続・お知らせ

 先日告知したとおり、画家・アートスピーカーの辻大地氏が主宰するアート系トーク番組「art☆fan」(http://www2.ocn.ne.jp/~art2g/ustream.html)に出演してきました。ご覧頂いた皆様ありがとうございます。アーカイヴ配信もあるとのことですので、見逃した方はそちらをどうぞ……

 以下にあげるのは、当日読み上げた拙論「「肉体文学から肉体政治まで」読解」です。


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  当方と辻さんが初めて出会ったのは、昨年のART OSAKAの際でして、終了後の飲み会の席で丸山眞男を出発点にして日本の文化や思想について長時間話しこんだものです。今回このArt Fanへの出演を依頼されたとき、テーマとして真っ先に思い浮かんだのは、別の角度から再び丸山眞男に焦点を当てながら、その時俎上に乗った話題についてその続きを議論してみようというものでした。

 で、具体的に丸山の膨大な仕事の中から何を取り上げようかといろいろ思案した結果、今回は「肉体文学から肉体政治まで」という文章を取り上げることにしました。1949年に『展望』という雑誌に載せられた論文でして、全集はもちろん、現在最も手に入りやすいアンソロジーである杉田敦(編)『丸山眞男セレクション』(平凡社ライブラリー、2010年)にも収められております。この『丸山眞男セレクション』には、戦後最初期に書かれて彼を一躍論壇のスターダムに押し上げた伝説的論文「超国家主義の論理と心理」(1946)や、新書として発刊されて今なお版を重ねるロングセラー『日本の思想』(岩波新書、1961)の序章にあたる「日本の思想」、丸山のきわめて機能主義的な政治観のバックボーンとなっていると言える福沢諭吉について考察されている「福沢諭吉の哲学」(1947)、この他にも「三たび平和について」や「現実主義の陥穽」といった、1950年代に発表された直後に大きな話題を呼んだ時事論などが収められておりますが、その中にあってこの「肉体文学から肉体政治まで」という文章は、どちらかと言うと影が薄いといいますか、丸山が死去する前後から現在に至るまで続々と出てきている丸山眞男論の中でも取り上げられることの少ない文章ではありまして、ではなぜそれをことさらに取り上げるのかといいますと、丸山眞男の思考のエッセンスが政治論・思想論という側面においてきわめて凝縮された形で提示されていながら、状況論としてアクチュアルな文脈からも読みこめるお得な(?)文章であること、AさんとBさんの対話というスタイルを取っていることで読みやすい文章となっていることがあげられるでしょう。あとArt Fanという場で丸山についてしゃべるとなると体面的にも文学論・芸術論の体裁を取っている方がいいかなぁというのもあります。いずれにしましても、ここでは文章の中で展開されている丸山の考察を追っていきつつ、それが同時代の思想の文脈とどのように交差しているか、そして何より1949年に書かれたこの文章が、単なる状況論を超えて、60年後の現在に対してもいかに示唆的なものを含んでいるかに着目しながら読んでいきたいと思います。

 前置きはこのくらいにして、では実際に「肉体文学から肉体政治まで」を読んでいきましょう。まずタイトルの「肉体文学」ですが、これは1949年に刊行された田村泰次郎(1911〜83)の小説『肉体の門』がベストセラーになったことで、当時二匹目のドジョウ狙いで出てきた似たようなエロエロ&バイオレンステイストの作品を「肉体文学」と呼ぶようになっておりまして、おそらくはそれに対する当てつけのような感じでつけられたのではないかと考えられます。丸山は東大教授としての研究活動以外の著述活動を「夜店」と自ら言ってましたが、このようなネーミングセンスを含めまして、時事論や状況論における言葉や比喩のセンスは、意外と通俗的だったりします(丸山の父親は新聞記者でしたが、それも関係しているのかもしれない)。AさんとBさんの掛け合い漫才のような感じで書かれているこの「肉体文学から肉体政治まで」も、その例外ではありません。というか、取り上げている話題も含めまして、この文章では、「夜店のテキ屋としての丸山」という側面が最も振り切れた形で露呈しているといっても、あながち誇張ではないでしょう。

