ちょっと東京行ってました

 当方9月7日〜10日の日程で東京に行っておりました。向こうでやっている展覧会の中からめぼしいものを見に行ったり、知人と会ってきたり。

 以下、この四日間で見てきた展覧会の一覧です↓


◯9月7日
 ・「特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」展@東京都現代美術館
 ・「FUTURE BEAUTY 日本ファッションの未来性」展@同上
 ・「MOTコレクション「特別展示|オノサト・トシノブ――福原コレクションを中心に」「新収蔵品展|アニッシュ・カプーア、曽根裕、奈良美智、櫃田伸也、小瀬村真美」「作品の名前|1960-80年代の美術から」」@同上
 ・木戸龍介「Inner Light」展@同上
 ・境澤邦泰展@鎌倉画廊
 ・橋本聡「偽名」@東京国立近代美術館


◯9月8日
 ・「特集展示 斎藤義重 1980年代以降を中心に」展@千葉市美術館
 ・松江泰治「jp0205」展@TARO NASU
 ・浅見貴子展@gallery αM
 ・佐藤好彦展@ラディウム・レントゲンヴェルケ
 ・村上綾「fragments of landscape」展@アルマスギャラリー
 ・勝又邦彦、新井卓、廣瀬遥香、Ruud van Empel「OVER THE REALITY」展@GALLERY TERRA TOKYO
 ・福原寛重「Recursion」展@AI KOWADA GALLERY
 ・Ryan McGinley「Reach Out, I'm Right Here.」展@小山登美夫ギャラリー
 ・榎倉康二「記写」展@タカ・イシイギャラリー
 ・池田光弘「location/dislocation」展@シュウゴアーツ
 ・稲垣遊「ほとり」展@Fukagawa Bansho Gallery


◯9月9日
 ・「「具体」――ニッポンの前衛18年の軌跡」展@国立新美術館
 ・辰野登恵子・柴田敏雄「与えられた形象」展@同上
 ・のぎすみこ「やさしくて攻撃てき」展@TOKIO OUT of PLACE
 ・「藤浩志の美術展 セントラルかえるステーション〜なぜこんなにおもちゃが集まるのか〜」展@アーツ千代田3331 メインギャラリー
 ・加納俊輔・高橋耕平「パズルと反芻」展@island medium
 ・「シークレット・オークション 娘一人に婿八人」展@command N/↑(コマンドNシフト)
 ・黒田アキ展@MORI YU GALLERY TOKYO
 ・西村知己「アニマ」展@3331 GALLERY


◯9月10日
 ・「美の予感―2012 陶・New Generation」展@日本橋高島屋6階美術画廊
 ・小沢裕子×村山悟郎「「私」のあらわれ」展@日本橋高島屋6階美術画廊X
 ・依田洋一郎「Breakfast is important」展@南天子画廊
 ・高田茉依「コピペ」展@art space kimura ASK?
 ・和泉賢太郎「smile」展@ASK? P
 ・磯野迪子「LOOKING AT WINDOWS」展@LIXILギャラリー
 ・渋谷英一「陶 モノクローム モノローグ」展@LIXILギャラリー ガレリアセラミカ
 ・松浦寿夫展@なびす画廊
 ・中ザワヒデキ「Systems and methods in hidden functions」展@The Container
 ・Ryan McGinley「animals」展@小山登美夫ギャラリー渋谷ヒカリエ 8/ 内)
 ・「RADICAL SHOW 2012 SOLO SHOW 01:田中裕子」展@渋谷ヒカリエ 8/ CUBE 1
 ・「RADICAL SHOW 2012 SOLO SHOW 02:江畑芳」展@渋谷ヒカリエ 8/ CUBE 2
 ・「RADICAL SHOW 2012 SOLO SHOW 03:井上康子」展@渋谷ヒカリエ 8/ CUBE 3

「リアル・ジャパネスク 世界の中の日本現代美術」展

 国立国際美術館で開催中の「リアル・ジャパネスク 世界の中の日本現代美術」展(以下RJ展と略)。《20世紀後半における欧米美術の進展の行き詰まりにつづく価値の多様化、1960年代生まれの美術家の仕事の超克、美術情報の氾濫――こうした問題を克服して、真に新しい美術作品を制作することが、1970年以降に日本に生まれた美術家の課題かもしれません》(同展チラシより)という問題意識のもと、70年代〜80年代生まれの9人の現代美術家の作品が展示されている。

 ◯今回の出展者(五十音順、敬称略)
 泉太郎(1976〜)、大野智史(1980〜)、貴志真生也(1986〜)、佐藤克久(1973〜)、五月女哲平(1980〜)、竹川宣彰(1977〜)、竹崎和征(1976〜)、南川史門(1972〜)、和田真由子(1985〜)


 さておき、会場は上記の各作家ごとにスペースを区切って展示しており、画廊街をハシゴして各作家の個展を見て回るような、あるいは移転前の国立国際美術館が定期的に行なっていた近作展をリニューアルしたような按配にしつらえられていた。出展されていた作品のジャンルも絵画や立体、映像、インスタレーション、何ともつかないシロモノと多岐にわたっていたし、それぞれのジャンル内でも傾向は全く異なっていたわけで、少なくともそのような作品に内在的なアプローチからは、出展者の世代-年代以外の共通点(まぁそれとて微視的に見ればバラツキが大きすぎると言えなくもないのだが)を出展作から見出すことはほとんど不可能であると言ってもいいだろう。このこと自体は、様々な美術家・アーティストがいて様々な潮流が明示的にも暗示的にも存在しそれらが相互にかつ全世界的に接続されているような現在の情勢を端的に再現していると言えなくもないのだが、そうなるといかなる視角からどういった面々の作品を通してかような情勢に介入するかというキュレーター側の姿勢やセンスが問われてくるのもまた、事実といえば事実なわけで、そういった要素が通常のアンソロジー展と較べてもかなり突出していたと言ってもあながち揚言ではないのかもしれない。その意味では、良くも悪くも見る側に割と高めのハードルが設定された展覧会だったと言えるだろう。しかしながらその割にはキュレーター側のかかる姿勢や認識を観客側がくみ取り、解析するための材料となりうるような作品以外の要素があまりにも少なすぎるように個人的には感じられることしきりではあり、その点については、作品そのものに向き合うことをまずは意図しているからだとしても、不親切の謗りを免れ得まい――平たく言うと、図録の類が作られていないというのは、この手のアンソロジー展としてはいささかマズいのではないだろうか。常設展フロアで同時開催されている「〈私〉の解体へ 柏原えつとむの場合」展では超絶的な質と量の資料集が作られていた(しかも完売寸前だった)だけに、余計である。

 ――何かイヤ言から入ってしまったが、出展作の方はそれとは関係なくエッジの効いた作品が揃っており、普通に見入ってしまうことしきり。様々な探求によって確立されたスタイルを高いレヴェルで端的に表現した作品や、そこにとどまらない新展開を見る側に予感させるような作品が揃っており、ほよほよと見ていても興味深いところ。発泡スチロールや角材などを組み合わせつつもそこに何らかの意味やイメージが発生することが巧妙に避けられている貴志真生也氏のオブジェや、シンプルにデフォルメされた人物と縞模様や水玉といったモティーフが描かれた絵画を並べて展示した南川史門氏、あとは佐藤克久氏、竹崎和征氏の平面作品が個人的には気になることしきりだった。以上の面々の作品に端的な形で現われていたように、このRJ展は「日本現代美術」というテーマから即座に連想されるような、「「現代美術」から「現代アート」への移行」を象徴するような諸動向――90年代以降本格的に進んだオタク文化の導入や、欧米発のニューペインティングに触発されたとおぼしき「(キャラクターを描くことも含めた)具象画への回帰」現象、インターネットの発達によって爆発的に拡散されたメディアアートの諸動向、など――をあえて(?)微妙に外したチョイスが施されており*1、しかも作品として強固にフレーミングされているというよりも、どこか不定形さや未完成さを残しているような印象を見る側に与えるようなものが割と集中的に展示されていたわけで(これは貴志氏や佐藤氏、和田真由子女史の作品に顕著だった)、ここにRJ展のアクチュアリティを見出すことが可能かもしれない*2

 かかる観点から見たとき、個人的に最も興味深かったのは泉太郎氏の出展作。テレビに映っている人の輪郭をブラウン管に直接ドローイングしてなぞっていく(で、画面の向こうのその人が動くたびに次々と一からやり直していく)という《キュロス洞》(2005)などの、一発芸的アイデアを速攻でやってみた的な方法論で不定型なシチュエーションと折衝していくといった按配の映像作品で知られる泉氏だが、今回出展していたのは数点の映像作品と、それに使われたりそうでもなかったりな立体作品だった。とりわけ面白かったのは、《コルセット(図書館)》と《無題》という二点の映像+オブジェ作品で、前者は黒板を楕円状に切って作られた謎オブジェに泉氏ともう一人が向かい合わせ入り、黒板の上を、氏はチョークで文字を書きながらほふく後退していき、もう一人はほふく前進していくという形でぐるぐる回り続けるというもの――つまり泉氏の書いた文字をもう一人が即座に消していく様子が延々映し出されるわけである――であり、後者は展示スペースの設営中にウサギを放ち、氏がそれを間近でガン見しながら気づいたことをどんどんチョークで床(泉氏の展示スペースだけ床全体が黒板になっているのだ)に書いていく。ウサギが動くと氏も移動して同じことを繰り返していき、結果として床一面にウサギについてのメモ書きが乱舞している、という按配。で、実際、展示スペースには、以上の一連の過程を収めた映像が大画面にプロジェクションされている、という。上述した《キュロス洞》同様、ここでも、移ろいゆく不定型なものであるシチュエーションと作者との折衝が、シチュエーションの不定型さを自ら再演してみせるといういささかパラノイアックな所作を通して行なわれているのである。一般的な傾向として関西では泉氏の作品に接することはなかなか稀であり、そういうこともあってか、氏の出展は開催前から話題となり期待感も高まっていた様子だったのだが、少なくとも当方的には期待以上のものが見られた次第*3

