当方的2019年展覧会ベスト10

 年末なので、当方が今年見に行った515の展覧会の中から、個人的に良かった展覧会を10選んでみました。例によって順不同です。

 

・「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」展(1.12〜3.17、兵庫県立美術館

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※出展作家:小川治平今和次郎、岡本唐貴、安井仲治、阿部合成、鶴岡政男、内田厳、桂ゆき、上野誠、靉嘔、河原温石井茂雄中西夏之長野重一東松照明佐々木正芳、柳幸典、会田誠小林秀恒、堀野正雄、川上澄生北川民次ハイレッド・センター、平田実、中村宏秋山祐徳太子、郭徳俊、北蓮蔵、小野佐世男松本竣介木村伊兵衛桂川寛、小林ひろし、山下菊二、村井督侍、立石紘一、松本俊夫(音楽:秋山邦晴)、福沢一郎、白川昌生、Chim↑Pom田河水泡瀬尾光世、榎本千花俊、藤田嗣治、鶴田吾郎、川端龍子宮本三郎谷内六郎、ハナヤ勘兵衛、赤瀬川原平太田三郎石元泰博しりあがり寿、他各種資料

※委嘱新作出展作家:柳瀬安里、会田誠、石川竜一、しりあがり寿

 

 一見するとおふざけが過ぎるように見えるタイトルとは裏腹に、「前衛」と「大衆」との関係を「ヒーロー」と「ピーポー(people)」の関係と読み替えた上で、その双方のあり方、ありようの軌跡を美術作品にとどまらずマンガや特撮、アニメといったサブカルチャー全般、果ては今和次郎による「考現学」に至るまで幅広く渉猟してパッケージングして見せるという豪腕&辣腕ぶりが印象的だった展覧会。昭和初期から昭和40年代あたりまでの時期が集中的に俎上に乗せられていたのだが、その中において「ヒーロー」と「ピーポー」とのカップリングの一体性が自明視されていた時代からスターリン批判、60年安保を経て「(20世紀唯一の世界革命としての)68年革命」&70年安保において決定的に分離してしまう──アラン・バディウ毛沢東文革期における講話の一節「一は自ら二に割れる」を引用しつつ述べるのは、端的にこのような事態である──という文化/政治のプロセスが改めて浮かび上がってくるように構成されていたのがポイント高。この展覧会のために委嘱された新作も、同展においてほぼ空白とされている1970年代以降の「ピーポー」を問う作品が揃っていて(特に炎上案件になりそうになった会田誠氏のは、きわめてクリティカルであった)、そこも要注目。



・「HUB IBARAKI ART PROJECT 2018-2019」(3.30〜9.29及び5.26、茨木市内各所)

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※選定作家:冬木遼太郎

チーフディレクター:山中俊広

 

 詳細はこちら→ https://privatter.net/p/4640353 

 

 ──「「アート/作品」が茨木のまちに作用し続ける6か月間」というキャッチフレーズのもと、一日だけのパフォーマンス作品と半年間にわたる公開・非公開のトークやワークショップetcを同時並行的に進めていくという形でなされていたが、やはりメインとなる作品《突然の風景》が非常に良かったわけで。グラウンドに16台の車を配置し、クラクション音によって坂本九の「上を向いて歩こう」を演奏(演奏?)するというものだったが、かかる作品のありようと実際の状況が、観客に何かを訴え鑑賞以上の行為に向けて促していくという社会参加型アート(socially engaged art)に対する批評/批判としてあり、そのような作品を茨木市の中心部においてやってのけたことの意義はいくら強調してもし過ぎではあるまい。「上を向いて歩こう」は高度経済成長期の日本の市民社会のアンセムであったと同時にアメリカのヒットチャートで一位になったことがあるという事実によって、戦後民主主義が不可避的に帯びる一国主義を揺さぶる楽曲としてもあるという二重性を持っている。そんな来歴を持った楽曲を選曲したことは、社会参加型アートの現在-近未来に対する抵抗として上手いし、きわめてクリティカルであろう。アーティストの社会や政治運動への参加を称揚する社会学者や活動家が端的に欠いているのは、このような批評的目線なのである。



