「90's日本美術って何だったの!?――what was that!? レントゲン藝術研究所黎明期の日本の美術」展関連トーク

 馬喰町にあるラディウム・レントゲンヴェルケで9月1日に行なわれたトークショー「90's日本美術って何だったの!?──what was that!?  レントゲン藝術研究所黎明期の日本の美術」。同ギャラリーで開催されていたコレクション展(出展作家:中山ダイスケ、三上晴子、ヤノベケンジ、古井智、村上隆、津田佳紀、森村泰昌)の関連企画ということで、同ギャラリーのオーナー池内務(1964〜)氏と、現代美術家の中村ケンゴ(1969〜)氏が登壇していました。

 池内氏は1991年に大森東(東京都大田区)にレントゲン藝術研究所をオープンさせ、1995年の閉鎖までの間に多くの展覧会を開催した――特に1992年に椹木野衣氏のキュレーションで開催された「アノーマリー」展(出展作家:伊藤ガビン、中原浩大、村上隆ヤノベケンジ)は現在もなお語り草となっている――ことで知られています。ここで多くの若い美術家が個展やグループ展を行なっていたことから、1990年代前半の東京において(単なる一ギャラリーという以上に)現代美術シーンの震源地的な場所であったと現在でも回顧されることしきりなこのレントゲン藝術研究所ですが、この時期について当の池内氏が公に語ることは意外にもほとんどなかったそうで、それならばということで、当時美大生で同所に足繁く通っていたという中村ケンゴ氏がいろいろ訊ねてみようという形で企画されたとのこと。中村氏には眞島竜男氏、永瀬恭一氏、楠見清氏etc.との共著『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』(アートダイバー)がありますので、この時期についてのトークの聞き手としてうってつけの存在であると言えるでしょうが、今回のトークはその続きというか、同書で集中的に取り上げられ歴史化しようとしていた1990年代の日本現代美術におけるラスボス的存在とのセッションという性格を色濃く漂わせていたのでした。

 

 さておき、今回のトークは(モデレーターを務めたアートダイバー社長の細川英一氏いわく)何らかの形で近く公刊されるとのことなので、細かい内容についてはここでは最低限の記述にとどめておきますが、今回のために持ってきたという池内氏秘蔵の関連資料(図面や入口のデザイン画、契約書など)や三階にあったというレジデンススペースに村上氏が常駐していた話、「アノーマリー」展の裏話が披露されたりするなど、氏の旺盛なサービス精神によって、単なる過去回顧にとどまらない話が90分間怒涛のように続いたわけで、一介の現代美術史ヲタとしては俺得きわまりなかったです。一般論として、1990年代というのは、80年代における森村泰昌氏や中原浩大氏、石原友明氏、「超少女」(松井智恵女史、吉澤美香女史etc)らによる「関西ニューウェーブ」から、村上氏や中村政人氏、小沢剛氏らによる「東京ポップ」へとトレンドが大きく変化――それは日本現代美術の言説的なヘゲモニーが関西から東京に移ったことをも意味するだろう――していった時期に当たるという、(自身も「東京ポップ」の担い手の一人だった)中ザワヒデキ氏の所説に代表されるように、日本の現代美術において一つの画期・モードチェンジをなす時期であるとされるにもかかわらず、例えばZINEやミニコミ誌を含めたアートブックの出版点数自体が80年代やゼロ年代以降と較べて圧倒的に少ないなど、一次資料・史料の数自体が少ないこともあって、近過去にもかかわらず後から実証的に走査するにはなかなか難渋する時代でもある。だから例えば(このトークショーの数日前に広尾のカイカイキキギャラリーにおいて開催されたという日比野克彦氏とのトークにおいて)村上氏がポストもの派以降(氏自身が領導した)〈スーパーフラット〉までムーヴメントが存在しないという趣旨の発言をしていたり、椹木氏が1990年代前半の日本現代美術について語る際に通常の俯瞰的な叙述から逸脱することをあらかじめ宣言した上で語り始める(例:「「レントゲン藝術研究所」という時代 バブリーな開放感から、ニヒリズムの爆発へ」(『美術手帖』2005年7月号所収))という、その時代の当事者たちによる、良く言えば豊穣な思い出話、悪く言えば放埓なポジショントークが横行している現状があるわけで。ですから、90年代を多少なりとも客観的な歴史として改めて語り直す際に、上記のような端的な例に見られるような我有化に対して、当時きわめて重要な伴走者であったと衆目一致するギャラリストの回顧談という形で介入していくことが意図されていたわけです。実際、村上氏や椹木氏がこの時期について言いっぱなし状態であるという現状にはいろいろ思うところがあると、池内氏は語っていました。