 ……いきなり脱線してしまいましたが、ともあれ本文に即して論理展開を追ってみます。まず丸山は、上述したような「肉体文学」系小説の流行を横目に見つつ、こういった小説の作者がなぜ一般的な市民生活における規範を逸脱したような設定やシチュエーションや心理を描くことに腐心するのかという問いを提示する。で、それに対する丸山の答えは簡潔にして逆説的なものです――それは日本には、文学や芸術として表現された作品やフィクションをそれとして感受する伝統が欠落しているからである、という。つまりエロエロバイオレンスな「肉体文学」系小説が大量に作られ売れているからといって、それはフィクションの隆盛とは似て非なるものであり、というか「肉体文学」系小説の流行は――少なくとも明治時代以降の日本にまま見られる――フィクションの欠落の逆説的な徴候なのである、と丸山は言うわけです。で、それは、「西洋と日本」の二元論という比較文化論的なフレームワークから、次のように説明されることになる(以下、ページ数は全て『丸山眞男セレクション』のもの)。

 B:極端にいえばあそこでは日常的な市民生活そのものが既にある程度「作品」なので、素材自体が既に形象化されているのじゃないか。それがないからこそ、日本の作家はいきおい普通の市民生活とかけはなれた特殊な環境や異常な事件のなかに素材を漁るということにもなるだろう。

 B:だから問題はテクニックの更に背後にある何ものかのちがいにあるんだ。

 B:私小説のこれまで到達した芸術性の程度を無視して、今日の「肉体文学」と一しょくたに論ずるのは一見乱暴のようだが感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりついてイマジネーションの真に自由な飛翔が欠けているという点で、ある意味じゃみんな「肉体」文学だよ。
(p189-191)


 ――何箇所か引用してみましたが、「西洋と日本」の二元論というフレームワークからの(擬似)比較文化論という方法論の是非についてはさしあたり脇にどけておいて、ここでは、「肉体」という言葉のニュアンスが少し変わっていることに注目する必要があるでしょう。上述したように丸山は「肉体文学」系小説の流行を、作品やフィクションをそれとして感受する伝統が欠落している徴候、サインであると見ていました。とすると丸山における「肉体」というのは、実在の身体である以上に「感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりつい」た状態のことである、ということになります。もう少し引用してみましょう。

 B:人間精神の積極的な参与によって、現実が直接的にでなく媒介された現実として現われてこそそれは「作品」(フィクション)といえるわけだ。だからやはり決定的なのは精神の統合力にある。ところが日本のように精神が感性的自然――自然というのはむろん人間の身体も含めていうのだが――から分化独立していないところではそれだけ精神の媒介力が弱いからフィクションそれ自体の内面的統一性を持たず、個々バラバラな感覚的経験に引き摺りまわされる結果になる。(略)つくりごとに心もとなさを感じる気持が結局はんらんする「実話」ジャーナリズムを支えているのじゃないか。あれこそ日本的リアリズムの極致だよ。
(p191-192)

 B:「フィクション」を信ずる精神の根底にあるのは、なにより人間の知性的な製作活動に、従ってまたその結果としての製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度だといえるだろう。(略)むしろ近代精神はうそを現実よりも尊重する精神だといってもいいだろう。
(p194-195)

 ――「感性的=自然的所与に作家の精神がかきのようにへばりつい」た状態としての肉体に対し、ここでは「人間精神」「精神」「近代精神」が本格的にフィーチャーされています。言うまでもなくこれは「西洋と日本」というフレームワークの形を変えた変奏ですね。「西洋」=「(人間・近代)精神」、「日本」=「肉体(身体)」というわけです。「精神と身体」の二元論というフレームワークも哲学や思想界隈においてはありふれたものとしてあり、丸山もこの二元論を念頭において議論を展開しているわけですが、ここでの「精神と身体」の二元論の用法は、二つの領域が互いに無関係に並立して存在しているという形をとっていないことは既に明らかでしょう。精神は現実を直接的なものから間接的な「媒介された現実」に作り変える。従って直接的なものの領域としての「肉体(身体)」は精神によって「媒介された現実」の中に置き直される(より正確に言うと、「媒介された現実」の中に置き直されるべきものとして改めて見出される)ことになる――「うそを現実よりも尊重する精神」は、以上のような論理展開によって身体を「感性的=自然的所与」の領域から引き離す。つまりそれは言い換えるなら「個々バラバラな感覚的経験」に解体されてしまっている身体を、「製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度」としての精神の運動によって媒介=統合し、「媒介された現実」「作品」「フィクション」の場に、つまりは人間的な場に置き直すということにほかならない。このように、精神による身体の訓育(discipline)という解決策として、丸山は「精神と身体」という二元論フレームワークを使用しているわけです。もちろんそこには「個々バラバラな感覚的経験に引き摺りまわされる結果」として生じた軍国主義超国家主義とその暴走の結果生じた敗戦という――この文章が書かれたときにはわずか四、五年ほど前の――出来事への痛烈な反省と批判がこめられていることは、いくら強調してもしすぎることはないでしょう。後には「大日本帝国の実在よりも戦後民主主義の虚妄に賭ける」という大タンカを切ってみせる丸山ですが、その発想の淵源は、このようなところにあるわけですね。となりますと、このような丸山の立場がある種の「政治」を要請することになるのは必然です。丸山にとっての「肉体政治」とは、以上のように展開される「肉体文学」への批判の中から導き出されたものである――このことを十分押さえておきつつ、この文章の中で丸山が展開している「肉体政治」の分析に分け入ってみることにしましょう。

