笹山直規「SOMEBODY」展

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 中津にあるAIDA Galleryで3月30日〜4月15日の日程で開催されていた笹山直規「SOMEBODY」展は、ゼロ年代から画家として精力的に活動してきている笹山直規(1981〜)氏の、大阪では数年ぶりとなる個展でした。AIDA Galleryに加えて、隣室──現代美術家で、数年前に沖縄県に拠点を移した高須健市氏の自宅兼ギャラリースペース「ART SPACE ZERO-ONE」だった場所──も会場にしており、今回の個展に合わせて制作された新作から旧作に至るまで体系的に見ることができるものとなっており、笹山氏の画業の全貌とは言えないにしても、主要な部分をカバーする規模のものとなっていたと言えるでしょう。

 

 さておき笹山氏は以前から、ネットで拾った死体写真をモティーフにした絵画を描き続けていることで知られています。当方は主に氏がキュレーションしたグループ展で何点かに接したことがありますが、個展は初めてでして。死体をモティーフにし、その死に様をかなり直截に描いているということもあって、展覧会のたびに激しい毀誉褒貶をネット界隈に巻き起こし炎上している様子の笹山氏ですが、実際に作品に接してみると、「死体をモティーフにしている」という言葉から喚起されるようなグロさや境界侵犯的なニュアンス、あるいはアングラカルチャー的なノリよりも、むしろ死体をモノとしてゴロンと提示する感じに描き出すことの方に力が注がれているように感じられる。そういう意味では「SOMEBODY」という展覧会タイトルは非常に示唆的であるし、きわめて相応しいものとなっています──笹山氏においては、「死体を描く」ことを直接的に希求すること以上に「「死体」という特殊例を通して人体を描く」という志向の方がはるかに際立っており、従ってそこでは死および死体は匿名化されることになり、個々の人間の個々の死は、少なくとも描かれた絵から類推する限り、氏の実践の外側にあるように見えるからです。

 

 改めて言うまでもないことですが、人体を描くこと、ことに(神の似姿として)理想化された人体を描くことは、西洋絵画の中において厳然たる伝統として存在してきた/存在している。笹山氏は今回配布していたステイトメントにおいて自身の死体画がそういった西洋絵画史との対質において、その伝統に(逆立的にせよ)連なるものとして存在していることを強調していますが、それを読みつつ実際に出展された作品に接してみると、死体をグロ画像として描くこととは真逆の志向性に貫かれていることがわかります。それは、笹山氏の作品とその受け入れられ方をめぐる現状に対して一定の修正を求めることになるのではないでしょうか。これまでの笹山氏の作品をめぐる批評は量的にも決して多くなかったばかりか、氏の絵画についての議論が、このようなモティーフの絵画の社会における受け入れられ方/拒絶され方をめぐる議論に横滑りしてしまい、結果として死体というモティーフをめぐる倫理的な是非ばかりが前面化され、絵画としての出来やアクチュアリティについての議論が置き去りにされてしまうきらいがあったからです。言い換えるなら、死体を描くことをセンセーショナルなものとする「俗情との結託」が、笹山氏の絵画をめぐる本質的議論を抑圧してきたわけで。それは言うまでもなく健全な状況ではないのですが、かかる現状をほどくための言葉を、しかし自分自身で書く/書かざるを得ないところに、笹山氏をめぐる言説的な状況の悪さが存在する。

 

 ──少々横道にそれてしまいましたが、ここではかかる死体画が「歪んだ身体」「ねじ曲げられた身体」「溶かされた身体」といった、ことに20世紀以後の西洋絵画において言説的・修辞的な次元においてロマン化された身体像に対する強烈な介入としてあることにも注目しなければなりません。上述したように、笹山氏において死体画は、死因は何であれ死体を何かの説話論的な象徴としてアレゴリカルに提示すること以上に、その物体性がダイレクトに描き出されるものとしてあるのですが、しかし実際に作品に接してみると、基本的に水彩画であることも手伝ってか、全体として静謐な印象を見る側に与えるものとなっている。笹山氏は今回の個展に先立って、死体写真家としてその筋ではよく知られている釣崎清隆氏とともに──治安の悪さが日本でもしばしば話題になる──メキシコに赴いたそうですが、それがいかなる成果をあげたかについては部外者的には窺い知れないものの、死体に対する氏の視線の「質」をより深めるものとなったことは、今回出展されていた絵画からも十分に伝わったのでした。