井上裕加里の新作-近作について

f:id:atashika_ymyh:20170201092109j:plain

 過日、京都嵯峨芸術大学で開催されていた「韓日藝術通信」展(6.17~29 出展作家は下記)を見に行きましたが、日本側・韓国側ともども適度にモダンアート的な、あるいは適度にポリティカル(・コレクトネス的)な作品が多く並んでいた中、井上裕加里(1991~)女史の新作《ヘイトスピーチ》が出展作の中でも飛び抜けて問題作でした。たいていの場合、日本人作家と韓国人作家によるこの手のアンソロジー展においては、韓国人作家の「政治的なアレコレをダイレクトに主題とした作品」と日本人作家の「“非政治的な相貌のもとに展開される政治”が遂行的に露出している作品」とが――双方がそのことに意識的かどうかは措くとして――表裏一体をなしているものですが、この《ヘイトスピーチ》は、俎上にあげている政治や社会問題の直接性はもちろんのこと、作品自体が遂行的に予感させ展開させている政治性においても、そのようなありきたりな図式自体を破壊しかねないものがあったと言わなければならず、見ていて震撼しきり。

 

 近年の、ポピュリズムやショーヴィニズムの高まりを背景にした日韓関係の悪化にともない、主にネトウヨと俗称・蔑称される人々によって韓国政府や在日韓国人への差別的言動をともなったデモが頻発するようになり、つい最近ヘイトスピーチ対策法が成立したものの依然として問題は絶えていない――という一連の流れについてはここで改めて触れるまでもないでしょう。で、《ヘイトスピーチ》は、二分割された画面の片側で井上女史が日本における反韓デモで発せられたシュプレヒコールを日本語で再演し、もう片側で向かい合うようにして韓国における反日デモで発せられたシュプレヒコールを韓国語で再演するという10分間の映像作品となっています。ちょうど井上女史の一人二役で双方のデモの再演がコール&レスポンスしているようにしつらえられているわけですね。井上女史には二人の子供がそれぞれ日本語と韓国語で同じ童謡を歌いながら砂場で陣取り合戦に興じる様子を映した作品(《It’s a small world.》)がありますが、今回の《ヘイトスピーチ》は、映像の構成や日韓関係というトピックを俎上に乗せているという点において、その作品を発展的に継承させたものであると言えるでしょう。かような《ヘイトスピーチ》や《It’s a small world.》の他にも、井上女史には、「蛍の光」を日本、韓国、台湾の人がそれぞれに歌い継がれている歌詞で歌ったのを映した作品(《Auld Lang Syne》)や、ギャラリーの床に描かれた東アジアの地図上に黒船来航直前から現在に至るまでの日本の領土(や占領地)の変遷を描き加えたり消したりしていく作品、第二次大戦中毒ガスの研究製造が行なわれ現在はウサギが多く生息していることで観光地化している大久野島広島県)に自らバニーガール姿で乗りこんで往時の痕跡を様々に掘り起こしていくのを記録した作品(《Secret Information》)など、日本の近現代史を東アジアとの関係性の中に置き直して俎上に乗せ直す作品が多い。その際に真正面からというより搦め手から遊戯的に取り上げて作品化しているところに彼女の持ち味があるわけですが、そうして制作された作品は、その遊戯的な部分も含みこむという制作態度と合わせて、遂行的にある政治的な位相を開示していることに注目する必要があります――個々の争点や論点に対して一方の側に立つということとは違った位相における〈政治〉が(そして現代美術とは、この〈政治〉の位相に対してこそ介入するものではなかったか)。

 

 「答えは目の前にあり、見えていないのは問いである」――井上女史は自らの制作について、しばしばこのように述べています。かかる発言から、彼女の制作活動はその「問い」を可視化することで一貫していると考えられますが、それが日本の近現代史、とりわけ「戦後日本」と雑駁に呼ばれる時空間に対して向けられるとき、自身が知ってか知らずか、かつて(「68年革命」の一局面である)全共闘運動においてスローガン化されていたという「戦後民主主義批判」を回帰させているように、個人的には思うところ。

 