 先ほど述べたように、丸山は当時大ブームとなっていた「肉体文学」の分析を通して「肉体政治」という領域にたどり着きました。一般的に私たちは政治といいますと、政治家や官僚が行なうものであり、あるいは選挙や様々な市民運動のような形で私たちも限定的にせよ参加するものであると認識しているわけですが、ここでの「肉体政治」というのは、そういった(政治的とされる)行為の集合体としての政治の前段階に位置づけられるものとして考えられています。それは東洋と西洋の政治観を定式化した次のような一文に、きわめて端的に現われている。

 B:第一東洋の政治思想を見ればすぐ分るように、そこにはヨーロッパのそれにあるような組織論とか機構論とかいうたぐいのものは殆どない。大部分が政治的支配者の「人格」をみがく議論か、さもなくば統治の手管に関する議論だ。(略)いずれにしてもそこでは人間と人間との直接的感覚的な関係しか問題にされていない。
(p198-199)

 B:それじゃこういう前近代的なペルソナリスムと近代社会の「人間の発見」とはどうちがうのかといえば、前者において尊重される「人間」とは実は最初から関係をふくんだ人間、その人間の具体的環境ぐるみに考えられた人間なんだ。(略)ところがまさに人間がはじめから「関係を含んだ人間」としてしか存在しえないからこそ、その「関係」は関係として客観的表現をとらない。法と習俗が分化せず慣習法が実定的に優位する。だからそこでは人間と人間が恰もなんらの規範をも媒介としないで、なんらの面倒なルールや組織をも媒介としないで「直接」に水入らずのつきあいをしているように見える。
(p199-200)


……「人格」「直接的感覚的な関係」「前近代的なペルソナリスム」「関係を含んだ人間」「水入らずのつきあい」――こういった表現が「肉体」のパラフレーズであることは既に明らかでしょう。丸山における「肉体政治」とは、こういった表現で記述できるような傾向が支配的な場(つまり日本のことですが)において展開される政治のことであるとまとめることができるでしょう。言うまでもなくそれは近代社会における「政治」とは似て非なるものである。

 上で触れたように、丸山にとって「政治」とは精神=フィクションの領域における行為の体系でした。そして精神=フィクションの領域とは、「肉体文学」についての解説の中で引用した「人間の知性的な製作活動に、従ってまたその結果としての製作物に対して、自然的実在よりも高い価値を与えて行く態度」という一文に顕著なように、あくまで製作活動・製作物によって構成された領域のことである、と思念されている。ここから丸山にとっての「政治」の第二の属性として、製作活動・製作物の相対性が導き出されます。

 B:フィクションの本質はそれが自ら先天的価値を内在した絶対的存在ではなく、どこまでもある便宜のために設けた相対的存在だということにある。(略)フィクションの意味を信ずる精神というのは、一旦作られたフィクションを絶対化する精神とはまさに逆で、むしろ本来フィクションの自己目的化を絶えず防止し、之を相対化することだ。「うそ」は「うそ」たるところに意味があるので、これを「事実」ととりちがえたら、もはや「うそ」としての機能は果たせない。
(p201)