 その上で、これらの作品が、というか泉氏の出展自体が、RJ展の位置づけないしこの展覧会が意図しているであろう日本現代美術の諸動静に対する批評的介入について考える上で重要なピースをなしているように、個人的には思うところ。既に触れたように、RJ展においては出展作のジャンルはバラバラながらも、不定型さや不安定さ、未完成さといった要素を漠然と見る側に抱かせるような作品が集中的に並んでいたのだが、ところでかような傾向はRJ展において突如クローズアップされたわけではなく、少なくとも「MOTアニュアル ひそやかなラディカリズム」(1999.1.15〜3.28 東京都現代美術館)展*4と「夏への扉 マイクロポップの時代」展(2007.2.3〜5.6 水戸芸術館)展*5の二つを重要な先行例としていると見ることができる。特に後者は美術評論家の松井みどり女史が〈マイクロポップ〉というコンセプトをキャッチフレーズ的に全面に押し出してキュレーションしたことで話題となったものだが、そこでフィーチャーされていた〈マイクロポップ〉が「制度的な倫理や主要なイデオロギーに頼らず、様々なところから集めた断片を統合して、独自の生き方の道筋や美学をつくり出す姿勢」*6という定義のもとで使われており、その残響がRJ展をも規定していると言っても、あながち的外れではあるまい。そしてこの「夏への扉 マイクロポップの時代」展には泉氏も出展していたわけで、こういったところに、RJ展の“〈マイクロポップ〉再考”という側面を(ムリヤリにでも)見出すことが必要なのかもしれない。「「現代美術」から「現代アート」への移行」を象徴するような諸動向からあえて目を外すことで見えてくる光景が、ここで俎上に乗せられることになる――単なるポップアートではなく今や「「「現代日本のポップ」たりうる作品であること」はいかにして可能か」が問題になってくる。

 ――「「現代日本のポップ」たりうる作品であること」はいかにして可能か。もとより一朝一夕に答えが出るはずもないし、ここでも結局答えは出せないのだが、この問題系について考える上で有力な補助線になりうるのは、椹木野衣氏の『日本・現代・美術』である。同書については、氏が戦後日本の文化や社会全般に広く見られるある種の堂々巡りの傾向に対して提示した〈悪い場所〉という言葉が一種のキャッチフレーズのように流通したものだが、しかしこの言葉だけが独り歩きした結果、他の論点や概念に対する検討どころか再利用すら行なわれてこなかったのもまた、事実といえば事実。あるいは、いささか皮肉めいた話になるが、現在の時点から見たとき、同書に対するかような受容のされ方それ自体が〈悪い場所〉の徴候であったと言えるかもしれない。それはともかく、椹木氏は日本におけるポップアートの導入〜展開を、1980年代以前と90年代以降の差異を強調して叙述するにあたり「反映のポップ」と「還元のポップ」というキーワードを用いており、それはRJ展に至る傾向を解析する上で、なかなか示唆的である。

 ちまたにあふれかえった商品によって彩られた消費生活を如実に反映しているという意味においては、これらはいずれも六〇年代のアメリカに現われたポップ・アートの、遅れてきた日本版であると括ることもできるからだ。しかし、六〇年代におけるアメリカのポップ・アートからしてすでに、消費生活の素朴な反映であると説明されつつも、その枠からあからさまにはみ出す作家も少なくなく、実際にポップな意識のあり方の可能性の中心を示したのも、じつはそのようなはみ出し組であった。したがって、彼らの「ポップ・アート」が、風景画が自然を、肖像画が人物を描写するような意味で「消費生活」を反映するたぐいのリアリズムでなかったことはいうまでもない。むしろ彼らは、自分たちの生が拘束されている「いまここ」の成立する条件を提示することにおいてこそ、「ポップ」たりえたのであったし、それはけっして「反映」などではなく、むしろ「還元」と呼ぶべき性質のものだった。そして、八〇年代から九〇年代においてにわかに勃興したこれら「遅れてきたポップ・アート」にも、以上のような二面性は存在した。「反映」のポップと「還元」のポップからなるこの対比は、バブル期のポップとバブル崩壊以後のポップに、ほぼ該当するのである。*7

ポップアートの特徴を述べる際に“大衆消費社会の時代の美術”というフレーズが当たり前のように使われていることは議論の余地がなく、そしてそのこと自体は決して間違いではないのだが、ポップアートに事の始まりから「「消費生活」を反映するたぐいのリアリズム」という以上の契機が存在し、かかる契機を明るみに出して加速させていくこと(=「還元のポップ」)こそが「ポップな意識のあり方の可能性の中心」ではないかという椹木氏の指摘は、きわめて重要である。氏は同書の別の箇所で《それまでの日本における現代の美術の流れからすると、あからさまな断絶を感じさせ、軽さというよりは多分に風俗的であり、ときには破廉恥なまでの悪意に満ちた作品が現われはじめた》*8と90年代初頭の現代美術のある種の傾向性について述べているが、それは悪意のための悪意ではなく、現代日本という時空間に対する批評を大衆消費社会の中で行なう、そのための視座を内部に確保する――なぜなら(語の最も純粋な意味での)外部はもはや存在しないのだから――試みのための悪意なのである。「ポップな意識のあり方の可能性の中心」とは、かかる試みのことにほかならない。

 ――しかしながら、現在の時点から改めて見ていったとき、同書における「反映のポップ」から「還元のポップ」へという日本におけるポップアートの変容が、その根底において資本主義経済の社会的変容とパラレルなものであり、それが、市場を通じた自由な生産と交換が称揚される一方でローカルには制度的な統制と動員というモーメントが全面化している、という二面性を持って進行していったこと*9を考慮に入れる必要があるのもまた、事実といえば事実であろう。かような要素を通してポップアートを考え直していくと、「還元のポップ」以降のありようが見えてくる――ありていに言うと、「還元のポップ」は、かかるモーメントとシンクロすることによって作家や作品を「世界市場」に登録-流通させる「動員のポップ」へとバージョンアップしている*10一方で、それとは逆の、「動員解除のポップ」とでも言うべきモーメントにもつながっているのではないか。

矢部 (略)しかし一方で、新自由主義が推し進めている雇用の流動化というのが、僕らのような二〇代、三〇代の労働者を直撃していて、「労働者の外国人化」とか「資本からの労働の排除」ということが進行している。僕らのような半失業状態にある人間というのは、生産からも戦争からもあらかじめ排除されているんじゃないか。最初から最後まで戦争にタッチできなくて、協力も拒否もありえないような、埒外に置かれてしまった人間じゃないかと思うんです。そのあたりをじっくりと考えないといけないんではないか、と。いま戦争報道では、「国民」という言い方は滅多にしなくて、代わりに「現地住民」という言い方をするんだけど、この「住民」という呼び方に象徴されるような、排除された人口が、世界中に拡がっているんではないか、と。


酒井 総動員の時代の反戦から、動員解除の時代の反戦へ、ということだよね。(略)いずれにしても「新しい戦争」は総力戦的な総住民の動員に基づく戦争のヴィジョンを変えつつある。それは、いわゆる搾取すらされない人間の生産と相伴っているわけだろうけど。日本でも多くの人間は、ただの障害物になっちゃうのかな。自衛隊が住民を誘導して、「はいはい、ここは入らないでね」って規制されるというだけの(笑)、動員対象じゃなく、ただの交通整理の対象でしかない。このある種、ひっかかりの無さから、反戦をどう立ち上げていくのかというのが課題だ、ということでしょうか?