・「大阪中之島美術館開館プレイベント2019 新収蔵品:サラ・モリス《サクラ》」(9.21〜10.6アートエリアB1)

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 2022年に開館する予定の大阪中之島美術館が今年購入したサラ・モリス《サクラ》のお披露目会といった趣の展覧会。サラ・モリス《サクラ》は大阪市内(とその周辺(万博公園堺市内、京大iPS細胞研究所サントリー山崎蒸溜所など))を撮影した諸断片をつなぎ合わせた50分ほどの映像作品だが、単に大阪の名所を映しただけの作品ではなく、大阪が近世以降20世紀半ばまで日本資本主義の中心的存在だったことに注目しつつ、映像の中で描かれた(車やクレーン、ベルトコンベアなどの)運動が資本主義が要請する〈資本〉の運動とシンクロするように構成されることで──「スペクタクルとは、イメージと化すまでに集中の度を増した資本である」というギー・ドゥボールアフォリズムが思い出される──大阪という場所自体の本質が〈資本〉の運動にあることを遂行的に描くという離れ業をサラっとやってのけていて、瞠目しきり。これはええ買い物しはりましたわ。サラ・モリス(1967〜)は世界各地の都市を俎上に乗せた映像作品シリーズを長く手がけているそうだが、都市を成り立たせる下部構造自体の運動に着目しているところに、コンセプチュアルアートの担い手としての確かさがある。あと音楽がリアム・ギリックだったことに驚かされた。



・エリック・ゼッタクイスト「オブジェクト・ポートレイト」展(2018.12.8〜2019.2.11、大阪市立東洋陶磁美術館

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 ニューヨークを拠点にしている写真家エリック・ゼッタクイスト(1962〜)が同美術館の名品を撮影し、その写真を被写体となった陶磁器と並べて展示するという展覧会だったが、ストレートに撮影するのではなく、被写体を白黒で部分的なフォルムあるいはそれすら消去されたミニマルな何かに置き換えてしまうように撮影されており、その繊細にして剛腕っぷりが、鑑賞者が往々にして自明の前提にする「いい仕事」や「気色」といった骨董趣味=なんでも鑑定団的な目線を唯物的な目線にヴァージョンアップさせていて、きわめて痛快であった。ゼッタクイストは杉本博司氏のもとで写真と古美術の薫陶を受けて現在の作風を確立させたそうだが、それもさもありなん。一昨年〜昨年の「唐代胡人俑+今を生きる人間像」展に続き、大阪市立東洋陶磁美術館が展覧会という形でコレクションと現代美術とをコラボさせたり、あるいはコレクションの現代性を問いかけたりするときの外さなさが光る好展覧会となったのだった。



・「タイムライン 時間に触れるいくつかの方法」展(4.24〜6.23、京都大学総合博物館

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※出展作家:井田照一、大野綾子、加藤巧、𡈽方大、ミルク倉庫+ココナッツ

 

 詳細はこちら→ https://privatter.net/p/4530947 

 

 SNSのUIという形で私たちの生活に定着したと言える「タイムライン」がもたらした「時間」観の変容から〈もの〉をめぐる技芸としての美術を改めて主題化するという、きわめて野心的な展覧会。「タイムライン」という体制は呟きや記事、画像、動画などなどがそれ自体相互の脈絡をほぼ持たないまま時間の流れに沿って配置され、それを追尾していくという一連の行為を可能にするのだが、それは単一の時間軸という概念を一方で強化しつつ、しかし「違ったタイムライン上にいる自分以外の誰か」を思い出させることによって複数の時間に開かせる契機にもなりうる。その意味でこれまで文学的・レトリカルに考えられてきた「複数の時間」「複数の歴史」がリテラルに実現している/しつつある状況にあるわけで、そのような状況をいかなる形で可視化しつつ応接するかが(裏)主題になっていたと言えるだろう。個人的には身近な例などをうまくアレンジして私たちが「時間をスキップする」「未来を先取りする」といったSFめいた状況に普段の生活の中で意識することなく接していることを説明的に示して見せたミルク倉庫+ココナッツや、自作のペインティングを科学的な分析にかけ、その結果できた画像(画像?)も絵画として展示した加藤巧氏の作品がクリティカルだった。



