2013年 当方的展覧会ベスト10+2(前編)

年末なので、当方が今年見に行った中から、個人的に良かった展覧会を現代美術限定で10+いくつか選んでみました(順不同)。まずは前編



・中原浩大「自己模倣」展(9.27〜11.4 岡山県立美術館)
 1980年代〜90年代前半の日本現代美術について考える際に避けて通れない存在でありながら、90年代後半は以降狭い意味での現代美術界隈においては寡作になったこともあってか、アクチュアルな場面と絡めて語られることが少なくなった――その一方で、奇妙に伝説化もされていった――中原浩大氏。昨年の伊丹市立美術館でのドローイング展(「コーチャンは、ゴギガ?」展)に続いて開催されたこの「自己模倣」展は、そんな中原氏の80年代から近作までが一堂に会する貴重な機会となった。《海の絵》や《レゴモンスター》といった代表作クラスの作品が出ていなかったことで、回顧展としては出展作のキャッチーさに欠ける憾みがあったものの、そのことによってよりニュートラルに氏の作品に向き合えるようにしつらえられていたように、個人的には思うところ。制作年代順ではなく、フロア内を自由に回遊できるように作品が展示されていたことが、そのことをさらに際立たせている。

 で、一堂に会した作品群を見てみると、中原氏が80年代において同時代の彫刻の諸動向が前提としていた問題系をいかに解体し、別の方向に転換させていったかがおぼろげながら見えてきたわけで、その意味では個人的になかなか俺得だった。当時の彫刻界隈が――「禁欲的」と雑に言われるような――観念性、言い換えるなら「物質から「物質の状態」への関心の移行」((C)中原佑介)に支配されていた中、氏のこの時期の彫刻でもインスタレーションでもあるような作品がかかる「禁欲的」傾向=形相の優位から物質(質料)を救い出すという切実な動機から出てきたこと、かような作風が80年代後半〜90年代前半において〈身体〉を基点とした感覚の拡張として再提示されることで、物質(質料)をめぐる技芸としての彫刻をそのまま、〈身体〉が受け取るイメージの技芸へと転換させたこと――これらの意義はいくら強調しても足りないだろう。かつて椹木野衣氏は若手の美術家が(そのアティチュードのレベルにおいて)中原氏の影響下にあることを指摘していたが、この展覧会もまた、中原氏の作品の、アクチュアリティと交差した読解を強く要求していると言える。



・「ミニマル|ポストミニマル 1970年代以降の絵画と彫刻」展(2.24〜4.7 宇都宮美術館)
※出展作家:荒井経 石川順惠 薄久保香 遠藤利克 川島清 辰野登恵子 戸谷成雄 中村一美 袴田京太朗 堀浩哉

 〈もの派〉以後の1970年代後半〜80年代初頭の、いわゆる「ミニマリズム」ないし「ポストもの派」と雑駁に呼ばれる動向やそこに属するとされる作家については個人的に全く不勉強なままここまできたので(爆)、そこをピンポイントでついてきたこの展覧会は本当に勉強になった次第。中村一美氏や堀浩哉氏の絵画作品、あるいは遠藤利克氏や戸谷成雄氏の彫刻作品には、それぞれ個別にあちこちの美術館で接したことがあるけれども単体ではイマイチ理解できなかっただけに、きちんとしたパースペクティヴのもとに一堂に会した状態で見ることで、彼らに共通している(とおぼしき)問題意識が――それに対して同意するかどうかともかくとして(実際、こういった動向に対するカウンターという性格を、ニューペインティングの日本への導入などに顕著な80年代前半の諸動向は持っていたのだった)――なんとなくにせよ体感できるようにしつらえられていたのは、個人的にはきわめてポイント高。図録も谷新氏の文章を含めて読み応えのあるものとなっていたし(とは言え、会期中に何回か開催されたトークやシンポジウムの記録集はいつ出るんでしょう)。