 この「戦後民主主義批判」、「戦後民主主義」を「批判」すると短絡されて、今日では(あるいは今日でも)この言葉からは改憲再軍備などなどといった右翼的な主張が連想されるところかもしれませんが、当時の「戦後民主主義批判」はいささかニュアンスが違っていたようでして、そのような左右対立を戦後民主主義左派と戦後民主主義右派の差異とみなした上で、その双方を、あるいは双方が無意識に立脚している基盤をこそ批判するものであった(少なくとも、その可能性があった)。スガ秀実氏はこの「戦後民主主義批判」を、――当事者たちの主観においてはどうあれ――戦後民主主義自体が新たな「戦時体制」にほかならないという認識から出てきたものと整理していますが(スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』(作品社、2003))、とするとそれは日本一国に限った話ではないわけで、このような認識はとりわけ日韓関係(あるいは日本と韓国の界面と言うべきでしょうか)において最も先鋭的な形で露呈することになるでしょう。今回の《ヘイトスピーチ》をはじめ、井上女史が日韓関係や日本と東アジアの関係をお題にするとき、合わせ鏡的な印象を観る側に与えるような手法を採用するのも、このゆえであるのかもしれません。それは趣味の問題である以上に〈政治〉の問題=「問い」の問題なのである。

 

 依然として「戦後民主主義」の枠内にとどまっているアーティストや展覧会が多い――そのこと自体は(改憲が現実的な過程に乗りつつある現在)仕方ない側面が大いにあるとしても――中で、彼女の姿勢は貴重であると言えるでしょう。

 

 韓日藝術通信@京都嵯峨芸術大学

※出展作家(日本側):河村啓生、宮岡俊夫、中屋敷智生、宇野和幸、入佐美南子、寺岡海、三輪田めぐみ、倉山裕昭、井上裕加里、山本直樹
※出展作家(韓国側):Park Jin-Myung、Park Young-Hak、Choi Boo-Yun、Yun Duk-Su、Lee Woo、Choi Min-Gun、Kwon Soon-Uk、Choi Kyu-Rak、Kim Ki-Hwan、Kim Ki-Young
※主催:藝術文化同人Saem
※後援:韓国文化芸術委員会、Chunbuk Cultural Foundation

上出惠悟「熊居樹孔」展

f:id:atashika_ymyh:20170201091831j:plain

 Yoshimi Artsで6.18~7.10の日程で開催の上出惠悟「熊居樹孔[ゆうきょじゅこう]」展。九谷焼の窯元である上出長右衛門窯の後継者として、九谷焼をベースにしつつも狭義の工芸にとどまらないコンセプチュアルで知的な想像力を豊かにたたえた作品を多くものしている上出氏ですが、今回は、昨年突如主題として導入されたという「熊」をフィーチャーした個展となっています。

 

 もともと近代以前の日本美術で熊が描かれたものが(その生息範囲の広さや人間の生活圏との近さに比べて)皆無に近いのはなぜなのかという疑問から熊への関心を強めていったという上出氏。そこから日本の昔ながらの民俗や山岳信仰について造詣を深め、作陶にフィードバックしていったといいますが、実際の出展作は以上のような過程や遍歴からイメージされるような泥臭さや民藝感が押し付けがましく露出したようなものとは限りなく違ったものとなっており、そこは個人的にきわめてポイント高。

 

 九谷焼の歴史に裏打ちされた歴史性を縦軸(時間軸)に、陶芸という行為や作品の持つトランスナショナリティや同時代性を横軸(空間軸)にした上で、双方の交点を陶磁器によって再演・再提示(representation)するところに上出氏の作品の魅力があるわけですが、熊やその周辺の民俗的な諸相(山岳信仰や異界観など)を新たな縦軸として提示した今回の出展作は、どの作品も熊と人間との接点に陶芸を置いて再演するというコンセプチュアルなロジックによって貫徹されており(個人的には熊の手をモティーフにした作品がなかなか良かったです)、それが今後どのような展開を見せていくことになるのか、目が離せないところです。

金サジ「STORY」展

f:id:atashika_ymyh:20170201091524j:plain

 蹴上にあるアートスペース虹で5.3~15の日程で開催されていた金サジ「STORY」展。写真作品を多く手がけている金女史の、同所では昨年に続く個展とのことですが、当方が彼女の作品に接するのは2012年にGallery PARCで行なわれた個展以来となります(爆)。