・堂島リバービエンナーレ2019(7.27〜8.18、堂島リバーフォーラム

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※出展作家:ゲルハルト・リヒタートーマス・ルフ、フィオナ・タン、ダレン・アーモンド、佐藤允、空音央/アルバート・トーレン、ジャン=リュック・ゴダール

※アーティスティックディレクター:飯田高誉

 

 一人のディレクターによるグループ展という形式では4年ぶりの開催となった今回は「シネマの芸術学─東方に導かれて─ ジャン=リュック・ゴダール『イメージの本』に誘われて」というタイトルで(二度目の登板となった)飯田高誉氏がディレクションを行なっていたが、出展作の中でもリヒター《アトラス》に超瞠目。1960年代から最近に至るまでの自身の作品のエスキースやメモランダム、イメージソースのスクラップをまとめたこの作品、今回ドイツから800点以上が一挙に出展されており、いやこれナンボかかってん!? と呆然とすることしきり。「資本主義リアリズム」から《抽象絵画》シリーズ、近年のストライプの作品に至るまでのリヒターの移り変わりはもちろん、ドイツ現代史の暗部──ホロコーストはもちろん、ドイツ赤軍の幹部が獄中で謎の死を遂げたバーダー&マインホーフ事件も特権的なものとなっている──をも主題としていることで、単なるリヒターのネタ帳にとどまらない広がりをともなっているこの作品を今の日本で見ることの意義は、きわめて大きい。《アトラス》は正義。他の出展作家も「イメージ」が自立/自律して久しい現在に対する局地的な陣地戦として自作を展開していっており、きわめて緊張感の高い展覧会であった。



・TRANS- ART PROJECT KOBE 2019(9.14〜11.10神戸市内各所)

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※出展作家:グレゴール・シュナイダー、やなぎみわ

 

 詳細はこちら→ https://tmblr.co/ZAlCrV2lx_-Is 

 

 出展作家を二人に絞ったことが開催前から話題となっていたが、やなぎみわ女史は自身の演出のもとここ数年各地で展開している舞台版『日輪の翼』の巡回公演だったため(未見)、実質的にはグレゴール・シュナイダー(1967〜)の個展状態だった。そのシュナイダーの作品《美術館の終焉─12の道行き》は神戸市内各所に12の自作を設置し、観客はそれらを巡回していくのだが、その自作がいちいち不穏だったわけで。例えば新開地駅の地下通路に設置された第4留では、扉を開けると真っ暗な部屋があり、さらに扉を開けると浴室を模したスペースがある。以下、暗室→浴室というパターンが十数回繰り返されるというもので、方向感覚や平衡感覚が失われていく恐怖感があった。他にも(元)公共の施設から果ては(実際に居住者がいる)民家まで使って、都市の片隅に開いた穴のように作品を制作していっており、その大規模さには驚かされるところ。



ジャコメッティと I&II(I: 5.25〜8.4、II: 8.27〜12.8、 国立国際美術館

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※「ジャコメッティと I」出展作家:アルベルト・ジャコメッティポール・セザンヌパブロ・ピカソ佐伯祐三、ジョルジョ・モランディ、ヴァシリー・カンディンスキー、ジュール・パスキン、藤田嗣治カレル・アペル、オシップ・ザッキン、舟越保武、ジャコモ・マンズー、佐藤忠良荒川修作ジャン・デュビュッフェ、ヴォルス、ジャン・フォートリエ、アンリ・ミショー、堂本尚郎、ピエール・アレシンスキー、上前智祐、白髪一雄、今井俊満嶋本昭三、正延正俊、山崎つる子、元永定正吉原治良、安斎重男、尾藤豊、阿部展也、石井茂雄、泉茂、靉嘔、三木富雄、鶴岡政男、菅井汲、田淵安一、他矢内原伊作収蔵の各種資料

 