 政治とは「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域を保持することであり、しかもそれを「「事実」ととりちがえ」ることなしに、あくまで相対的なものとして取り扱うことである。そして「政治」とは、フィクションにそれ固有の機能というのがあり、その機能に従う限りで意味がある以上、「ある便宜のために設けた相対的存在」として取り扱わなければならない――丸山にとっての「政治」というのをごく簡潔にまとめると、このようになるでしょう。だから「政治」の領域とは、必然的に複数の価値が複数なまま、相対的に共存している状態であるということになります。こんな具合に、丸山は(様々な具体的政治問題へのレスポンスとは違った)政治一般に対してはかなり機能主義的・構造主義的であり、実際この文章の後に執筆された『政治の世界』(1952)という著書では、そのような見方がさらに徹底して提示されており、後に京極純一や松下圭一といった「丸山学派」と一括りにされる弟子たちの手によってさらに精緻化されていくことになるわけですが、それはまた別の話です。

 ところでこのような複数の価値が複数なまま、固有の機能に従って相対的に共存しているような「製作物」の領域を「政治」の領域と定める態度というのは、ほぼ同時期に「活動action」を政治の原理に据えたハンナ・アーレント(1906〜75)ときわめて類似しております。アーレントにおける「活動」というのは、人間が日々の生を満たすために行なう「労働labor」よりも高次元な営為として定義されており(それゆえ今に至るまで批判も多くされているわけですが)ますが、丸山の「製作活動」もまた、アーレントの「活動」と、完全に一致するわけではないにしても、かなりの程度重なっていると言えるのではないでしょうか(丸山がアーレントを読んだことがあるのかは知らないのでアレですが)。なぜここでアーレントについて言及したのかと言いますと、かたやナチズムを、かたや軍国主義超国家主義を不倶戴天の敵とし続けた同時代の政治哲学者であるという伝記的な共通点もさることながら、二人とも人間の存在から政治についての思索を始めるのをどこかで拒絶しているからです。これは、例えばジョン・ロールズのようなリバタリアンとも、あるいは最近謎の大ブレイクを果たしたマイケル・サンデルのようなコミュニタリアンとも何か異質な発想法です。先ほども触れましたように、アーレントは人間がただ生きること自体に直接関わるような行為を「労働」と呼んで低次元なものとして位置づけましたし、丸山についてはもはや改めて言うまでもないでしょう。

 アーレントとの比較は以上でとどめておきますが、彼女が提示した労働-活動の図式と照らし合わせてみると、丸山が「肉体政治」と呼んで何を警戒していたのかがよりクリアになります――大急ぎで要点だけ提示しておくと、それは「政治の領域が人間の存在それ自体をめぐる闘争に変化してしまうこと」である。ここまで何度か引用してきたように、丸山における政治とは「「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域を保持すること」だったわけですが、それは逆に言うと知性的でない活動が入り込む危険性に対しても常に開かれているということであり、それは実際ナチズム軍国主義超国家主義という形で日本とドイツにおいて実現してしまった。

 B:(ゲオルク・)ジンメル第一次大戦直後に『近代文化の軋轢』という小さいパンフレットのなかで、歴史の過渡期にはいつも生が自己を盛り切れなくなった形式を捨ててヨリ適合した形式をつくり出すのだが、現代は「生」が古い形式に甘んじなくなっただけでなく、凡そ形式一般に反逆して自己を直接無媒介に表出しようとする時代で、そこに最も深刻な現代の危機がある――という意味のことを論じていたように記憶するが(略)
(p205)


 ジンメルを借りつつ、丸山が露骨に危機感を表明しているのは、「生」が「古い形式に甘んじなくなっただけでなく、凡そ形式一般に反逆して自己を直接無媒介に表出しようとする」動きである。それを、ここまで見てきたような丸山の表現を使って言い換えると、「「人間の知性的な製作活動」に裏打ちされた「製作物」としての精神=フィクションの領域によって訓育された「自然的実在」としての生が直接的に露呈する動き」となります。言うまでもなくジンメルにおける「生Leben」こそ丸山における「肉体」であり、従ってそれが直接的に露呈することとは、フィクションとしての領域に「関係を含んだ人間」が入り込むことにほかならないわけです。最初の方で、丸山における「肉体政治」とは「政治」の前段階であると定義しましたが、ナチズム軍国主義超国家主義は、かような観点からすると度し難い逆行であり、しかし一方では依然として未来の問題としてあり続けています――ほかならぬナチズムがまさに近代文化の危機から生み出された鬼子であるとこの「肉体文学から肉体政治まで」の中では定義されているからです。先ほど軽く触れた「政治の領域が人間の存在それ自体をめぐる闘争に変化してしまうこと」とは、以上のような理路をたどって現在の問題として改めて見出されるわけですが、しかし「人間の存在それ自体をめぐる闘争」というのは丸山的な意味での政治では解決できない事態です。政治的問題がアイデンティティ問題として現われてくるような状況は原理的にフィクションによる落とし所が存在し得ない。最初からいきなり生か死かというところから話が始まるような場は、丸山やアーレント的見解に従う限り、もはや政治の場ではないからです(あえて言うなら、それは戦場に近いのではないか)。