 

 今回は大判の写真作品が十点ほど展示されていました。どの作品もヴィヴィッドな色彩とともに民俗性や寓意性を観る側に印象づけるものとなっており、何がしかの大きなサーガのスチル写真といった相貌を見せていたわけで、その意味で「STORY」という展覧会タイトルに偽りなしといった趣。実際、金女史は昨年以来、自身のエスニシティと日本で生まれ育った記憶とを交差させることで「私という存在を確認するために、記憶をひとつひとつ紡ぎあげて、物語を作っていく」(フライヤーより)ことに主眼を置いた連作を制作しているそうで、(当方は未見ですが)昨年の出展作や今後の制作を通じて「わたしのための創世の物語」(ibid)を提示することを目指しているのだとか。その意味で、彼女自身のエスニシティや経験の記憶がストレートに反映されているというよりは、それらに由来する(であろう)自身の様々な情動が再演される舞台としての物語世界を構築する――本人は中二病がさらにキツくなったような感じと冗談めかして語ってましたが――ことに主眼が置かれていると言えるでしょう。それは、写真について語る際に写真を撮る身体にこだわっていることを強調していたことで、さらに際立っている。

 

 このような金女史の作品を見てついつい連想したのは、今冬から今春にかけて東京で開催された個展がいろいろな意味で話題になったシャルル・フレジェについてでした。SNSを瞥見するに、とりわけ銀座のメゾンエルメスで開催中の「YOKAINOSHIMA」展( http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/14259/ )での写真作品が東北の伝統的な祭りの衣装を被写体としていることに対して、それはオリエンタリズムではないのかいう疑義が提示されていた様子ですが、かようなフレジェ作品のキモはそこにではなく、むしろ被写体の造形的な形態への耽溺具合であり、文脈やら何やらを取り除いてフォーカスを合わせるフレームアップの巧みさにあると言わなければならない(それに、同時期に恵比寿のMEMで開催されていた個展「BRETONNES」展では、全く同じフレームアップを自国内ブルターニュ地方の女性の民俗衣装に対して行なっていたから、彼に対してオリエンタリズム云々というのは最初から的外れである)。

 

 ――寄り道は以上にとどめておきますが、金女史の写真もまた被写体(の一要素)へのフレームアップを意識的に採用しているという点においてフレジェと一定の共通性があると見ることができるでしょう。ただしここで大急ぎで付け加えなければならないのは、金女史の場合、かかるフレームアップによって写真家たる自分自身の身体が消去されずに逆に露呈しており、その点においてベクトルが逆を向いているということである。上述したように、金女史においては「物語を作っていく」ことが写真において目指されているわけですが、それは身体や存在をフレームアップによって獲得された透明な目線に解消することではなく、逆にそれへの抵抗として提示されているわけですね。言い換えるなら、彼女の作ろうとしている「物語」は、(私たちが通常そう理解するような)透明で滑らかな語りではなく、メディア/メディウムの――それは「身体の」と同義である――不透明性において語られる何かである。彼女の、写真を撮る身体へのこだわりを、私たちはかような角度から理解する必要があるでしょう。それが、今日の写真(論)のトレンドとどの程度交差しているかについては別問題だとしても。

佐川好弘「インスタント」展

f:id:atashika_ymyh:20170201091257j:plain

 枚方市にあるNote Galleryで4.10~5.1の日程で開催されていた佐川好弘「インスタント」展。佐川好弘(1983~)氏は関西を中心にゼロ年代前半から作家活動を続けていますが、今回は近作を中心に、オブジェ、パフォーマンスの記録映像、写真、陶、ZINE(2013年にモロッコでアーティスト・イン・レジデンスしたときの記録集といった趣のものでした)など様々なメディウムの作品が出展されており、ギャラリーの広さもあって大規模なものとは言えないものの、氏の最近の作家活動をコンパクトに棚卸ししたものとなっていました。

 