 ところで当方が見に行った折には中村一美氏と石川順惠女史のトークショー「モダニズム絵画の現在」が開催されていたのだが、欧米における同時期の重要な動向であるミニマリズムと違った原理を自分たちがいかに絵画において探求してきたかが焦点になっており、これは中村氏&石川女史の個別の画業にとどまらない射程を持っているように、個人的には思うところ。中村氏に関しては来春国立新美術館で個展が予定されている(http://www.nact.jp/exhibition_special/2013/NAKAMURA_Kazumi/index.html)とのことだが、そこでもこのトークの中で頻出していた「(ミニマリズムの還元主義を超えた)複数性の探求」がキーワードになるのかもしれない。そういう予感&期待も含めて、今後繰り返し参照されるべき展覧会。



・「犬と歩行視part.1、part.2」展(part1: 3.16〜31、part.2: 10.5〜11.17 京都市立芸術大学ギャラリー @ KCUA)
※出展作家(part.1):林剛 井上明彦 木村秀樹 黒河和美 倉智敬子 杉山雅之 高橋悟 建畠晢 長野五郎 (part.2)林剛 中塚裕子
 60年代から京都を中心にして活動し、関西におけるコンセプチュアルアートを語る上で重要な位置を占める林剛(1936〜)氏。この「犬と歩行視」展ではそんな林氏を軸として、part.1では氏の70年代の仕事とそれに連なる(京都における)コンセプチュアルアートの現在が、part.2では氏がパートナーの中塚裕子(1951〜)女史と協働して1983年から91年にかけて京都アンデパンダン展を舞台にして制作された巨大インスタレーション作品がフィーチャーされていた。とりわけpart.2における巨大インスタレーション――会場ではその最初の作品である《The Court 天女の庭/テニスコート》(1983)が再制作されていた――は現在の目から見ても作品の規模の巨大さとともに、そこに含まれたインプリケーションの多種多様さと、それらを組み替える異例な方法論にも瞠目することしきり《「The Court 天女の庭/テニスコート」に始まる彼らの仕事は、textual(言葉の織物)とtectonic(構築設営)が相互に絡み合いながら変化してゆくダイナミックなプロセス(航海日誌)を体験させるものである。彼らの作品には、今日の鑑賞者の気に入るあらゆるものがある。子ども達、特に女の子のための本、異様で秘境的な、素晴らしいことば、格子・コード・コード解説、デッサンと写真、深い精神分析的な内容、典型になるような論理学的・言語学的形式主義、そして現実の楽しみを超えたところにある何か別のもの、意味と無意味の戯れ、カオス・宇宙。彼らが存在と概念に割り振る新しい配分方法は、今まで誰も見なかったところに境界線を引き、それを超えさせようとする力を持っている》(「犬と歩行視part.2」展フライヤーより)。

 そしてそれらを束ねる鍵として、林氏においては〈犬〉が重要な位置を占めていることにも注目する必要があるだろう。実際、part.1、2双方に「犬」と大書された平面作品が出展されており、この展覧会のアイコン状態となっていたのだが、この「犬」は任意に選ばれたものではなく、「Marcel Duchamp(マルセル・デュシャン)」に空耳するであろうフランス語「marchand du chien(犬の商人)」から来ているそうで、言葉と意味やニュアンス、音韻、歴史(美術史)などがショートカットされ、ズラされることで「今まで誰も見なかったところに境界線を引き、それを超えさせようとする力」を新たに賦活された、その象徴的な形象としての〈犬〉なのである。



・引込線2013(8.31〜9.23 旧所沢市立第二学校給食センター
※出展作家:伊藤誠 遠藤利克 荻野僚介 利部志穂 倉重光則 末永史尚 鷹野隆大 冨井大裕 戸谷成雄 登山博文 豊島康子 中山正樹 前野智彦 眞島竜男 益永梢子 水谷一 箕輪亜希子
 タイトルから「所沢ビエンナーレ」の文言が外され、会場も出展作家の人数もダウンサイジングされた形で開催された今年の引込線だが、結果として展示空間の凝集力が上がったように感じられ、個人的には見に行った甲斐があったなぁと素直に思える展覧会だった次第。出展作家の顔ぶれもそこそこ変わったことで、作品の(展示場所に対する)自立/自律性が過剰に問題視されて「ポストもの派再考状態」という揶揄も聞こえてきた前回と違い、展示場所の特性との関係の取り結び方がより繊細になった作品が多くなったように、個人的には思うところ。そのことで展覧会や出展作品から受ける印象も(核となる部分は不変ながら)また違ったものとなったような。