矢部 搾取はされるんですけどね。消費税とか、社会保障の削減とか、戦費のツケは確実に回ってくる。ただ、徴兵されたり、労働を徴発されたりすることはないでしょう。やりますっつっても、おまえはいらねって言われるでしょう。そうなると、僕らが直面する国内的な矛盾というのは、戦争に固有なものとしてイメージすることは難しい。むしろ、一旦戦争という問題から離れて、税制の逆進化とか、社会保障の削減とか、失業、排除、棄民化、という課題を共有していかないといけない。でも、「棄民化に抗して闘う」ってのは、すごく難しい課題ですよ。だって、権力側と人民側との力関係を担保していたのは、労働と兵役じゃないですか。それをいらねって言われちゃったら、もう、ブツとしての障害物に徹するしかない。これは相当きびしい。*11


 上にあげた酒井隆史氏と矢部四郎氏の対談自体は「戦争」や「反戦」云々という文脈において行なわれたものであるが(もともとイラク戦争(2003)前後の時期に雑誌に掲載されたものなので)、この対談において酒井氏が発している「動員解除の時代」という判断は、現代美術ないし現代アートについて考える上でもきわめて重要であると言えるだろう。今日の、杜撰にも“グローバリゼーション”の一言で言い表されるような資本主義経済の社会的変容は、実際にはローカルな位相における「動員」と「動員解除」との二面性を持っており、現在の日本において、ことに20代・30代の美術家やアーティストのリアリティの大部分を形作っているのは「動員解除」という側面なのではないか――そのようなことを考えさせられるわけで。「自分たちの生が拘束されている「いまここ」の成立する条件」から自分たちはあらかじめ解放されているという認識。作品に漂う不定性や未完成性から漂ってくる帰属感のなさ*12。そのような認識の実践としての〈マイクロポップ〉。

 ――既にだいぶ迂回しまくっているのでアレなのだが、RJ展が何がしかのアクチュアリティを得ているとすると、それは〈マイクロポップ〉が持っていた側面をさらにラディカルに推し進めていることで、あるいは2008年の金融危機以後の世界経済のリセッション状態を経た後でかような展示をすることで、「動員解除のポップ」というムーヴメントをさらにクリティカルなものとして提示しているというところに求めることができるだろう。でも、そうだとしても、やはり何がしかのフォローが必要だというのはあるわけで。そこが惜しい。

*1:とはいえ、こういった傾向がRJ展から完全に排除されているわけではなく、架空の海賊団に仮託して、現代(日本)社会の諸問題を大航海時代-『ONE PIECE』的ガジェットに落としこんだ竹川宣彰氏の作品や、大画面に幽霊化された自画像や森などを描いた大野智史氏の作品は、「現代美術」から「現代アート」への移行という動向にかなり沿ったものとして展示されていたように見える。

*2:実際、(事実上のRJ展マニフェストである)チラシの文章には次のように書かれている――《「リアル・ジャパネスク」の出品作家9名は、そうした見極め難い美術状況のもとで、欧米の模倣、日本美術への回帰、あるいはショーアップした展示への依存など、近年よく見かける方法とは距離をとっています。この9名の作品は、過去の様々な美術作品や生活の中で経験する物作り等からの柔軟な方法の選択、視覚表現の謎の日本的感性による探求が主な特徴となっています。(略)巨視的に言えば、直面した美術状況への知的で誠実な対応の結果であるにとどまらず、1970年代・80年代に日本に生まれた者としての子供・学校時代の経験をも作品に結びつけています。その意味で「日本の美術作品として意義あるもの」という明治以降の課題のひとつの解答とも見なせるのではないでしょうか》

*3:まぁ《無題》に関しては、鑑賞者が歩くことでメモ書きがこすれて消えていくように仕立てられていたらより良かったかもしれないが(←ムチャ振り)

*4:出展作家は以下のとおり(順不同・敬称略)――内藤礼、関口国雄、杉戸洋、高柳恵里、丸山直文、吉田哲也、中沢研、河田政樹、小沢剛

*5:出展作家は以下のとおり(順不同・敬称略)――島袋道浩、青木陵子落合多武野口里佳杉戸洋奈良美智、有馬かおる、タカノ綾、森千裕、泉太郎、國方真秀未大木裕之半田真規田中功起、K.K.

*6:松井みどりマイクロポップ宣言:マイクロポップとは何か」(『マイクロポップの時代:夏への扉』(PARCO出版、2007)所収)

*7:椹木野衣『日本・現代・美術』(新潮社 1998)p50-51

*8:ibid. p50

*9:例えば、マイケル・ポランニーが描写している資本主義の原風景的な光景を参照のこと《自由市場への途は、集権的に組織され管理された継続的な干渉主義の飛躍的強化によって拓かれ、維持された。アダム・スミスの言う「単純で自然な自由」を人間社会の要求と両立させることはきわめて面倒な仕事だった。このことを知るには、たとえば無数の囲い込み法の諸法規の複雑さ、エリザベス女王の治世以来、初めて中央当局の効率的監督を受けることになった新救貧法の運営に必要とされた官僚統制の大きさ、そしてまた自治体改革という意義ある仕事に伴う政府管理の強化、等々をみればよい。だが、こうした政府干渉の砦は、すべてなんらかの単純な自由――たとえば、土地、労働、自治体管理の自由など――を組織する目的で築きあげられたものである。労働節約的な機械が、期待に反して人間労働の使用を減少させず、実際には増大させたのと同じように、自由市場の導入は、管理、統制、干渉の必要性を取り除くどころか、その範囲を途方もなく広げさせたのである》(マイケル・ポランニー(吉沢秀也他(訳))『大転換――市場経済の形成と崩壊』(東洋経済新報社、1975)p190-191)

*10:だから余談になるが、90年代において「反映のポップ」から「還元のポップ」への移行の領導役を果たした村上隆氏が、ゼロ年代において自身率いる工房(ヒロポンファクトリー→kaikai kiki)を企業化したり、著書『芸術起業論』(幻冬舎、2006)においてアーティストをアントレプレナーと位置づけたりしたのも、かような資本主義経済の社会的変容の二面性へのリアクションであったという観点から見ると、なるほど理に適ってはいるわけで。してみると、ゼロ年代において自身が領導していった「動員のポップ」を回すための論理や言葉が(「動員のポップ」と同時期に進行していった)「動員解除のポップ」に対する適応不全を引き起こすという事態が今後問題になってくるのかもしれない――というか、それは、既に始まっているのではないのか。

*11:酒井隆史×矢部史郎「最悪は、最高だ」(『情況』2003年4月号別冊所収)

*12:また余談になるが、椹木氏は2006年の時点で、ゼロ年代に制作活動を始めた美術家たち(文中では“ゼロゼロジェネレーション”と名付けられている)の特徴を「帰属を失った身体(表象)への容赦ない視線、それが生み出す徹底した技巧の行使による没主体的な生成としての内向」とまとめた上で、今後彼らにとっては――そう明示されないにしても――中原浩大氏の存在が強い意味を持ってくるのではないかと書いているが(椹木野衣「〈内向〉の技法、帰属なき〈表象〉――ゼロゼロ・ジェネレーションという時代」(『美術手帖』2006年7月号所収))、かかる知見から「動員解除のポップ」を考察していったとき、加えて小沢剛氏の存在も重要になってくるかもしれない。

「Blind Spot vol. 1 写真の現在」

 河原町三条にあるMedia Shopにて5月23日に開催された「Blind Spot vol. 1 写真の現在」。タイトルからも分かるように、「写真」について、写真家(本人は「美術作家」と自称しているそうだ)の鈴木崇(1971〜)氏と写真史研究家の林田新(1980〜)氏が縦横に語っていくといった趣のトークショーで、今後「Vol.2 写真の過去」、「Vol.3 写真の未来」(いずれも仮称、予定は未定)が予定されているとのこと。


 《現在、写真を使った表現は、芸術ジャンルの一つとして認識されているといってもよいでしょう。その一方で、写真は様々な領域を超えて、広く私達の日常に浸透し、それが置かれているコンテクストに応じて、芸術作品、広告、出来事の記録、思い出の品として、多様な表情を見せています。では、写真が芸術作品であることの条件とは果たして何なのでしょうか? 本イベントは、作家・鈴木崇が常日頃から思いを巡らせているこうした疑問に端を発しています。水のように掴みどころの無い写真に何が枠を与えているのかを見定めていくために、本イベントでは写真史研究者・林田新とともに、2世紀に渡って蓄積されてきた写真の歴史に目を向けて行きます。緩やかに、けれども真正面から写真の来し方行く末に思いを巡らせ、写真について語らう場を創設するべく、作家、研究者、キュレーター、さらには御来場いただく皆さまを交えた公開ミーティングを行ないます》(告知チラシより)――以上のような問題意識のもと、今回は上述の二人に加え、愛知県美術館学芸員をしている中村史子女史をゲストに迎えて行なわれた次第。平日夜にもかかわらず、会場は立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。


 さておき、トークショーは最初に鈴木崇氏が自身の遍歴や自作のプレゼンを通して写真について考えていることを語ることから始まった。鈴木氏は1990年代に渡米して向こうの美術大学で写真を学んだそうで、プレゼンはそのあたりの話から入っていった――アメリカで写真の正史(アルフレッド・スティグリッツに始まり、ウォーカー・エヴァンスロバート・フランク、ロバート・アダムス、ルイス・ボルス、最近の(といっても70〜80年代なのだが)エグルストンという流れ)と“写真とはまずもってドキュメントである”という認識を教えこまれた鈴木氏は、しかし1995年ごろに荒木経惟氏の展覧会で彼の写真作品を見て、今まで自分が勉強してきたアメリカ写真の正史とまったく異なる作品群に深い衝撃を受けることに。さらに後年トーマス・シュトルートの写真にも衝撃を受けた氏は渡独してシュトルートのスタジオでアシスタントなどを務め、帰国後写真作品を発表していくのだが、これらの一連の経験を通して“写真とは(写されている状況や被写体のパブリック/プライベートを問わず)ドキュメントである”というアメリカ写真史の正史と異なる美術写真の系譜に直面するわけで。で、そこから「写真」とは結局のところ何なのかについて考えざるを得なくなり、写真というものをいかにそれ自体として――つまり被写体の記録性という要素に還元させることなく――見せるかを写真作品を通して考察するような、きわめて自己言及的な作品を撮っていくことになる。それは、近作では、例えばものの影を撮影した《ARCA》シリーズや、スポンジで作られた抽象的とも具象的ともつかないオブジェをストレートに撮影する《BAU》シリーズに、顕著に現われることになるだろう……