 とりわけ目を引いたのが「パワー」とポップな雰囲気のフォントで大書された二メートルほどの高さのバルーン作品と、これまたポップなフォントで「スピリチュアル」と大書された柔らか素材のオブジェ――いにしえのダッコちゃん人形のように腕に装着することができる――でして(画像参照)、初見でのインパクトはかなり大きかった。佐川氏はかように文字を使ったり図案化したりしたメッセージ性(?)とインパクト重視の作品を継続的に制作していますが、今回の出展作はとりわけ見た目のインパクトが強かったと言えるでしょう。で、それは、「パワー」の作品を、巷間パワースポットともてはやされている場所に置いて撮影するという写真作品(今回は屋久島の森の中に置かれている様子が撮影されてました)が併せて展示されていることによって、さらに強烈なものとなっていました。パワースポットとされる場所に「パワー」のオブジェを置くことで、どこか軽いおかしみを帯びた場所にニュアンスを変換させられた形で写真作品として再提示されているわけですから。で、そのような軽いおかしみというのは、モロッコでのアーティスト・イン・レジデンス時に行なわれた、「私は肉が食べたい」とアラビア文字で書かれたオブジェを背負って肉屋まで歩いていくというパフォーマンスによって、さらに如実に提示されることになるだろう。

 

 この作品に顕著なように、作品や自身の行為が持つメッセージ性などを、いろいろと脱臼させた形でときに場違いな形で伝えるというところに、少なくとも近年の佐川氏の作品のおかしみを見出すことができますし、「インスタント」という展覧会タイトルは、かかる軽いおかしみが展示作品を通じて見出されていることを考えるときわめて言い得て妙でありますが、しかしただおかしいだけではなく、その「おかしみ」を、一見するとお笑いにしか見えない作品を通して表現するという潮流――なぜか関西の現代美術界隈においてそれなりの蓄積があったりする――と接続させて提示していることにも注目する必要があるでしょう。

麥生田兵吾「Artificial S1 眠りは地平に落ちて地平」展

f:id:atashika_ymyh:20170201090504j:plain

 Gallery PARCで4.15~5.1の日程で開催されていた麥生田兵吾「Artificial S1 眠りは地平に落ちて地平」展。京都市内各所で毎年4月から5月にかけて同時多発的に開催されている写真展「Kyoto Graphie」のサテライト展といった位置づけの「KG+」の参加企画。Gallery PARCはここ数年この時期に麥生田氏の個展を開催し続けており、同ギャラリーの年中行事といった趣すらありますが、一人の写真家を個展という形で定点観測していくというのは、Kyoto Graphie・KG+を通じて他に例を見ないものとなっており、個人的にはどうも積極的に見に行く気にならない展覧会が多いKyoto Graphieの中にあって、かような試みは注目すべきものがあると言えるでしょう。

 

 2010年頃から自身のブログ「pile of photographys」( http://hyogom.com/pilephotos/ )上で毎日写真を掲載し続けている麥生田氏。これまでのGallery PARCでの個展では、そこにアップロードされた中から選ばれた写真を「Artificial S」という総題のもとに展示するという形で構成されてましたが、今回はその継続となるようなストレートフォト系の写真作品もある一方、管見の限りでは初見のコラージュ作品が何点か出展されていました(画像参照)。個人的にはコラージュ作品を最初に瞥見したとき、作風を根本的に変えようとしているのだろうかと軽く訝るところもないではなかったのですが、作品に向き合っているうちに作風の変更どころか「Artificial S」路線のこれまでとは別方向からの深化であることが感得され、麥生田氏の写真がクリティカルな強度を持っていることを別の角度から改めて認識する良い機会となりました。

 

 かかるクリティカルな強度は、このコラージュ作品のタイトルが《写真》であるというところに、きわめて如実に現われている。美術評論家の清水穰氏はどこかで、麥生田氏の写真作品について(意味やメッセージ性を乏しくした)引き算の論理によって構築された写真であると評していましたが、もちろんそれは氏をdisって言っているわけではなく、ともするとストレートな報道写真のような被写体自体のメッセージ性や、最近のメディウム/メディア論を導入した「画像」としての写真によく見られるような被写体どうしの――主にフォルムにおける――隠喩/換喩的な関係性が作品の価値判断の基準となることが自明視されている中において、それらが往々にして排除してしまう〈写真〉の位相を改めて俎上に乗せようとして戦略的に作られた乏しさであると考えられます。まさにArtificial。実際、《写真》においては、コラージュされた各要素は互いの意味的な連関や、それらが別のイメージを換喩的に指示したり生産したりするという(俗流シュルレアリスムが期待するような)機能が巧みに脱臼させられた形で配置されており、そのことによって関係性も無関係性もないという状態がコラージュという形で逆説的に露呈しているわけで。そのような状態こそが〈写真〉の位相にほかならない。

