全に解離した、あるいはそうあることが目指されている抽象画というわけではなく、コラージュ的に描かれた構成要素が以上のようなプロセスを経て改めて見出され使われていることで、どこか私たちの生きている生活世界との接点が残されているように見えるわけです。その意味で彼女の抽象画は、その歴史の中で蓄積されてきたであろうような、生活世界から解離され還元された形態や色彩の存在感やせめぎ合いをそのまま見せること──巷間、抽象画が意味不明なものとして受け取られてしまうのは、かような行為が広く共有されていないことに起因すると言えるでしょう──とはやや違った方向性を志向していると言えるでしょう。実際、中小路女史は以前の個展において「言葉には上手くできない。/見えているけど見えていない。触れそうなのに触れない」や「アクリル板で隔たれた向こう側」といったフレーズで、自身の抽象画の目指す方向性を表現していました。私はあくまでも世界-内的な身体的存在である、というところを出発点にして抽象画を作り出していくという試み。

 

 ところで今回の「かたちのいのち」展においては、上述したようなプロセスの大枠は変わっていないものの、いくつかの作品において筆の痕跡がこれまでよりも強調されていたり、あるいは風景に由来しない要素が絵の中に外挿されたりしていました。かような変化が一過性のものなのか今後も続く本質的な変化なのかは現時点では判断できませんが、個人的にはこの展開は非常に興味深いものがありました。これについては、在廊していた中小路女史と歓談した際、自身の中にある心的な感覚(の変化)が露出してきたものと説明されていましたが、ここには単なる心境の変化に還元しきれない〈ペインタリーなもの〉にかかわる何かが露呈しているように、個人的には思うところ。

 

 先ほども述べたように、中小路女史の作品は、私はあくまでも世界-内的な身体的存在であるというところを出発点にしているという一点において、シュルレアリスムと親和性が高い作風を取っていると考えられます。それは絵のみならず、絵のタイトルがひらがなをランダムに並べて作られた謎フレーズであるというところにも、如実に現われている。《にゆある》《らとり》といった出展作品のタイトルは、何やら自動筆記された結果出てきたものであるように見えてきます。言うまでもないが、自動筆記はシュルレアリスムの提唱者アンドレ・ブルトンにおいては基本中の基本となる行為であった。そういうところにも中小路女史の仕事とシュルレアリスムとの並行性を見出すことは困難ではないでしょう。しかしその一方で、今回の出展作における作風の変化は、彼女の作品とシュルレアリスムとの関係をさらに更新させるものとなっているのではないか。

 

 かかる中小路女史の作風の変化は、自身の中にある心的な感覚(の変化)が露出してきたものとされているわけですが、それが表現の位相においては自分自身と下意識的な何か──よく言われる「無意識」よりも(同じUnbewusstseinの訳語として当初採用されていた)「下意識」の方が、中小路女史のかような新展開について考える上でより適当であるように思われます──との関係を、単純な意識-無意識という対にとどまらないものにさせている。表現という形を取ることで、これまでの作品の中において浮遊感をともないつつも画面を収めていた遠近法に別種の遠近法を与えられており、それによって絵の中でさらに複雑な心的構造を形成しているわけですね。このとき、表現は表現されるものの単純な反映ではなくなるだろう。というか(私たちが通俗的に理解していることとは逆に)表現において、表現の位相においてはじめて無意識・下意識が存在することになる。言い換えるなら無意識・下意識は世界-内的な身体においてというより、そこからの切断によって存在する。絵画における〈ペインタリーなもの〉とは、そのような切断のことにほかならない。

 

 そういうダイナミズムが今回の「かたちのいのち」展の出展作に見られる作風の変化において、私たちの目にもハッキリと分かるように導入されていたわけで、個人的には大いに瞠目しきり。この展開は、端的に良い。画像はその展開が小品ながらギュッと詰まっていた作品《をるゆ》(当方蔵)。

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