 ――鈴木氏のプレゼンを超乱暴に要約すると概ね以上のようになり、ここから林田新氏のコメンタリ→中村史子女史を交えた三氏による鼎談→フロアとの質疑応答という流れで進行していったのだが、あらかじめ論点を先回りしておくと、基本的には鈴木氏のプレゼンで問われた「「写真」とは結局のところ何なのか」「写真について考えることとはどういうことなのか」、そしてこれらの問いの原点に措定される「写真の“とりとめのなさ”について」という問いの周りをグルグル回っていく形で進行していったと言えよう。


 実際、林田氏のコメンタリは、写真が現在のように美術ジャンルの一つとして認識されている状況の前史、つまり少なからざる人々によって、写真がいかなる資格において美術の一ジャンルたることが要請され構成されていったかを「medium specificity(メディウムとしての特異性)」という言葉をキーワードにしてトレースしていくことが話題の中心となっていた。そしてその際medium specificityはモダニズムの文脈とポストモダンの文脈の双方において持ち出され、美術に接続されようとしたのではないか、と――もう少し具体的に言うと、モダニズムの文脈からの medium specificityの強調は写真が記録・ドキュメントであるということを基点にして主に絵画との差異を強調することによってなされ、一方、ポストモダンの文脈からの medium specificityの強調は、70年代後半から80年代前半にかけて非白人や女性の美術家が写真を重要な表現手段として登場してくるという文脈を基点に、こういった写真作品(とその作者)が「“白人・男性・知識人中心のアートではない”アート」として提示されることによってなされてきた、というわけである。だが、林田氏のコメンタリのキモは、現在においては、ほかならぬ「写真」自体がこれらのmedium specificityをすり抜けてしまうようなものになっているということであるというところにあるのではないか。内容の多様性という点においても(鈴木氏が荒木氏の写真を見たときの驚きというのは、この点にかかわってくる)、物理的な量の多さ(「写真は様々な領域を超えて、広く私達の日常に浸透し、それが置かれているコンテクストに応じて、芸術作品、広告、出来事の記録、思い出の品として、多様な表情を見せています」という現実)という点においても。

(続く)

公開研究会「市田良彦『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)をめぐって」

 京都大学にて4月21日に行われた「公開研究会「市田良彦『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)をめぐって」」。京都大学人文科学研究所内の研究班「ヨーロッパ現代思想と政治」(http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~philo-politics/)の研究会活動の一環として、この研究班の班長である市田良彦氏が最近上梓した『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書、以下『革命論』と略)の公開合評会といった趣で開催されたもので、市田氏の他、研究班内からは小泉義之氏と王寺賢太氏(MC)、そしてスペシャルゲスト(?)として『スピノザの方法』(みすず書房)や『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)といった著書で知られる高崎経済大学准教授の國分功一郎氏がコメンテーターとして出席していた。会場には研究会メンバーのほか、浅田彰氏やスガ秀実氏の姿もあり、聴衆も濃いメンバーやなぁと思うことしきり。

 この『革命論』、そのタイトルから反射的に連想されるような(あるいは読者がなんとなく期待するような)トピック――「どうして革命は起こるのか」「誰がいかにして革命を起こすのか」というような――についての実践的・説明的な著書というわけではなく、「革命」と呼ばれる、諸々の政治-行政過程に回収されないばかりかその政治-行政過程そのものに対する例外状態として生起する事象について、それが「例外状態」であるということをギリギリまで放棄することなく思考し続けた一群の哲学者――同書の言葉で言い換えると「革命をその例外性に忠実に思考しようとした哲学」(同書p21)者たちについての著作であることはとりあえず押さえておく必要があるだろう。で、同書においてその一群の哲学者として取り上げられているのは、アルチュセールフーコーデリダドゥルーズ、ネグリ、アガンベンバディウ、ナンシー、ラクー=ラバルト、マトロン、ズーラビクヴィリetcといった面々であり、彼らが思索を展開していった「68年革命」以後のフランスの知的・政治的状況が適宜参照されながら素描されていくことになる、といった按配。当方は二月に京大で開催されたシンポジウム「人文研アカデミー 日本からみた68年5月」(そのときのことについてはこちら)で先行販売されていたのを購入して読了したのだが、内容的にはよく分かる部分・激しく同意できる部分となるほどさっぱりわからんな部分とがまだら状に混ざり合っている*1という奇妙な読後感だったわけで、そんな著書をめぐってどのような議論が展開されるのか、普通に気になることしきりだった次第。

 さておき、研究会は最初に市田氏から『革命論』への補足的なプレゼンテーションが行われ、そこから國分氏と小泉氏によるツッコミコメントと質疑応答を経て、出席していた研究会メンバーによる討論という形で進行していった。市田氏が発表したのは氏が『革命論』を書くに至った現実的な背景についての説明と、同書刊行後に載せられた菅孝行氏と檜垣立哉氏による書評記事*2への応答という形を取った補足説明だった。

 前者について。市田氏は長年フランスの左翼系理論誌『multitude』誌の編集委員を務めていたが、2008年に編集方針をめぐって編集委員間で分裂する事態となり、同誌を去った。それはこの年にリーマン・ショックをきっかけに起こった金融危機へのリアクションをめぐって、前から潜在的に存在していた理論的な対立――金融資本主義のグローバルリゼーションに対するAlter-Globalizationを構想する上で「国民国家」や「EU」をどう評価するかという問題をめぐって、それはなされた――が噴出し、もはや調停できないほどに鮮明になったからであるが、ここでの対立は金融危機とそれによる債務の増大に対して、能動的なデフォルト(債務不履行)路線を取るか、デフォルトを回避すべく国家によるニューディール路線を取るかという形で鮮明化したわけで。つまり、市田氏たちは現状の政治経済体制の中に存在しない(ことになっている)能動的なデフォルト路線を提唱し、それに対して国民国家をグローバリゼーション批判の根拠地にしようとする一派が反発する、という形でこの対立は噴出したのだった。言い換えるなら、市田氏たちが提示したのは、問題を発見し適切な政策によって解決に導くというサイクルでなされるポリティクス(政治-行政過程)に対し、そのサイクルからは決して導き出されない解答をもって事に当たろうという路線であったと言えるだろう。氏曰く、このあたりの経緯については迷ったあげく結局『革命論』の中に盛り込むことはできなかったとのこと。

 後者について。上にあげた哲学者たち(特にドゥルーズデリダバディウあたり)は、多かれ少なかれ〈出来事evennement〉という言葉をキーワードにして自らの思考を展開していったのだが、この〈出来事〉を軸にして考え直すことで、〈出来事〉の持つ革命的性格について何らかの知見を得ることができるのではないか。フランス現代思想的な文脈で言うと、構造主義は全てを構造によって説明することで〈出来事〉を自然主義化してしまい、結果として主体の関与する余地としての「政治」を消去してしまったし、ポスト構造主義は自己構成する主体の理論化を続けた結果〈出来事〉の異質性についての思考が等閑視されてしまうことになった。こうして構造主義は〈出来事〉の主体的性格を、ポスト構造主義は客体的性格を捉えそこねてしまったのだが、「革命」は〈出来事〉においてこの二つを一致させるものであり、またそれは特権的な主体が革命を起こすという唯物史観が崩壊した後において「革命」を主体と客体をつなぐものとしての〈出来事〉を生起させるものと見ることでもある。

 ――以上のような市田氏のプレゼンテーションを経て、國分氏と小泉氏のコメントが読み上げられたのだが、二人とも論点がなかなか錯綜しており、ことに小泉氏は『革命論』ばかりか國分氏の『暇と退屈の倫理学』や佐藤嘉幸氏の『新自由主義と権力』(人文書院、2009)、アガンベンの『例外状態』(未來社、2007)にまで言及した12ページにわたるレジュメを用意しながら結局ほとんど使っていないという具合だったわけで。それでも例えば國分氏が提起した、『革命論』において英語圏の仕事がほとんど現われてこない(序章におけるサンデルへの強烈なdisりと第1章におけるハンナ・アーレントへの言及くらいか)というツッコミや、スピノザ『国家論(政治論)』をめぐる近年の傾向に対する不満感の表明は、同書といかに交叉するかは別にして確かに有効な論点を提示していたように見えるし、小泉氏が『革命論』終章でフィーチャーされていたフーコーの「反牧人革命」に注目し執拗に市田氏に問うていたのも――確かに他の章に較べてあっさりとした記述だったから――同書のクリティカルな部分への問いかけとしてはなかなかいいところをついていたように、個人的には思うところ。

