当方的2018年展覧会ベスト10
年末なので、当方が今年見に行った483の展覧会の中から、個人的に良かった展覧会を10選んでみました。例によって順不同です。
・「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢」展+「いまを表現する人間像」展@大阪市立東洋陶磁美術館
※「いまを表現する人間像」展出展作家:イケムラレイコ、マーク・クイン、オシップ・ザッキン、佐藤忠良、ニキ・ド・サンファル、棚田康司、シュテファン・バルケンホール、舟越桂、マリノ・マリーニ
中国陝西省で2001年に発掘された陵墓から出土した胡人(中央アジアやイランにいた諸民族)や馬などが象られた俑の、フィギュラティヴな造型やディテールのデフォルメ具合が非常に見応えがあったが、(大阪市立東洋陶磁美術館の近所にある)国立国際美術館の彫刻コレクションの出張展示といった趣の「いまを表現する人間像」展が同時に開催されていたことで、古代中国の文物を鑑賞するというところにとどまらないアクチュアリティにも届いていたのが個人的には非常にポイント高。現代、とりわけ二度の世界大戦を経た中で/後で作られた具象彫刻は、近代的な人間像を全面的に懐疑するところから始まっているのだが、そのような彫刻が必然的に帯びることになるフィギュラティヴなものと、近代的人間など全くいなかったであろう8世紀中国におけるフィギュラティヴなものとを同時開催という形で見せることで、近代的人間像とは何か/何だったのかについて考えさせるものとなっていた。
同時代人であり、いわゆる「阪神間モダニズム」の空気を存分に吸って育ったという共通点があるものの、かたや西洋画〜東京芸大教授、かたや抽象画〜具体美術協会の総帥というほとんど真逆な画業を歩んだためか、これまで並置されることがほとんどなかった小磯良平(1903〜88)と吉原治良(1905〜72)の作品を年代ごとに「並べて見せる」ことに特化した展覧会。展示室のどこにおいても視界に二人の作品が入るようにしつらえられていたわけで、その「並べて見せる」ことへのこだわりは半端なかったのだが、そうすることによってそんな二人が一瞬歩み寄る瞬間が意外とあったこと──それは、同じ本(林芙美子の小説)の装丁に小磯verと吉原verがあったという唯一の決定的な交点があったという事実によって、さらに強調されるだろう──が容易に見出されるように構成されており、作品が織りなす地平の中でランデブーを描くような軌跡を見せていたことがあった(けど、また互いに離れていった)ことが雄弁に語られていたわけで、モノグラフでは決して見えてこないものが可視化されていたと言えるだろう。
・「桂離宮のモダニズム 高知県立美術館所蔵石元泰博写真作品から」展@京都文化博物館(常設展フロア)
高知県立美術館が所蔵している、石元泰博(1921〜2012)が撮影した桂離宮の写真百数十点と、それをまとめた三種類の写真集(それぞれ1960年、1971年、1983年刊)という、小規模といえば小規模な企画だったが、巷間桂離宮の建築史的価値を決定づけ、ここから敷衍されるような形で日本建築の(西欧に先行すらした)モダニティを云々する言説に説得力を与えた仕事として現在もなお高く評価されている石元の写真や写真集を単に紹介するだけでなく、桂離宮とモダニズムの関係性を体現している(とされてきた)写真作品と、その関係性の歴史的な変遷の中で生じた揺らぎ──写真集の製作過程における丹下健三や亀倉雄策、ヴァルター・グロピウス、磯崎新らの影響が指摘されることになるだろう──の中で制作された写真集とを対置するという構成で一貫していたわけで、そこはなかなかクリティカルであった。桂離宮のみならず、日本建築(史)をめぐる言説全体にまで拡張して考えることを促す良展覧会。
・澤田華「見えないボールの跳ねる音」展@Gallery PARC
雑誌や写真集などのスチール写真の片隅に往々にして写っている、おそらく撮影者の意図と関係なく写りこんでいるであろう何かについて偏執的に検索したり調べ上げたりした過程を様々な形で提示するという作風で近年注目を集めている様子の澤田華(1990〜)女史の良質な側面がよく出ていた展覧会。ここではMr.ビーンでおなじみの俳優ローワン・アトキンソンのポートレイト写真に写りこんでいた何かについて調べ上げていたのだが、プリントアウトされた画像検索の結果やカラーチャートの束を追っていくことが、しかし結果につながらず「写っているものごと」と「写っていない外的現実」との関係──写真はそれを写すことができない──と、そのいびつなあり方/ありようへと鑑賞者を強制的に開いてしまうわけで、それは端的に上手いなぁと思うことしきり。
・伊吹拓「葆光」展@GALLERY wks.
