森村誠「OTW / THC」展

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 この8月から10月にかけて大阪市内の二つのギャラリーで立て続けに開催された「THC」展(8.29〜9.9、於Calo Bookshop and Cafe)と「OTW」展(9.16〜10.22、於the three konohana)は、森村誠(1976〜)氏の未発表の旧作と新作を続けて見せることによって、氏の作品が潜在的に持っている別種の射程に見る側の注意を向けさせるものとなっており、その意味で非常に面白く、またアクチュアルでもあったと言えるでしょう。どちらも地図上の文字を一定の規則に従って切り取ったり修正液で消したりするという、近年の森村氏の作品の主軸をなしている作風が横溢していましたが、どちらもかような微細な行為の集積がそのまま別のアクチュアルな位相に接続されていく、その巧みさがきわめて印象的でした。

 

 先に開催された「THC」展では、ニューヨークの地図や地下鉄路線図から「T」「H」「C」以外を修正液で塗りつぶした作品を中心に、数年前に制作されるも諸般の事情でこれまで展示されたことのない作品が出展されていました。「THC」とは大麻に含まれているヤバい成分の略称だそうで、この三文字に焦点を合わせることによって都市とドラッグないしドラッグカルチャーとの関係性が俎上に乗せられていると、さしあたっては言えるでしょう。で、それは、東京都の地図を用いた作品では「大」「麻」の二文字がくり抜かれていたり、以上のように加工された地図がドラッグカルチャー界の大物として知られるアメリカの詩人ウィリアム・バロウズ(1914〜97)の著作と並べられたり、さらにはくり抜かれた文字で作られた紙巻タバコ(っぽい何か)が並置されたり――当方が接した日には「モリムラナイト」ということで、タバコの葉をほぐして乾燥させて刻んだアジサイの葉っぱ(会場近辺の靱公園から採集してきたという)と混ぜて水増しし、紙巻タバコを改めて作るというパフォーマンスが行なわれてました――していることで、さらに強調されていた。かような具合に大麻を(あくまでも記号として、葉っぱそのものを使わない形ではあるにしても)前面に押し出しているわけですから、見ようによってはヤバいものがある。

 

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 一方、「OTW」展の出展作は、様々なギャラリーが展覧会の告知用に作るDMやフライヤーに付された地図を切り抜き、何枚も継ぎ合わせて一枚の平面にするというものでした――とひとことで書くと「THC」展とは対照的な単純な作品のように聞こえてしまうかもしれませんが、実際には文字情報を消去したり刺繍糸によって縫い合わされる形で継がれていたわけで(実際、いくつかの出展作は刺繍作品の制作途中のような形で展示されていた(画像参照))、こちらも「THC」展の出展作同様に微細な行為の集積によって作品が成立していた。個人的には展覧会に行った先で、あるいは行きつけのギャラリーから自宅に送られてきてこれらのDMやフライヤーに接する機会が多いので、作品を見てあぁこれは◯◯ギャラリーのから切り取られたものですねと、ギャラリスト氏と談笑したり。ちなみに展覧会タイトルの「OTW」とは「on tne way」の略とのことで、地図を使用した作品にふさわしいものとなっております。

 

 消されたりくり抜かれたりした文字やそうされなかった文字を走査することで、“見慣れた地図”=“地図に表わされた実際の土地”に全く別の意味論的な相貌を与えてしまい、それによって「地図」と「土地」と「人間」との三項関係をハッキングしてしまう――地図を俎上に乗せた作品において森村氏が試みているのはそのような行為であると、さしあたっては言えるでしょう。しかし今回「THC」「OTW」と連続して個展を行なわれたことで見えてきたのは、かようなハッキング行為にドラッグ(カルチャー)という要素が加わることによって一回性ではなく大きなプロジェクトの一環であるという性格が付与され、それによってコンセプチュアルな一貫性が明確に与えられたということであると言わなければなりません。それはあからさまにドラッグ(カルチャー)を参照項としている「THC」展はもちろん、一見すると全く関係ないように見える「OTW」展にも見出されるのではないだろうか。

 

 上述したように、「OTW」展ではギャラリーが出す各種フライヤーに付された行先案内図を切って貼った作品が多く出展されていましたが、それらは集積されて大きな地図を形作るというより、相互間の断絶や飛躍(まさにカットアップである)が強調され、全体としては地図としての用をなさないものとなっている。それは地図というより「地図」と「土地」と「人間」との三項関係が相互に切り離された後における心的地理を端的に示しているわけです。森村氏のハッキング行為は、「地図」が覆い隠してきた心的地理における断絶――これは街歩きを趣味にしている者なら多かれ少なかれ感じることでしょう――を改めて浮かび上がらせるものとなっている。特にギャラリーの地図は、デザイン性を重視するあまり地図としての用をなさなかったり(個人的な経験では、これは東京のギャラリーに多いような気がする)、近年では端的にスマホでグーグルマップとにらめっこしながら場所を確認するというスタイルに取って代わられていることもあって、三項関係やそれらのハッキング行為について格好のサンプルとなっているわけです。

 

 こういった「地図」と「土地」と「人間」との三項関係と心的地理におけるその変質を、ヴァルター・ベンヤミンが「遊歩者」という形象――言うまでもなくベンヤミンにおいてそれは19世紀以降のブルジョワを担い手とする「大衆消費社会」がもたらした「夢」や「知覚様式」と結びつけられることになる(ただしブルジョワ=遊歩者と一概に言えないところにベンヤミン独特のややこしさがあるわけで…)――をその担い手として措定したように、私たちもドラッグ(カルチャー)に使嗾されたところから分析する必要があると言えるでしょう。