 その後、聴衆の側にいた研究会メンバー(に限ったわけではなかったのだが)による発言が続いたが、個々には興味深い発言が続くもののいささか散漫としつつあった中、立木康介氏が精神分析の知見からアルチュセールに、ことに彼が革命を「治療」という言葉で語ったことに言及すると、議論は一挙に「治療」をめぐる話に集約していったわけで。少し詳しく見てみよう。「治療」という言葉は『革命論』においても、次のような文章で紹介されている。

 一九六〇年代に「重層的決定」の概念の対象として客体化された「例外」は、そのときにはあくまで認識の対象であったが、八〇年代の「偶然性唯物論」では倫理的に物化され、対象化された。そこに善や悪の属性を付与することなく(付与しないことが倫理的である)、物象を扱うように臨むべき対象となった。とはいえ「革命」は人間社会の革命であり、その点にあくまで残る人間的性格を勘案すれば、後に見るように「治療」として扱うべきことがらになったと言ってもいい。悪しきところがあるから変えるのであるが、この変容作業には労働との本質的差異がない。これに対し、アガンベンにおいて「収容所」によって主体化された「例外」は、そのままで人間社会の本性になっている。本性とは変えられないから本性なのであり、したがってこの「治療」を拒むのだ。アイヒマンを死刑に処しても変わらない世界が「収容所」となった世界である。その世界はアイヒマンという例外を凡庸な人間の範例として持っている。つまり健康ならぬ健康を常態化している――怪物しかいないこの世界のどこに医者が見つかるというのだろう。それゆえ、そこはもはや「救済」を待つしかない世界、政治が「救済」として実行される世界なのである。「治療」か「救済」か。その違いがいかに大きいかを私たちはごく日常的な問題として知っているだろう。「救済」を得るためには、自ら「治療」してはならないのだ。宗教的であろうと人道的であろうと、「救済」はよそからの介入である。それに対し「治療」にあっては、たとえ「私」が治療対象であるときでも、「私」が治療主体とならねばならない。治療対象として現れる世界が、「私」を主体化するのだ。(p36-37)


 これがアルチュセール的な倫理だ。「革命」は「私たち」のものなどではない。「私たち」に倫理的に許されるのは、この例外を例外として単に認知したり、承認したり、さらには驚愕、畏怖、忌避したりすることなどではなく、言わば技術的アプローチの対象としてあえてそれに臨むことだけだ。「私たち」は「革命」の前に引き立てられるのである。君たちは「私」をどう扱うのか、どう「治療」するのかと問いただされるのである。そのような関係を、客体となった例外は哲学者に強いる。「私たち」を、例外を前にした哲学者にする。(略)哲学者としてこの革命をどう「治療」するのかと、客体になった例外は「私たち」に問うのだ。(p39)

 ――フロイトラカンについても一時期積極的に言及し、また自らも精神分析医にかかっていた(っぽい)アルチュセールにおいては「治療」という言葉は一般的な意味でのそれではありえないわけで、そのアルチュセールについて論じている上の市田氏の文章においても事情は同じである。ここでの「治療」は何かを治すこと、異常事態を常態に戻すことではなく、むしろ「言わば技術的アプローチの対象としてあえてそれに臨む」ための方法論として提示されている。立木氏は「治療」を症状への転移という精神分析的タームにおいて改めて捉え直している(「運命的な不幸をありふれた不幸に変えることが精神分析」)が、それは政治が一般的な意味での「治療」に終始している中にあって、きわめて重要な見解であると言えるだろう。

*1:ことに序章における、最近だとマイケル・サンデルのブームに見られるような「政治哲学」の隆盛に対する批判は個人的には激しく同意できたが、第3章におけるフランソワ・ズーラビクヴィリやアレクサンドル・マトロンによるスピノザドゥルーズ読解から「対抗-実現/反-実現」と「準原因」を導き出す理路はなるほどさっぱりわからん感が相当高いように、個人的には思うところ。

*2:菅孝行氏による書評は『図書新聞』4月21日号に、檜垣立哉氏による書評は『週刊読書人』4月20日号に掲載されている

続・お知らせ

 先日告知したとおり、画家・アートスピーカーの辻大地氏が主宰するアート系トーク番組「art☆fan」(http://www2.ocn.ne.jp/~art2g/ustream.html)に出演してきました。ご覧頂いた皆様ありがとうございます。アーカイヴ配信もあるとのことですので、見逃した方はそちらをどうぞ……

 以下にあげるのは、当日読み上げた拙論「「肉体文学から肉体政治まで」読解」です。


――
  当方と辻さんが初めて出会ったのは、昨年のART OSAKAの際でして、終了後の飲み会の席で丸山眞男を出発点にして日本の文化や思想について長時間話しこんだものです。今回このArt Fanへの出演を依頼されたとき、テーマとして真っ先に思い浮かんだのは、別の角度から再び丸山眞男に焦点を当てながら、その時俎上に乗った話題についてその続きを議論してみようというものでした。

 で、具体的に丸山の膨大な仕事の中から何を取り上げようかといろいろ思案した結果、今回は「肉体文学から肉体政治まで」という文章を取り上げることにしました。1949年に『展望』という雑誌に載せられた論文でして、全集はもちろん、現在最も手に入りやすいアンソロジーである杉田敦(編)『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)にも収められております。この『丸山眞男セレクション』には、戦後最初期に書かれて彼を一躍論壇のスターダムに押し上げた伝説的論文「超国家主義の論理と心理」(1946)や、新書として発刊されて今なお版を重ねるロングセラー『日本の思想』(岩波新書、1961)の序章にあたる「日本の思想」、丸山のきわめて機能主義的な政治観のバックボーンとなっていると言える福沢諭吉について考察されている「福沢諭吉の哲学」(1947)、この他にも「三たび平和について」や「現実主義の陥穽」といった、1950年代に発表された直後に大きな話題を呼んだ時事論などが収められておりますが、その中にあってこの「肉体文学から肉体政治まで」という文章は、どちらかと言うと影が薄いといいますか、丸山が死去する前後から現在に至るまで続々と出てきている丸山眞男論の中でも取り上げられることの少ない文章ではありまして、ではなぜそれをことさらに取り上げるのかといいますと、丸山眞男の思考のエッセンスが政治論・思想論という側面においてきわめて凝縮された形で提示されていながら、状況論としてアクチュアルな文脈からも読みこめるお得な(?)文章であること、AさんとBさんの対話というスタイルを取っていることで読みやすい文章となっていることがあげられるでしょう。あとArt Fanという場で丸山についてしゃべるとなると体面的にも文学論・芸術論の体裁を取っている方がいいかなぁというのもあります。いずれにしましても、ここでは文章の中で展開されている丸山の考察を追っていきつつ、それが同時代の思想の文脈とどのように交差しているか、そして何より1949年に書かれたこの文章が、単なる状況論を超えて、60年後の現在に対してもいかに示唆的なものを含んでいるかに着目しながら読んでいきたいと思います。

 前置きはこのくらいにして、では実際に「肉体文学から肉体政治まで」を読んでいきましょう。まずタイトルの「肉体文学」ですが、これは1949年に刊行された田村泰次郎(1911〜83)の小説『肉体の門』がベストセラーになったことで、当時二匹目のドジョウ狙いで出てきた似たようなエロエロ&バイオレンステイストの作品を「肉体文学」と呼ぶようになっておりまして、おそらくはそれに対する当てつけのような感じでつけられたのではないかと考えられます。丸山は東大教授としての研究活動以外の著述活動を「夜店」と自ら言ってましたが、このようなネーミングセンスを含めまして、時事論や状況論における言葉や比喩のセンスは、意外と通俗的だったりします(丸山の父親は新聞記者でしたが、それも関係しているのかもしれない)。AさんとBさんの掛け合い漫才のような感じで書かれているこの「肉体文学から肉体政治まで」も、その例外ではありません。というか、取り上げている話題も含めまして、この文章では、「夜店のテキ屋としての丸山」という側面が最も振り切れた形で露呈しているといっても、あながち誇張ではないでしょう。

 ……いきなり脱線してしまいましたが、ともあれ本文に即して論理展開を追ってみます。まず丸山は、上述したような「肉体文学」系小説の流行を横目に見つつ、こういった小説の作者がなぜ一般的な市民生活における規範を逸脱したような設定やシチュエーションや心理を描くことに腐心するのかという問いを提示する。で、それに対する丸山の答えは簡潔にして逆説的なものです――それは日本には、文学や芸術として表現された作品やフィクションをそれとして感受する伝統が欠落しているからである、という。つまりエロエロバイオレンスな「肉体文学」系小説が大量に作られ売れているからといって、それはフィクションの隆盛とは似て非なるものであり、というか「肉体文学」系小説の流行は――少なくとも明治時代以降の日本にまま見られる――フィクションの欠落の逆説的な徴候なのである、と丸山は言うわけです。で、それは、「西洋と日本」の二元論という比較文化論的なフレームワークから、次のように説明されることになる(以下、ページ数は全て『丸山眞男セレクション』のもの)。

 B:極端にいえばあそこでは日常的な市民生活そのものが既にある程度「作品」なので、素材自体が既に形象化されているのじゃないか。それがないからこそ、日本の作家はいきおい普通の市民生活とかけはなれた特殊な環境や異常な事件のなかに素材を漁るということにもなるだろう。