 出展作の中では、利部志穂女史のキレッキレぶりが好印象。今春国立新美術館で開催された「アーティストファイル」展でも非常に精度と寓意性の高いインスタレーション作品を出展していたが、この引込線2013でもクセの強い場(なにしろ、かつての設備がそのまま残されているのだ)の中でそれに寄り添いつつも溺れる事なく作品を作りこむことで、それ自体が寓意として機能する作品をものしていたわけで、これはポイント高。この他にも伊藤誠氏や冨井大裕氏、遠藤利克氏、益永梢子女史の作品が好印象だった。



・「ハイレッド・センター 直接行動の軌跡」展(11.9〜12.23 名古屋市美術館
 高松次郎、赤瀬川原平中西夏之各氏によって1960年代前半に結成され東京の街中で様々なパフォーマンスを繰り広げたハイレッド・センターHRC)は、戦後日本の現代美術を語る上で欠かすことのできない存在であるが、意外にもその活動自体の回顧展というのはこれまでなかったそうで、その意味では開催されたこと自体が意義深い展覧会であると言えよう。パフォーマンスを主とした団体(?)の回顧展であることから、基本的には記録写真が中心となっていたのだが、それらを見ても彼らの活動が当時いかにクリティカル(危機的=批評的)であったかがよく分かる。

 ところでこの展覧会、折しも反原発運動や先日可決された特定機密保護法案への反対運動としてデモが東京で頻発していた中で開催された形となり、図らずも(?)同時代性を持つ形となったわけだが、しかしHRCが突出させていた「直接行動」という要素は――とりわけ現下の反原発運動においては――見かけに反して回避・抑圧されているのもまた事実と言えば事実ではあり、その一点においてHRCと現在の(市民=国民主義的な)デモ活動との差異は、きっちりと強調される必要があろう。赤瀬川氏はかかる直接行動の一局面としての「反芸術」のクライマックスとしての千円札裁判を経て「68年革命」の重要な随伴者となっていく(余談になるが、氏のその頃の仕事である「櫻画報」が「六本木クロッシング2013 アウト・オブ・ダウト」展(森美術館)でフィーチャーされていたのは良かった)のだが、HRCの三人がそれぞれ通過していくことになる「1968年問題」((C)光田由里)は、今後の日本の現代美術を考える上でも大きな論点になろう。

2013年 当方的展覧会ベスト10+2(後編)

 続いて、後編です。



・「であ、しゅとぅるむ」展(1.9〜20 名古屋市民ギャラリー矢田)
※出展作家:あいちはぶ(池田健太郎辻恵、文谷有佳里、もぐこん) 泉太郎 伊藤存 ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ 小林耕平×山形育弘×伊藤亜紗 坂本夏子+鋤柄ふくみ 二艘木洋行お絵かき掲示板展 山本悠とZINE OFF(鎖国探偵、だつお、長島明夫、福士千裕、福永里奈、寶樂圭、三輪彩子、森篤士、sukechan、tutoa、qp、etc.) 優等生(梅津庸一、大野智史、千葉正也、福永大介) KOURYOU qpとべつの星(會本久美子、川島莉枝、田中佐季、佐藤紀子、ナカノヨーコ、ナガバサヨ、はまぐちさくらこ、はやしはなこ、前田ひさえ、森田晶子)
 名古屋市が毎年開催している「ファン・デ・ナゴヤ」の今年の企画展のひとつとして開催されたこの展覧会。「美術に属する表現と大衆文化に属する表現が一堂に会することで、2000年以降の日本における多様な創作活動の縮図を示す」(ウェブサイト(http://dersturm.net/#about)より)と宣言されていた通り、画家やイラストレーターのみならず、同人作家やお絵かき掲示板の常連(?)投稿者、果ては(泉太郎氏と同姓同名ということで氏本人から出展を依頼された)日曜写真家まで投入されており、出展作家の雑多ぶりとしては、ここ数年例のないものとなっていたわけで。で、そういった人々が(伊藤存氏とKOURYOUを除いて)「あいちはぶ」や「優等生」「qpとべつの星」といった謎ユニットのメンバーとなって作品を出展していたわけだから、これはもう。