 

 このように、今回のトークは、レントゲン藝術研究所を運営していたギャラリストと当時美大生だった現代美術家による「東京ポップ」再考という性格を色濃くにじませたものとなっていたわけですが、対談が進むにつれてクローズアップされていったのは、ギャラリストとしてこの動向を強力に推進した存在とされる池内氏と「東京ポップ」との関係が意外と微妙というか、そんなに単純なものではないということでした。レントゲン藝術研究所は3フロア190坪という、当時の日本現代美術界においては(ことによると現在においても)破天荒過ぎる場として唐突に登場したのですが、それによって池内氏と「東京ポップ」とが幸福な関係を取り結んでいたかというと、当時においても微妙な齟齬があったらしい。で、それは年を追うごとに加速度的に広がっていき、1995年の閉廊〜南青山への移転(この移転によって190坪から四畳半になったという(で、幾度の変転を経た現在、ラディウム・レントゲンヴェルケは24坪とのこと))に至る、と。

 では池内氏と「東京ポップ」との間にあった齟齬とは何だったのか――氏が第一にあげていたのは、「東京ポップ」が基本的にオフミュージアム志向だったということでした。実際、「東京ポップ」の主要な成果として今日回顧されるのは、当時街頭で行なわれたイベントやパフォーマンス、あるいはオルタナティヴスペースの設立と運営であることはよく知られています。小沢剛氏による《なすび画廊》や《地蔵建立プロジェクト》、スモールビレッジセンター(小沢剛村上隆、中村政人、中ザワヒデキ各氏によるユニット)による一連の「大阪ミキサー計画」、中山ダイスケ氏たちによる「スタジオ食堂」などがオフミュージアム志向の顕著な例としてあげられるでしょうが、それらが本質的に持っていた「オブジェとしての作品を「つくらない」」ことへ向かっていくベクトルが、骨董商の息子として生まれ――ちなみにレントゲン藝術研究所自体も父親の事業の一環という態で起こしたという(だから同所に東京美術倶楽部の人たちが大挙してやってきたこともあるそうで)――現在に至るまで造形物としての出来の良さや作りの細かさを第一義に作家や作品を選別している池内氏的には違和感しか覚えなかったらしい。で、そういうシーンへの違和感を伏線として、ある日収蔵庫(レントゲン藝術研究所は二階が収蔵庫になっていた)に置かれていた作品群がどこに何があるかわからなくなっていたことに気づいたことが決定打になって、閉鎖を決意したのだという。もちろん、他にも様々な要因があるのかもしれませんが、少なくとも池内氏の中では自身の身体感覚に直接やってきた違和感が契機になっているというのは、非常に徴候的ではあります――「東京ポップ」が持っていたかかる活動の非物質化/コンセプチュアル化と、池内氏が抱いた身体感覚からの遊離への嫌悪感とが、ここでは互いに鏡像関係を描いているからです。

 

 一方、中村ケンゴ氏は、池内氏が述べていく様々な思い出話を自身のアーティストデビューまでの軌跡と状況論に接続させつつ「歴史化」していっており、その手つきの良さに普通に勉強になりました。関西に住んでいると東京の動向についてはどうしても手薄になってしまうので(まして、先に述べたように資料・史料自体が少ないのだから、なおさらである)、これは普通にありがたかったです。とりわけ「東京ポップ」が敢行し、後に村上隆氏が〈スーパーフラット〉という形で理論化して押し出すことになる「「ポップカルチャーと現代美術」というカップリングを表現の根幹に据えること」を前時代の西武・セゾンカルチャーと切断した形で提示していたのにはハッとさせられることしきり。