 B:だから問題はテクニックの更に背後にある何ものかのちがいにあるんだ。

 B:私小説のこれまで到達した芸術性の程度を無視して、今日の「肉体文学」と一しょくたに論ずるのは一見乱暴のようだが感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりついてイマジネーションの真に自由な飛翔が欠けているという点で、ある意味じゃみんな「肉体」文学だよ。
(p189-191)


 ――何箇所か引用してみましたが、「西洋と日本」の二元論というフレームワークからの(擬似)比較文化論という方法論の是非についてはさしあたり脇にどけておいて、ここでは、「肉体」という言葉のニュアンスが少し変わっていることに注目する必要があるでしょう。上述したように丸山は「肉体文学」系小説の流行を、作品やフィクションをそれとして感受する伝統が欠落している徴候、サインであると見ていました。とすると丸山における「肉体」というのは、実在の身体である以上に「感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりつい」た状態のことである、ということになります。もう少し引用してみましょう。

 B:人間精神の積極的な参与によって、現実が直接的にでなく媒介された現実として現われてこそそれは「作品」(フィクション)といえるわけだ。だからやはり決定的なのは精神の統合力にある。ところが日本のように精神が感性的自然――自然というのはむろん人間の身体も含めていうのだが――から分化独立していないところではそれだけ精神の媒介力が弱いからフィクションそれ自体の内面的統一性を持たず、個々バラバラな感覚的経験に引き摺りまわされる結果になる。(略)つくりごとに心もとなさを感じる気持が結局はんらんする「実話」ジャーナリズムを支えているのじゃないか。あれこそ日本的リアリズムの極致だよ。
(p191-192)

 B:「フィクション」を信ずる精神の根底にあるのは、なにより人間の知性的な製作活動に、従ってまたその結果としての製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度だといえるだろう。(略)むしろ近代精神はうそを現実よりも尊重する精神だといってもいいだろう。
(p194-195)

 ――「感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりつい」た状態としての肉体に対し、ここでは「人間精神」「精神」「近代精神」が本格的にフィーチャーされています。言うまでもなくこれは「西洋と日本」というフレームワークの形を変えた変奏ですね。「西洋」=「(人間・近代)精神」、「日本」=「肉体(身体)」というわけです。「精神と身体」の二元論というフレームワークも哲学や思想界隈においてはありふれたものとしてあり、丸山もこの二元論を念頭において議論を展開しているわけですが、ここでの「精神と身体」の二元論の用法は、二つの領域が互いに無関係に並立して存在しているという形をとっていないことは既に明らかでしょう。精神は現実を直接的なものから間接的な「媒介された現実」に作り変える。従って直接的なものの領域としての「肉体(身体)」は精神によって「媒介された現実」の中に置き直される(より正確に言うと、「媒介された現実」の中に置き直されるべきものとして改めて見出される)ことになる――「うそを現実よりも尊重する精神」は、以上のような論理展開によって身体を「感性的=自然的所与」の領域から引き離す。つまりそれは言い換えるなら「個々バラバラな感覚的経験」に解体されてしまっている身体を、「製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度」としての精神の運動によって媒介=統合し、「媒介された現実」「作品」「フィクション」の場に、つまりは人間的な場に置き直すということにほかならない。このように、精神による身体の訓育(discipline)という解決策として、丸山は「精神と身体」という二元論フレームワークを使用しているわけです。もちろんそこには「個々バラバラな感覚的経験に引き摺りまわされる結果」として生じた軍国主義超国家主義とその暴走の結果生じた敗戦という――この文章が書かれたときにはわずか四、五年ほど前の――出来事への痛烈な反省と批判がこめられていることは、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。後には「大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける」という大タンカを切ってみせる丸山ですが、その発想の淵源は、このようなところにあるわけですね。となりますと、このような丸山の立場がある種の「政治」を要請することになるのは必然です。丸山にとっての「肉体政治」とは、以上のように展開される「肉体文学」への批判の中から導き出されたものである――このことを十分押さえておきつつ、この文章の中で丸山が展開している「肉体政治」の分析に分け入ってみることにしましょう。

 先ほど述べたように、丸山は当時大ブームとなっていた「肉体文学」の分析を通して「肉体政治」という領域にたどり着きました。一般的に私たちは政治といいますと、政治家や官僚が行なうものであり、あるいは選挙や様々な市民運動のような形で私たちも限定的にせよ参加するものであると認識しているわけですが、ここでの「肉体政治」というのは、そういった(政治的とされる)行為の集合体としての政治の前段階に位置づけられるものとして考えられています。それは東洋と西洋の政治観を定式化した次のような一文に、きわめて端的に現われている。

 B:第一東洋の政治思想を見ればすぐ分るように、そこにはヨーロッパのそれにあるような組織論とか機構論とかいうたぐいのものは殆どない。大部分が政治的支配者の「人格」をみがく議論か、さもなくば統治の手管に関する議論だ。(略)いずれにしてもそこでは人間と人間との直接的感覚的な関係しか問題にされていない。
(p198-199)

 B:それじゃこういう前近代的なペルソナリスムと近代社会の「人間の発見」とはどうちがうのかといえば、前者において尊重される「人間」とは実は最初から関係をふくんだ人間、その人間の具体的環境ぐるみに考えられた人間なんだ。(略)ところがまさに人間がはじめから「関係を含んだ人間」としてしか存在しえないからこそ、その「関係」は関係として客観的表現をとらない。法と習俗が分化せず慣習法が実定的に優位する。だからそこでは人間と人間が恰もなんらの規範をも媒介としないで、なんらの面倒なルールや組織をも媒介としないで「直接」に水入らずのつきあいをしているように見える。
(p199-200)


……「人格」「直接的感覚的な関係」「前近代的なペルソナリスム」「関係を含んだ人間」「水入らずのつきあい」――こういった表現が「肉体」のパラフレーズであることは既に明らかでしょう。丸山における「肉体政治」とは、こういった表現で記述できるような傾向が支配的な場(つまり日本のことですが)において展開される政治のことであるとまとめることができるでしょう。言うまでもなくそれは近代社会における「政治」とは似て非なるものである。

 上で触れたように、丸山にとって「政治」とは精神=フィクションの領域における行為の体系でした。そして精神=フィクションの領域とは、「肉体文学」についての解説の中で引用した「人間の知性的な製作活動に、従ってまたその結果としての製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度」という一文に顕著なように、あくまで製作活動・製作物によって構成された領域のことである、と思念されている。ここから丸山にとっての「政治」の第二の属性として、製作活動・製作物の相対性が導き出されます。

 B:フィクションの本質はそれが自ら先天的価値を内在した絶対的存在ではなく、どこまでもある便宜のために設けた相対的存在だということにある。(略)フィクションの意味を信ずる精神というのは、一旦作られたフィクションを絶対化する精神とはまさに逆で、むしろ本来フィクションの自己目的化を絶えず防止し、之を相対化することだ。「うそ」は「うそ」たるところに意味があるので、これを「事実」ととりちがえたら、もはや「うそ」としての機能は果たせない。
(p201)

 政治とは「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域を保持することであり、しかもそれを「「事実」ととりちがえ」ることなしに、あくまで相対的なものとして取り扱うことである。そして「政治」とは、フィクションにそれ固有の機能というのがあり、その機能に従う限りで意味がある以上、「ある便宜のために設けた相対的存在」として取り扱わなければならない――丸山にとっての「政治」というのをごく簡潔にまとめると、このようになるでしょう。だから「政治」の領域とは、必然的に複数の価値が複数なまま、相対的に共存している状態であるということになります。こんな具合に、丸山は(様々な具体的政治問題へのレスポンスとは違った)政治一般に対してはかなり機能主義的・構造主義的であり、実際この文章の後に執筆された『政治の世界』(1952)という著書では、そのような見方がさらに徹底して提示されており、後に京極純一や松下圭一といった「丸山学派」と一括りにされる弟子たちの手によってさらに精緻化されていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

 ところでこのような複数の価値が複数なまま、固有の機能に従って相対的に共存しているような「製作物」の領域を「政治」の領域と定める態度というのは、ほぼ同時期に「活動action」を政治の原理に据えたハンナ・アーレント(1906〜75)ときわめて類似しております。アーレントにおける「活動」というのは、人間が日々の生を満たすために行なう「労働labor」よりも高次元な営為として定義されており(それゆえ今に至るまで批判も多くされているわけですが)ますが、丸山の「製作活動」もまた、アーレントの「活動」と、完全に一致するわけではないにしても、かなりの程度重なっていると言えるのではないでしょうか(丸山がアーレントを読んだことがあるのかは知らないのでアレですが)。なぜここでアーレントについて言及したのかと言いますと、かたやナチズムを、かたや軍国主義超国家主義を不倶戴天の敵とし続けた同時代の政治哲学者であるという伝記的な共通点もさることながら、二人とも人間の存在から政治についての思索を始めるのをどこかで拒絶しているからです。これは、例えばジョン・ロールズのようなリバタリアンとも、あるいは最近謎の大ブレイクを果たしたマイケル・サンデルのようなコミュニタリアンとも何か異質な発想法です。先ほども触れましたように、アーレントは人間がただ生きること自体に直接関わるような行為を「労働」と呼んで低次元なものとして位置づけましたし、丸山についてはもはや改めて言うまでもないでしょう。