 だから――というと、いささか牽強付会に過ぎるのかもしれませんが、政治に「生」=「肉体」が端的に入り込んでくるような事態を、丸山はこんなふうに戯画化することしかできないわけです。

 A:君のいわゆる精神が感性的自然から分離しないところでは政治的精神もまた暴力とか「顔」とか「腹」とかいう政治的肉体への直接的依存を脱しないんだろう。君が前に日本人の生活に「社交」がないという問題を出したが、私生活上での「社交」精神は公生活上の「会議」精神に照応するんじゃないか。第一国会だってすぐポカポカということになるんだから呆れるよ。

 B:ポカポカは政治的肉体というよりただの肉体だが、例えば代議士が選挙民に向って個別的私的利益を直接に満足させるようなアピールをしたり、またある企業とか土地有力者の利害を直接に代表して行動したりするのはまさに政治的精神の次元が独立していない証拠だろうね。
(p207)


 いきなり「ポカポカ」って! とツッコミを入れたくなるところですが(このあたりの表現のセンスは、いろいろな意味で丸山らしいといえばらしいのですが)、上の引用文において戯画的に描写されたあげく、最終的にはなんか丸投げされたような感じで終わる――丸山と彼が論じる「肉体政治」との関係は、一方では原理的に考察されているんですけども、スルーされている部分もあるわけですね。それは先ほど見てきたように「政治」から人間の存在それ自体という要素を排除したがゆえの代償ではあるわけですが。ただ一方で、丸山が見つつも排除した、この人間の存在それ自体という要素から政治という営為を逆照射する動きが、丸山が言論活動を始めたのと同時並行的になされていたことに、注目する必要があるでしょう。

 政治が人間を組織するとすれば、文学もまた人間を組織する。然しその表れ方は同一ではない。政治は個々の人間を直接の対象として組織するのではない。集団としての人間、人間が本来社会的動物であるという意味に於て、社会そのものを組織するのが政治だ。これに反して、文学は個人を直接に組織する。政治が社会的集団の組織として、敵か味方かをはっきり区別するのに対して、文学はそういう政治的組織としての敵の中にも味方の中にも、文学の網の目に捉えることの出来る人間を持っている。


 ……これは「肉体文学から肉体政治まで」が発表された二年前、1947年に『近代文学』という雑誌に掲載された佐々木基一「政治と文学に関する断想」という文章の一節です。『近代文学』誌は戦後まもなく創刊され、佐々木を含めた同人たち(荒正人平野謙本多秋五etc)は、当時文学界隈を二分しそれ以外の分野にも飛び火しながら進行していた「主体性論争」の一方の極として積極的に発言していったわけですが、その過程でこの論争は次第に、戦前以来持ち越されていた「「政治と文学」論争」の第二ラウンドといった様相を呈していくようになります。そういう中で発表されたこの佐々木の文章は「政治」と「文学」に対して、ただ二つに分けるわけでも、一方の側からもう一方を全否定するわけでもなく、「個々人を組織する」という行動の方法論として二つは動機を共有しており、しかしそのやり方において両者ははっきりと異なってもいるという、見ようによってはきわめてあいまいな定義を与えています。《人類がお互い同志を破滅し合う戦争を完全に必要とせぬ段階に到るまでは、僕にとって、政治と文学とは依然として矛盾の契機を孕んだ、互に相手を必要としながらも反発し合う二個の領域に止るであろう》――佐々木は文章の末尾にこう書いていますが、この矛盾こそ、おそらく丸山が発見しつつスルーした部分に関わるのではないかと、個人的には思うところでして。そしてこれは戦後という一時期に固有のものではなく、「(肉体)文学」と「(肉体)政治」との間には現在においても依然として何か考えつくされていない関係があるのではないか――そのような予感を仄めかしつつ、報告を終えたいと思います。