関西を中心に抽象画を描き続けている伊吹拓(1976〜)氏の、GALLERY wks.では15年ぶりとなった個展。やはり壁一面に自身が描いたドローイングやペインティングを大量に切り貼りした《葆光》(画像参照)が圧巻。絵画空間内における遠近や前後が攪乱された/されつつある画面を作るところに伊吹氏の抽象画の特質があるのだが、ナイフによって自身の作品をメタ的なレベルにおいてカットアップ&リミックスされる形で再描することで、レイヤーの複数性という位相に安易に還元するのではなく壁とドローイングという一層のみにあえて局限していたわけで、そのストイックさは、同時代・同年代の画家の中でもかなり際立っている。伊吹氏は「(制作している過程において)絵に攻撃された」という非常に印象的な表現で制作裏話を語っていたが、このような感覚とともに作られたことで、《葆光》は自身の抽象画の、そしてそこにとどまらない日本の抽象絵画の別の可能性を垣間見せていたと言えるかもしれない。
・田村友一郎「叫び声/Hell Scream」展@京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
詳細はこちら→
田村友一郎「叫び声/Hell Scream」展 – あたしか – Medium
ここ十数年ほどのトレンドとして、美術家が歴史的な史料/資料をリサーチした成果を用いて作品や展覧会を作るというムーヴメントが日本でも盛んになってきており、今年のそのような展覧会が各所で開催されていたのだが、その中でも「「美術家」がそのような行為を行なうこと」の意味が最も強く現われていたのがこの展覧会。自身の名前「田村」を用いて「田能村(直入)」や「(小野)篁」「田村(勤)」といった登場人物からなる資料や事物にまつわる歴史の中に自分自身も嵌入させ、そうして別の歴史を語ってしまう手腕の巧みさには唸ってしまうことしきり。リサーチ系の展覧会については、とりわけ予算や準備期間の事情から、本職の学芸員が本気出したら一蹴されてしまうだろうなぁという憾みもなしとはできないものが散見されるだけに、自身(の名前)の記号的操作を前面に押し出したことで、端的に今後の範となるだろう。
・「プレスアルト誌と戦後関西の広告」展@大阪府立江之子島文化芸術創造センター
1930年代から1970年代にかけて大阪で発行されていた「プレスアルト」という広告雑誌を中心にして戦後の関西企業の広告を見ていくという展覧会だったのだが、何よりもプレスアルトの存在感がインパクト大。実際のポスターやパッケージなどを記事とともに無理矢理綴じて本にして出すという形で出版されており、モノとしての存在感のレベルが違っていたわけで。しかもそんな破天荒な雑誌が40年近くにわたって発行され続けていたことに、この時期の(現在は失われた)大阪経済の深さを見ることもできるだろう。広告とは何よりもまず広告物であるという、おそらくこの雑誌を支えていたであろう認識は、マーシャル・マクルーハンが唱えた「メディアはメッセージである」という認識やそれを前提とする社会学とは異なった形で広告という存在へのアプローチを鑑賞者側に促していたと言えるだろう。
・「北辻良央の70年代」展+「WORK - Unterm Rad(車輪の下)」展@+Y GALLERY
地形図の模写や眼前の風景を記憶を頼りに描き出すといった同じ行為を何度も繰り返すというコンセプチュアルな作品で70年代前半にデビューした北辻良央(1948〜)氏は、80年代に入ると人物像やオブジェなどで物語を表現するような作品へと移行する。個人的にはその間に一体何があったのか全く窺い知れず、長年の謎だったもので、それが今回のこれらの展覧会でだいぶ氷解した次第。記憶したものごとを反復して描き出すという行為は最初から必然的にズレを孕んでおり、そのズレ=差異(もしくは「差延」((C)デリダ)と言った方が適当か)は身体を介して複数の位相、複数の記憶へと広がっていき、それが物語性を導入するきっかけとなる──以上のような理路を経て北辻氏の超展開はなされることになるのだが、そのプロセスをモノグラフィという形で制作の論理の内的な超展開として作品を通して見せていたわけで、普通に勉強になった。現在1980年代を回顧する展覧会が二つ同時に開催中(「起点としての80年代」展、「ニュー・ウェイブ 現代美術の80年代」展)だが、これらに関連して関西各所で開かれていた回顧展的性格を持った展覧会の中でも際立ったクオリティの高さを見せていたと言えるだろう。
・小松原智史「巣をつくる」展@the three konohana
大きな紙に模様ともクリーチャーとも見える謎のモティーフを延々描き続けるという作風で2013年に岡本太郎現代美術賞に入選するなど、以前から活躍していた小松原智史(1989〜)氏だが、そんな氏の新作はこれまでの二次元から、仮設された構造物を加えた三次元的な作品へと変わっていた。その意味で絵画・平面からインスタレーションへと展開していったことになるのだが、この展開が恣意的なものではなく、ある(歴史的・)論理的な強度をともなった展開であることが感得されたわけで、個人的には非常に驚くことしきり。かつて関西ニューウェーブの渦中に画家としてデビューした山部泰司(1958〜)氏は「絵画の枠を外すとインスタレーションになる」と発言していたが、小松原氏の今回の作品は、ともすると空間・立体の問題系と接続されることの多いインスタレーションについて別の位相がありえた/ありえることを雄弁に示していたし、80年代の絵画・インスタレーションの現在における可能性を作品を通じて垣間見せていたことは特筆されるべきだろう。「個体発生は系統発生を繰り返す」。
・松平莉奈「悪報をみる─『日本霊異記』を絵画化する─」展@KAHO GALLERY
京都における若手の日本画家の中でも近年最も精力的に活動している一人である松平莉奈(1989〜)女史。そんな彼女が9世紀ごろに書かれた仏教説話集『日本霊異記』からいくつかの話をピックアップして挿絵の要領で描いた作品が並んでいたこの展覧会は、古典を現代人の話として置き換えて描くメチエの巧みさが際立っていて、日本画としての良さを堪能できる良い機会となったのだが、そこにとどまらず、思想的な位相にまで踏み込んで描き出していたわけで、そこはなかなかポイント高。よく知られているように『日本霊異記』は日本初の仏教説話集だが、松平女史はこの本の特徴として現世での悪事の報いを現世で受ける筋立ての話が多いことに着目し、そういう話を多くチョイスして絵画化したという。来世や浄土、輪廻転生といった、仏教説話においてよくイメージされる要素が少ないことに着目していたわけで、そこに日本思想の通奏低音((C)丸山眞男)を見るという態度は、彼女がクリスチャンであることも含めて、オルタナティヴな日本画について考える上で、示唆に富んでいる。