 アーレントとの比較は以上でとどめておきますが、彼女が提示した労働-活動の図式と照らし合わせてみると、丸山が「肉体政治」と呼んで何を警戒していたのかがよりクリアになります――大急ぎで要点だけ提示しておくと、それは「政治の領域が人間の存在それ自体をめぐる闘争に変化してしまうこと」である。ここまで何度か引用してきたように、丸山における政治とは「「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域を保持すること」だったわけですが、それは逆に言うと知性的でない活動が入り込む危険性に対しても常に開かれているということであり、それは実際ナチズム軍国主義超国家主義という形で日本とドイツにおいて実現してしまった。

 B:(ゲオルク・)ジンメル第一次大戦直後に『近代文化の軋轢』という小さいパンフレットのなかで、歴史の過渡期にはいつも生が自己を盛り切れなくなった形式を捨ててヨリ適合した形式をつくり出すのだが、現代は「生」が古い形式に甘んじなくなっただけでなく、凡そ形式一般に反逆して自己を直接無媒介に表出しようとする時代で、そこに最も深刻な現代の危機がある――という意味のことを論じていたように記憶するが(略)
(p205)


 ジンメルを借りつつ、丸山が露骨に危機感を表明しているのは、「生」が「古い形式に甘んじなくなっただけでなく、凡そ形式一般に反逆して自己を直接無媒介に表出しようとする」動きである。それを、ここまで見てきたような丸山の表現を使って言い換えると、「「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域によって訓育された「自然的実在」としての生が直接的に露呈する動き」となります。言うまでもなくジンメルにおける「生Leben」こそ丸山における「肉体」であり、従ってそれが直接的に露呈することとは、フィクションとしての領域に「関係を含んだ人間」が入り込むことにほかならないわけです。最初の方で、丸山における「肉体政治」とは「政治」の前段階であると定義しましたが、ナチズム軍国主義超国家主義は、かような観点からすると度し難い逆行であり、しかし一方では依然として未来の問題としてあり続けています――ほかならぬナチズムがまさに近代文化の危機から生み出された鬼子であるとこの「肉体文学から肉体政治まで」の中では定義されているからです。先ほど軽く触れた「政治の領域が人間の存在それ自体をめぐる闘争に変化してしまうこと」とは、以上のような理路をたどって現在の問題として改めて見出されるわけですが、しかし「人間の存在それ自体をめぐる闘争」というのは丸山的な意味での政治では解決できない事態です。政治的問題がアイデンティティ問題として現われてくるような状況は原理的にフィクションによる落とし所が存在し得ない。最初からいきなり生か死かというところから話が始まるような場は、丸山やアーレント的見解に従う限り、もはや政治の場ではないからです(あえて言うなら、それは戦場に近いのではないか)。

 だから――というと、いささか牽強付会に過ぎるのかもしれませんが、政治に「生」=「肉体」が端的に入り込んでくるような事態を、丸山はこんなふうに戯画化することしかできないわけです。

 A:君のいわゆる精神が感性的自然から分離しないところでは政治的精神もまた暴力とか「顔」とか「腹」とかいう政治的肉体への直接的依存を脱しないんだろう。君が前に日本人の生活に「社交」がないという問題を出したが、私生活上での「社交」精神は公生活上の「会議」精神に照応するんじゃないか。第一国会だってすぐポカポカということになるんだから呆れるよ。

 B:ポカポカは政治的肉体というよりただの肉体だが、例えば代議士が選挙民に向って個別的私的利益を直接に満足させるようなアピールをしたり、またある企業とか土地有力者の利害を直接に代表して行動したりするのはまさに政治的精神の次元が独立していない証拠だろうね。
(p207)


 いきなり「ポカポカ」って! とツッコミを入れたくなるところですが(このあたりの表現のセンスは、いろいろな意味で丸山らしいといえばらしいのですが)、上の引用文において戯画的に描写されたあげく、最終的にはなんか丸投げされたような感じで終わる――丸山と彼が論じる「肉体政治」との関係は、一方では原理的に考察されているんですけども、スルーされている部分もあるわけですね。それは先ほど見てきたように「政治」から人間の存在それ自体という要素を排除したがゆえの代償ではあるわけですが。ただ一方で、丸山が見つつも排除した、この人間の存在それ自体という要素から政治という営為を逆照射する動きが、丸山が言論活動を始めたのと同時並行的になされていたことに、注目する必要があるでしょう。

 政治が人間を組織するとすれば、文学もまた人間を組織する。然しその表れ方は同一ではない。政治は個々の人間を直接の対象として組織するのではない。集団としての人間、人間が本来社会的動物であるという意味に於て、社会そのものを組織するのが政治だ。これに反して、文学は個人を直接に組織する。政治が社会的集団の組織として、敵か味方かをはっきり区別するのに対して、文学はそういう政治的組織としての敵の中にも味方の中にも、文学の網の目に捉えることの出来る人間を持っている。


 ……これは「肉体文学から肉体政治まで」が発表された二年前、1947年に『近代文学』という雑誌に掲載された佐々木基一「政治と文学に関する断想」という文章の一節です。『近代文学』誌は戦後まもなく創刊され、佐々木を含めた同人たち(荒正人平野謙本多秋五etc)は、当時文学界隈を二分しそれ以外の分野にも飛び火しながら進行していた「主体性論争」の一方の極として積極的に発言していったわけですが、その過程でこの論争は次第に、戦前以来持ち越されていた「「政治と文学」論争」の第二ラウンドといった様相を呈していくようになります。そういう中で発表されたこの佐々木の文章は「政治」と「文学」に対して、ただ二つに分けるわけでも、一方の側からもう一方を全否定するわけでもなく、「個々人を組織する」という行動の方法論として二つは動機を共有しており、しかしそのやり方において両者ははっきりと異なってもいるという、見ようによってはきわめてあいまいな定義を与えています。《人類がお互い同志を破滅し合う戦争を完全に必要とせぬ段階に到るまでは、僕にとって、政治と文学とは依然として矛盾の契機を孕んだ、互に相手を必要としながらも反発し合う二個の領域に止るであろう》――佐々木は文章の末尾にこう書いていますが、この矛盾こそ、おそらく丸山が発見しつつスルーした部分に関わるのではないかと、個人的には思うところでして。そしてこれは戦後という一時期に固有のものではなく、「(肉体)文学」と「(肉体)政治」との間には現在においても依然として何か考えつくされていない関係があるのではないか――そのような予感を仄めかしつつ、報告を終えたいと思います。

お知らせ

3月18日14:30から配信されるアート系トーク番組「art☆fan」(http://www2.ocn.ne.jp/~art2g/ustream.html)にゲスト出演します。番組タイトルは「肉体文学から未来政治まで」で、当方は丸山眞男が1949年に『展望』誌上に発表した小論「肉体文学から肉体政治まで」を紐解きながら基調報告を行ないます。

「「万博」へ、「万博」から。」


 3月4日に京都造形芸術大学・春秋座で開催されたシンポジウム「「万博」へ、「万博」から」。同日まで学内で開催されていた2011年度の卒業制作展の関連イベントとして開催されたもので、現代美術家岡崎乾二郎氏とヤノベケンジ氏、建築学者五十嵐太郎氏、そして同大の大学院長を務めている浅田彰氏の四人が参加していた。


 個人的にはTwitter経由でこのシンポジウムの情報を知って以来、この面々で万博について語るというイベントが面白くならないはずがあるまいと思いつつも、しかしその一方で、なぜこの時期にことさら「万博」なのか、管見の限り別に今年が何がしかのメモリアルイヤーだからということもなさそうだし…… と、首をかしげることしきりだったのもまた、事実といえば事実。学内で配布されていた告知チラシに書かれた文面*1を見てもそのあたりについて説明されているとは言い難かったので、軽く疑念に思いながらも現地に赴くと、今年の同大学の卒業制作展のメインコンセプトとしてこの「万博」という言葉が使われていた*2という、それはそれで新たな疑念を呼び起こすところではあるオチが待っていたわけで。で、実際、かかる疑念は劈頭においてMC役を務めていた浅田氏によっても表明されており、この「万博」というキーワードを学生たちの会議において発した者がこの場にいたら名乗り出て欲しいと言っていたわけで。無論、と言うべきか、その彼/彼女が名乗り出ることはなかったのだが。で、さらに、当初このシンポジウムには建築家磯崎新氏の出席が予定されており、大阪万博に深く関わった磯崎氏を囲んで云々という形で行われる予定だった――が、手術を受けるハメになってしまい、出席できなくなったという――そうで、してみるとこのシンポジウム、最初からキーパーソンの不在に徴づけられていたことになるのだった。


