金サジ「STORY」展

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 蹴上にあるアートスペース虹で5.3~15の日程で開催されていた金サジ「STORY」展。写真作品を多く手がけている金女史の、同所では昨年に続く個展とのことですが、当方が彼女の作品に接するのは2012年にGallery PARCで行なわれた個展以来となります(爆)。

 

 今回は大判の写真作品が十点ほど展示されていました。どの作品もヴィヴィッドな色彩とともに民俗性や寓意性を観る側に印象づけるものとなっており、何がしかの大きなサーガのスチル写真といった相貌を見せていたわけで、その意味で「STORY」という展覧会タイトルに偽りなしといった趣。実際、金女史は昨年以来、自身のエスニシティと日本で生まれ育った記憶とを交差させることで「私という存在を確認するために、記憶をひとつひとつ紡ぎあげて、物語を作っていく」(フライヤーより)ことに主眼を置いた連作を制作しているそうで、(当方は未見ですが)昨年の出展作や今後の制作を通じて「わたしのための創世の物語」(ibid)を提示することを目指しているのだとか。その意味で、彼女自身のエスニシティや経験の記憶がストレートに反映されているというよりは、それらに由来する(であろう)自身の様々な情動が再演される舞台としての物語世界を構築する――本人は中二病がさらにキツくなったような感じと冗談めかして語ってましたが――ことに主眼が置かれていると言えるでしょう。それは、写真について語る際に写真を撮る身体にこだわっていることを強調していたことで、さらに際立っている。

 

 このような金女史の作品を見てついつい連想したのは、今冬から今春にかけて東京で開催された個展がいろいろな意味で話題になったシャルル・フレジェについてでした。SNSを瞥見するに、とりわけ銀座のメゾンエルメスで開催中の「YOKAINOSHIMA」展( http://www.maisonhermes.jp/ginza/gallery/archives/14259/ )での写真作品が東北の伝統的な祭りの衣装を被写体としていることに対して、それはオリエンタリズムではないのかいう疑義が提示されていた様子ですが、かようなフレジェ作品のキモはそこにではなく、むしろ被写体の造形的な形態への耽溺具合であり、文脈やら何やらを取り除いてフォーカスを合わせるフレームアップの巧みさにあると言わなければならない(それに、同時期に恵比寿のMEMで開催されていた個展「BRETONNES」展では、全く同じフレームアップを自国内ブルターニュ地方の女性の民俗衣装に対して行なっていたから、彼に対してオリエンタリズム云々というのは最初から的外れである)。

 

 ――寄り道は以上にとどめておきますが、金女史の写真もまた被写体(の一要素)へのフレームアップを意識的に採用しているという点においてフレジェと一定の共通性があると見ることができるでしょう。ただしここで大急ぎで付け加えなければならないのは、金女史の場合、かかるフレームアップによって写真家たる自分自身の身体が消去されずに逆に露呈しており、その点においてベクトルが逆を向いているということである。上述したように、金女史においては「物語を作っていく」ことが写真において目指されているわけですが、それは身体や存在をフレームアップによって獲得された透明な目線に解消することではなく、逆にそれへの抵抗として提示されているわけですね。言い換えるなら、彼女の作ろうとしている「物語」は、(私たちが通常そう理解するような)透明で滑らかな語りではなく、メディア/メディウムの――それは「身体の」と同義である――不透明性において語られる何かである。彼女の、写真を撮る身体へのこだわりを、私たちはかような角度から理解する必要があるでしょう。それが、今日の写真(論)のトレンドとどの程度交差しているかについては別問題だとしても。