 

 最近の写真展の中では、先だって京都精華大学内のグループ展で見た迫鉄平氏の映像作品や写真作品と並んで、きわめてクリティカルな展覧会だったと言えるでしょう。

 

中小路萌美「色と形のこと」展

f:id:atashika_ymyh:20170201090756j:plain

 西天満にあるOギャラリーeyesで4.4~9の日程で開催されていた中小路萌美「色と形のこと」展。ここ数年、関西を中心に個展やグループ展を精力的に行なっている中小路萌美(1988〜)女史の、同所では昨年以来となる個展。大小合わせて十数点の絵画作品が出展されていました。

 

 自分で描いた風景画に描かれた様々なモティーフを切り取って色面に還元した上でコラージュし、それをモティーフにして改めて絵画を描くという手法をここ数年取り続けているという中小路女史。当方は一昨年にOギャラリーeyesで、昨年に(今はなき)ギャラリーすずきで彼女の個展に接したことがありますが、それらを受けての今回の個展でも着実に絵画的探求が深化しているように感じられ、個人的にはなかなか良かったです。ミニマルに構成された抽象画なのですが、その構成要素が以上のような形で見出されて使われていることで、どこか私たちの生きる生活世界との接点が残されているように見えるわけで、その意味で形態や色彩の存在感やせめぎ合いを見せることとは違った方向性を志向していると言えるでしょう。彼女自身は「言葉には上手くできない。/見えているけど見えていない。触れそうなのに触れない」や「アクリル板で隔たれた向こう側」と表現していますが、「色と形のこと」というタイトルとあわせて、言い得て妙である。

 

 今回の個展では、画面の構成要素である形態がもともと風景画であったことの痕跡が観る側にも見出だせるようにしつらえられていたり、別の風景を構成するかのように配置されたりした作品もあって、「「向こう側」の世界」の描き方の幅が広がってきているように個人的には感じられました。このあたりの微妙な変化にも注視する必要がありそうです。

亜鶴「CARTOON」展

f:id:atashika_ymyh:20170201090158j:plain

 谷町六丁目にあるspectrum galleryで3.18~28の日程で開催されていた亜鶴「CARTOON」展。関西を中心にしつつ、先だって原爆の図丸木美術館(埼玉県)で開催されて話題となった「私戦と風景」展の出展作家に名を連ねるなど着実に調子を上げてきている感のある亜鶴氏の、関西では久々となる個展。

 

 そんな亜鶴氏の作品は、グラフィティやタグといったストリートアート(という言い方が適当かどうかは議論の余地があるでしょうけど…)との連続性を観る側に強く意識させるようなカラーリングや生々しいストロークで人物を正面から捉えた絵画が多く、それは今回のCARTOON展でも同様でしたが、個人的には新作の小品二点に強く惹かれるところ。氏の人物画の特質の一つとして、輪郭などが素早いタッチのストロークに解体されていても眼はリアルに描かれていることをあげることができ、それが観る側に対するフックとなって強い印象を与えていると言えるでしょうが、これら(画像参照)ではその眼も記号的なものとなっている。そのことによって、画面は視覚的なフックを欠いたオールオーヴァーなものにより近しくなっているわけですが、ストリートの壁から直接切り取られたかのような生々しさと、ストロークやオールオーヴァーな構成が必然的に招来させる「(モダンモダニズム的な意味で)絵画的なもの」との緊張感が画面に横溢していて、かかるモダンモダニズムに相対的に親しい当方的にも瞠目しきりでした。

 

 キワモノかと思いきや、いやいやなかなか侮れません。今後に要注目。