 ――というわけで、出席者よりもむしろ欠席者の存在がクローズアップされる形で始まったこのシンポジウムだが、それ以外は五十嵐氏→ヤノベ氏→岡崎氏の順番で基調講演めいたプレゼンが行なわれ、その後MC役の浅田氏を交えたクロストークが行なわれるという流れで概ね普通に進行していく。五十嵐氏は大阪万博の前後における建築界隈の動きや建築をめぐる諸思潮を軸に、ヤノベ氏は自身の創作活動のモチベーションとして語り続けている大阪万博の解体現場を見ながら育った少年時代の話を軸に語るという、両氏の著書や作品に接したことがあれば必ず仄聞することになるであろう出来事が中心になっていたのだが、その中であげられていた具体的なエピソードがなかなか興味深かったわけで。五十嵐氏は当時の建築雑誌などのデータを駆使しながら大阪万博アーキグラムの関係性(丹下が設計した大屋根が(アーキグラムが提唱していた)空中都市の具現化であった、とか)について語る一方で、建築雑誌における“反博”の動きとして《ディストピア大阪》というドローイングが載せられていたことを紹介していたし、ヤノベ氏は愛知万博で発表するはずだった幻のプロジェクト――廃材で巨大マンモス型のオブジェを作って名古屋市から万博会場に運ぶ、というもの*3――について語っており、個人的には初めて聞く話が多かったので、深く聞き入った次第。


 かような具合に“学生向けトークイベント”という態にふさわしいキャッチーな資料やエピソードを用いたプレゼンを見せた五十嵐氏とヤノベ氏に対して、岡崎氏のプレゼンは打って変わってきわめてハイブロウかつ韜晦に満ちたものだった。他の二氏が大阪万博に注目する中、岡崎氏がプレゼンの中心に持ってきたのは、その三年前、1967年に開かれたモントリオール万博であり、ことにその基本理念として掲げられた「人間たちの惑星Terre des hommes」というもの。サン=テグジュペリの同名小説のタイトル――日本では「人間の土地」という邦題が訳者の堀口大學によってつけられている――から取られたこの理念を、岡崎氏は大阪万博において様々な形でフィーチャーされたメタボリズムと突き合わせて論じていく……

 ぼくは、アルゼンチンにおける自分の最初の夜間飛行の晩の景観を、いま目のあたりに見る心地がする。それは、星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜だった。あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。あの一軒では読書したり、思索したり打ち明け話をしたり、この一軒では空間の計測を試みたり、アンドロメダの星雲に関する計算に没頭したりしているかもしれなかった。また、かしこの家で、人は愛しているかもしれなかった。それぞれの糧を求めて、それらのともしびは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っていた。中には詩人の、教師の、大工さんのともしびと思しい、いともつつましやかなのも認められた。しかしまた他方、これらの生きた星々のあいだにまじって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々がなんとおびただしく存在することだろう…… 試みなければならないのは、山野のあいだにぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ。


 ……上の引用文は岡崎氏が読み上げた「人間の土地」の一節だが、この一節に描かれているような場面や「試みなければならないのは、山野のあいだにぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じあうことだ」という“ぼく”の感慨にこそ、モントリオール万博を大阪万博とを、つまりモントリオール万博において実験された建築(思潮)と大阪万博におけるそれ(=メタボリズム)とを分かつ重要なモーメントが存在するのではないか――氏のプレゼンを超乱暴に簡略化すると、概ね以上のようになる。


 では「人間たちの惑星」という理念(?)はいかにしてメタボリズム批判たりうるのか――そこで岡崎氏が持ち出すのが「葉と幹」というモデルであった。よく知られているように、メタボリズムは生成や成長、代謝という(擬似)生物学的な思考を建築や都市計画に導入する際にツリー状のモデルを採用している。幹があってそこから成長していって葉をつけていくというメタファーによって建築や都市計画を構想していくというわけである。そしてこの「幹」とは、実際の建築や都市計画において明示的に現われるよりもむしろ、そこに現われないもの、現われないにもかかわらず全体を統制するような、一種の無意識に比せられるべきものとしてあることになるだろう。こういった思考法が何もメタボリズムに限ったものではないこと、かような表には現われてこない部分を対象にするような思考が50年代〜60年代において同時多発的に出てきたことが、浩瀚な事例をスキャンしながら説明されていくのだが(もの派、吉本隆明の言語論における指示表出(幹)/自己表出(葉)、武谷三男の科学哲学における三段階論(現象(葉)→実体→本質(幹))etc)、いずれにしても、世界の多様性を想像的にせよ束ねるような理念を、19〜20世紀的な(つまり近代的な、ということでもあるのだが)国家や資本主義とは別のところに求めようとしたとき、多様性を「葉」と置いて、それらに対する「幹」を、「葉」それぞれの生成、成長、代謝の基礎となるものとして対置するという思考が大阪万博においては――そう明示的に言われていないにしても――遂行されていたという具合に、岡崎氏は大阪万博を総括していくのだった。従って、かかるメタボリズム的思考に対して、「あのともしびたちと、心を通じあうこと」が、「葉」/「幹」という思考と似て非なるものとして提示されていたことにこそ、モントリオール万博のアクチュアリティが存在するということが、氏のプレゼンにおいて重要視されていくことになるわけで。言うまでもなく「人間の土地」における「あのともしびたち」と“ぼく”との間の関係は「葉」と「幹」というモデルとは決定的に異なるし、さらに言うと「あのともしびたち」相互の関係も無関係である。もしそれらの間に何がしかの関係があるとするなら、それは“ぼく”が空からそれらを見出す以前には存在し得ないからだ。


 以上のようなことを梃子にして、モントリオール万博における「人間たちの惑星」という理念を岡崎氏は「(世界の多様性が)互いに孤独のまま、その間の関係を主題にすること」と読み替えていく。「葉」と「幹」の比喩で言い換えるるなら、「幹」=本質は一つであるというのがメタボリズム大阪万博の隠れたモードだったとすると、モントリオール万博の隠れたモードは「葉」それぞれに「幹」があるというものであり、従って「葉」それぞれは単一の「幹」に還元され得ない固有性を持ち、その無数の固有性をそのままにしつつ「心を通じあう」ことが「人間たちの惑星」という理念にはインプリケーションされている、というわけである*4。実際、モントリオール万博はストのためにいったん中止になったり、一部のパビリオンが期間終了後も1981年まで営業していたり(!)というようなアクシデントが多発したために今でも失敗した万博扱いを受けるわけであるが、複数の固有性が固有のモーメントを保ったまま存続していくような事態が続いたことは、岡崎氏的な視点からすると、むしろ成功だったのではないだろうか。


 ――以上のような岡崎氏のプレゼンを経た後、四人による共同討議に移っていったわけだが、五十嵐氏が来年のあいちトリエンナーレの芸術監督に就任しており、そこにヤノベ氏も出展するとのことで、この二人による公開打ち合わせ状態になったり(内容的にはおそらくどこにも出せなさそうなので、ここでは触れないが)、岡崎氏が岡本太郎の「対極主義」を強烈に批判したり、時間的に押していたのを見て取った浅田氏がすげぇ取って付けたような結論を滔々と語って終わらせたりと、なかなかアレげな感じに進行していった次第。

*1:以下の文章を参照のこと《1851年に始まる万国博覧会国際博覧会:Universal Exposition)は、世界を覆いつつあった近代文明の――つまりは国家と資本主義の祭典であり、初期は植民地主義的な性格を持つものでした。しかし、それは芸術文化にとってインスピレーションの源となり、発表の場ともなってきたのです。とくに、1970年大阪万博は、国家と資本に支えられたテクノロジーと、どちらかといえば反体制的な前衛芸術とが空前絶後の出会いを遂げた、注目すべきイベントと言えるでしょう。丹下健三(お祭り広場)と岡本太郎太陽の塔)の激突は、その象徴です。(むろん、前衛の中には、反万博の立場をとる芸術家もたくさんいたことを忘れてはいけませんが。)この1970年大阪万博を中心に、「万博」というものの可能性と限界を改めて問い、21世紀のいま、芸術文化を核とする出会いの場を構想するうえで、それがいかなるヒントを与えてくれるのか、あらためて考えてみたいと思います。》

*2:以下の文章を参照のこと《万博−万国博覧会は世界各国がその工業製品、科学技術、美術工芸品などをパビリオンに展示して、力と差異を示す場でした。しかしいまの国家や企業が威力を誇示することを人々は望むのか? 3.11後のいまこそ、大学とそれをとりまく社会をつなぎ直し、人と人、人とモノ、モノとモノの新しいつながりを模索すべきだ、そして大学はそんなつながりをもたらすパビリオンであるべきだ、と私たちは提案します。 万人が博くつながる。「万博 BANPAKU−新しく、つながる」》

*3:ヤノベ氏いわく、中日新聞社からのオファーに対して、ロシアから氷漬けになったマンモスを持ってきて展示するという読売新聞社のプロジェクトへの当てつけとして提案したが、上層部の判断でボツになったとか。氏のプロジェクトはその後(後に提案した巨大ロボット《ジャイアントとらやん》製作プロジェクトともども)豊田市美術館での個展「ヤノベケンジ―ウルトラ」展(2009)において実現した。

*4:岡崎氏自身、翌日のTwitter上で以下のように簡潔に説明している《ひとつの幹に沢山の葉(取り替え可能な葉)が集うのではなく、いちまい、いちまいにはぐれ(散った)、葉がそれぞれ離れたまま、自律した構造をもつ、こういうコンセプトをもった万博が大阪の前にあったのでした、という話(がきのうの話)》 https://twitter.com/#!/kenjirookazaki/status/176354532060700672