※「ジャコメッティと II」出展作家:アルベルト・ジャコメッティ、今村源、トニー・クラッグ、リュック・タイマンス、シュテファン・バルケンホール、ゲオルク・バゼリッツ、マルレーネ・デュマス加藤泉、ジュリアン・オピー、南川史門、森淳一、鈴木友昌、西尾康之、棚田康司、トーマス・ルフロレッタ・ラックス、ボリス・ミハイロフ、石内都、北野謙、ミケランジェロ・ピストレット、内藤礼高松次郎オノデラユキ工藤哲巳荒川修作草間彌生、米田知子、アラヤー・ラートチャムルーンスック、シェリー・レヴィーン、テリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラー、饒加恩、加藤翼、塩見允枝子、池水慶一、小沢剛、ヒーメン・チョン

 

 国立国際美術館がアルベルト・ジャコメッティ(1901〜66)の彫刻作品《ヤナイハラ I》を新収蔵品としたことを記念してたっぷりと会期を取って開催されたこの展覧会。「I」ではジャコメッティ以前から同時代における美術動向から、「II」ではジャコメッティ以後における現代美術から国立国際美術館が所蔵している作品を展示するという形を取っていたが、そうすることによってモダンアートとコンテンポラリーアートの双方から、双方に越境しうる存在としてジャコメッティと《ヤナイハラ I》の真価を問い直すことが遂行的に行なわれていたことになるわけで、これは趣向としてなかなか面白かった。個人的にはテリーサ・ハバード/アレクサンダー・ビルヒラーの映像作品──パリに渡って美術を学びながらジャコメッティの愛人となるも挫折してアメリカに戻った女性の話をその息子が回顧する、という──に(「トラベラー」展以来)再見できたのが収穫。



・岡山芸術交流2019(9.27〜11.24、岡山市内各所)

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※出展作家:タレク・アトウィ、マシュー・バーニー、エティエンヌ・シャンボー、ポール・チャン、イアン・チェン、メリッサ・ダビン&アーロン・ダヴィッドソン、ジョン・ジェラード、ファビアン・ジロー&ラファエル・シボーニ、グラスビード、エリザベス・エナフ、エヴァ・ロエスト、フェルナンド・オルテガ、シーン・ラスペット、リリー・レイノー=ドゥヴァール、パメラ・ローゼンクランツ、ティノ・セーガル、ミカ・タジマ、ピエール・ユイグ

 

 2016年にリアム・ギリックをディレクターに迎えて開催されたが、それから三年経った今回はピエール・ユイグをディレクターに「IF THE SNAKE もし蛇が」という(いささか謎めいた)テーマでの開催に。《展覧会「もし蛇が」は、独立した一つの生命体である》(図録より)──ユイグは今回ディレクションするにあたって、以上のような形で展覧会を構成するよう作家や作品を選んだそうで、実際、ユイグ自身のも含めて、生命や情報科学技術、およびそれらが起動するアルゴリズムによってなされる異種交配が産み出すシステムを俎上に乗せたであろうことを思弁的に予感させる作品が多く、「一つの生命体」とは言い得て妙である。結果として自然と「テクノロジー」と人間という三項関係から出発することでエコロジーをめぐる「マイナー哲学」(ドゥルーズガタリ)を駆動させていたわけで、美術をそのような技芸へとバージョンアップさせようという不穏な試みをここまで大規模に行なったことは、非常に意義深い。《「既知」に束縛された合意形成に依拠する現実から旅立つためには、フィクションのもつ不確かな要素が必要だ》(図録より)。



・高柳恵里「性能、その他」展(1.26〜2.16、SAI Gallery)

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 日用品とそれを用いた行為自体を作品として提示することで、1990年代以降の日本現代美術界において特異な位置を占めてきている高柳恵里女史。SAI Galleryで数年ぶりとなる今回の個展では、何種類かの枝切りばさみと、それが切ったであろう枝が出展されていた。「このはさみはあのはさみの数倍切れ味がいい」というようなキャッチコピーはありふれているが、「切れ味」という数値化できる基準が全く想定できない観念に対して「数倍」という比較が果たして意味があるのかというところから出発しているそうで、そこから展開(?)された作品は、ものとは異なる観念・概念を、より正確には「このはさみはあのはさみの数倍切れ味がいい」と言うこと自体が遂行的に基準らしきものを作ってしまうという意味において実態をともなうものを主題にしているという点において、確かにコンセプチュアルではある。