 かかる雑多さの累乗状態は作家の固有(名)性を剥ぎ取るような行為――それは誰一人として固有の領域を与えられていない状態で、他人の作品を視界に入れないと見られないようになされた展示によって、さらに増幅される――によってもたらされたものであり、その意味で、この展覧会において示すことが企図された「2000年以降の日本における多様な創作活動の縮図」とは、多様な創作活動の即自的な反映ではなく、それ自体が暴力的な行為の結果もたらされたものであることに、ここで十分注意しておく必要があるだろう。まさに「der Sturm(暴風)」に偽りなし。「大衆文化に属する表現」に対して、素朴な反映論やクロスオーバーとは違った態度をここまでのテンションで大規模に貫いてみせたことは、普通に買い。



・伊東宣明「芸術家」展(5.21〜6.2 Antenna Media)
 関西を中心に、主に映像作品を手がけている伊東宣明(1981〜)氏。この「芸術家」展では、古今東西の芸術にまつわるアフォリズムをまとめた「芸術家十則」を伊東氏が自作し、それを自身もアーティストである岡本リサ女史に一分以内に早口で暗誦させるという、何だか外食産業の新入社員研修みたいな行為の一部始終がドキュメントされた一時間ほどの映像作品が出展されていた。自分自身が被写体/被験者となって作られてきたこれまでの氏の映像作品と比べても――内容のえげつなさを含めて――不穏な気配に満ちた作品となっており、その意味では氏の作品の中でも際立ったものとなっていたと言えよう。

 かように、内容的なキャッチーさが関西の美術界隈では話題となっていたフシのあるこの「芸術家」展だが、伊東氏の作品にそれなりに接してきた目からすると、氏の作品に頻出する「「行為」と「存在論的フレームワーク」の乖離や壊乱」が主題となっているのが一見して分かるように作られていたことに注目しておく必要があるだろう。この作品の場合、芸術と芸術家との間に往々にして問われる「芸術が先か芸術家が先か」という問いに対して「これを正しく暗誦することができたら芸術家である」という形で芸術(という行為)に対する定義なしに芸術家の存在を定義してしまうわけで、ここにおいてもやはり行為(芸術)と存在論的フレームワーク(芸術家)との関係が壊れてしまっていることが主題になっている。そのような考察の一貫性を含めて見るべき良展覧会。



小田島等「1987+My Osaka is」展(5.10〜6.2 中之島デザインミュージアムde sign de)
近年大阪に拠点を移して活動を続けているというイラストレーターの小田島等(1972〜)氏が中学・高校時代にやっていた雑誌広告の模写やコラージュを集めた「1987」と大阪で見つけた光景を写真に収めた「My Osaka is」の二つの要素からなっていたこの展覧会。個人的にはやはり前者の「1987」が興味深かった。80年代において開花したポップなイラスト文化に憧れていた自分自身をここまで見せるあたり、『1980年代のポップ・イラストレーション』の著者の面目躍如と言うべきであろう。

 その一方、「1987」というタイトルによって、単なる個人的な回想にとどまらない広がりを持っていたことにも注目しなければならない。近年、主に中ザワヒデキ氏らによって80年代前半の美術界における日本グラフィック展の重要性が唱えられているが、実際80年代には絵画とイラストレーションとの、単なるクロスオーバーにとどまらない表現上の交錯が――欧米における〈ニューペインティング〉の日本への導入に合わせて――様々に試されていたわけで、そういうムーヴメントの象徴としてあるのが、ひょっとしたら1987年という年号なのかもしれない。「絵画として〈キャラクター〉を描くこと」が当たり前となった感のある現在において、この時期の絵画/イラストレーションの相関・相剋関係に立ち返ることはそれ自体アクチュアリティがあり、見る側をそこに立ち返らせようとしているところに、この展覧会の意義深さがある。



・「SLASH / 09 −回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を−」展(6.7〜7.22 the three konohana)
※出展作家:小林礼佳 斎藤玲児 藤田道子/結城加代子(キュレーター)
 インディペンデント・キュレーターの山中俊広氏が今年西九条に構えた新スペースthe three konohana(http://thethree.net/)はオープン以来エッジの効いた作家チョイスと運営方針とで、大阪の現代美術界隈において早くも独特の位置を占めつつあるが、そんな同所で個展と並んで大きな位置を占めるのが外部キュレーターによるグループ展「Director’s Eye」であり、その第一弾として企画されたのがこの展覧会。主に東京で好企画をキュレーションしている結城加代子女史の展覧会が関西で初めて見られるということで、個人的には期待しきりだったのだが、三人の美術作家のインスタレーションを混在させ、しかもそこに有機的な関係性を持たせるようにしつらえる手腕の高さに唸るばかりだった次第。無意味な要素がひとつもないという点において、意味の配置よりもその並存状態に重きを置く関係性(心理学で〈自由基free-radical〉と呼ばれるような)が指向されていたことは、普通に買い。

 この点において、個々の作家や作品をピックアップするというアプローチが賢明な態度ではないことを前置きしつつも、個人的には小林礼佳女史の作品が好印象。ヘルメットやビニールシート、ランプといった防災グッズに自作の詩が活字によってプリントされているという彼女の作品は、モノに対する感度とともに記号や象徴秩序への感度をも見る側に要請するものとなっており、意味の並存状況をさらに増幅させることに一役買っていたわけで。後で述べる「ハルトシュラ mental sketch modified」展と並んで、関西におけるインスタレーションの展示としては、そのモード転換を促すようなものとなっていたと言えよう。



・末永史尚「目の端」展(10.24〜11.9 switch point
 今年はVOCA展や引込線2013、「Safety Place」展(9.14〜10.12 TALION\GALLERY)といったグループ展で末永氏の作品に接する機会が割とあったのだが、管見の限りで氏の本領が十全に発揮されていたのは、やはりこの個展をおいて他になかったわけで。ピカソマティス光琳などの絵の一部分だけをモティーフとした絵画や、木材に塗装して名刺の束や段ボール箱のように見せる立体作品など、ありふれているがゆえに視界内における志向作用から往々にして消えてしまうものに焦点を当てた作品が多かったわけで、その意味で「目の端」とは言い得て妙である。

 一方、末永氏の面目躍如だったのは、バーネット・ニューマンを画像検索して得られた結果の画面をモティーフに描くという絵画作品。画像化された画家の作品を、画像とわかるように描くという入れ子状的なフレームワークで描かれたいたわけで、様々な角度から読み解きたくなるところ。かようなモティーフを描くことで、一口に出展作の良さを言うにも、元ネタの絵が良いのか、画像化されたから良いのか、末永氏の画力が良いのか、という少なくとも三つのレベルが混在することになるわけで、その中で見ること/判断することの規準が分裂することになる。そういう方向に見る側を使嗾している点は、きわめてポイント高。

2013年 当方的展覧会ベスト10+2(Appendix)

 ――この二つは当方も作品制作以外のところでちょいちょい関わったので、一応別枠で



・Jimin Chun+川村元紀「ハルトシュラ mental sketch modified」展(CAS)
 詳細は該当記事(http://d.hatena.ne.jp/atashika_ymyh/20130628/1372417699)参照。

 ……で終わってしまうのもアレなのでもう少し続けると、関西においてはインスタレーションがどうもヌルい表現の代名詞みたいに扱われていた感があった中、川村氏の持つ物と物との関係性への鋭敏な意識と、それを出力(?)する際に出てくるエッジの効いたセンスが導入されたことは、それ自体なかなかインパクトのある出来事だったと言えるかもしれない。あと、やはり、「棚は作品じゃない」という氏の超発言。



北加賀屋クロッシングMOBILIS IN MOBILI展(コーポ北加賀屋
※出展作家:梅沢和木 河西遼 川村元紀 高橋大輔 武田雄介 二艘木洋行 百頭たけし 三輪彩子 百瀬文 吉田晋之介/長谷川新(チーフキュレーター)
 明らかに六本木クロッシングを意識した上で茶化したとおぼしき展覧会タイトルとは裏腹に、80年代生まれの作家に広がる多様性と、それらが各作家の主観を超えたレベルで錯綜した結果として一つの「現在性」のごときものに収斂していることとが同時に見渡せる稀有な機会となったわけで。あと、個人的には、関東の現代美術鑑賞界隈において最近しばしばその名が上がっていた高橋大輔氏や百瀬文女史の作品に初めて接することができたのが、大きな収穫だった。