当方的2016年展覧会ベスト10

 年末なので、当方が今年見に行った545の展覧会の中から、個人的に良かった展覧会を10個選んでみました。例によって順不同です。

 

◯「村上隆スーパーフラット・コレクション」展(2016.1.30~4.3 横浜美術館

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 森美術館で個展(村上隆の五百羅漢図展)も開催されるなど、昨年から今年にかけては海外での展覧会が多かった村上氏の展覧会を日本で見る機会に恵まれたのだが、現代美術から書画骨董、古物に至る氏の膨大な個人コレクションの一端を見せたこの展覧会には普通に瞠目しきりだったわけで。個人的にはアンゼルム・キーファーの超大作に驚かされる一方、日本における同世代や少し前の世代の作品(岡崎乾二郎、大竹伸郎、中村一美、中原浩大、奈良美智etc)も案外多くコレクションされていることにも別種の驚きがあった。さらに若手の作品も見ていくことで、単に手当たり次第に集めているのではなく、村上氏自身が出てくる美術史的必然性がこういったコレクションによって雄弁に語られているということが納得できるようになっていたわけで、その意味では個展以上に氏の戦略的な立ち居振る舞いを身近に感じることができる展覧会だったと言えるかもしれない。



田中功起「共にいることの可能性、その試み」展(2016.2.20~5.15 水戸芸術館現代美術ギャラリー)

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 田中氏が2013年のヴェネツィアビエンナーレ日本館での展示で特別賞を受賞して以降、国内の美術館では初の大規模な個展となったこの展覧会。事前に様々なバックグラウンドを持った人々を集めて行なわれた各種ワークショップの様子を収めた映像作品をメインに、若干の旧作を混ぜているという形で構成されていたのだが、複数の人間が集まったときにそこに発生する人間関係の微細な綾やグラデーションがミクロな(そしてマクロな)権力関係になっていき、人々の言動を拘束していく過程を記録するという、氏の近年の作風の集大成的な展覧会となったと言えるだろう。田中氏を取り扱っているギャラリー(青山|目黒)のオーナー氏が「地獄の黙示録」という比喩でこの展覧会を評していたというが、それは実に慧眼である。個人的には「社会運動」とキャプションされたセクションが気になることしきりだった。複数の人間が「共にいる」ことで生成される権力関係を即物的に主題にすることからの氏の微妙な立ち位置の変化がここに現われているように見えたわけで、今後の動向に引き続き要注目。



◯「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏―」展(2015.12.8~2016.2.14 兵庫県立美術館

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 ボローニャのアトリエで、いくつかの瓶や壺、カップなどを配置した静物画を終生描き続けたジョルジョ・モランディ(1890〜1964)。「終わりなき変奏」というタイトルから一見即解なように、同じモティーフを描いた静物画と若干の風景画だけで構成されていたのだが、それらを見ていくうちに絵画的な探究の過程やその結果としての作風やモティーフの扱い方・向き合い方の微細な変化が味読できるようになっており、教育的な効果がきわめて高かった。この良さが分かるようになった己が目を褒めたい(爆)。個人的にはモティーフの形や色彩と外界との関係が溶け合っていくような水彩画に瞠目しきり。



◯「クロニクル、クロニクル!」展(2016.1.25~2.21及2017.1.23~2.19 CCOクリエイティブセンター大阪(名村造船旧大阪工場跡))

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※キュレーター:長谷川新

※出展作家:荒木悠、伊東孝志、大森達郎、荻原一青、川村元紀、清水九兵衞、斎藤義重、笹岡敬、清水凱子、ジャン=ピエール・ダルナ、鈴木崇、高木薫、田代睦三、谷中佑輔、牧田愛、三島喜美代、持塚三樹、吉原治良リュミエール兄弟

 一見するとまるでまとまりを欠いたような出展作家陣と、同じ展覧会を二回繰り返すという趣向など、長谷川氏の超キュレーション全開といった趣のこの展覧会だが、制作と労働と生とが(近代以降の美術において分離されたとするなら)再び出会うような場所を、元造船所という場所において再演・再提示(representation)することという点で驚くほど一貫しており、長谷川氏の「作品」を通じて語る/語らせるという姿勢が、これまで氏がキュレーションしてきた展覧会と比べてもかなりあからさまになっていたと言える。で、この展覧会を繋留点として、長谷川氏や周辺の人物たちによる様々な行為(トーク、ワークショップ、読書会、飲み会……)が「クロニクル・クロニクル!」の名のもとに現在も繰り返されており、展覧会を「展覧会以上の「出来事」」として感受する/させる試みが運動体としてなされ続けていることにも注目しつつ、来年1月からの二回目の展覧会にも期待。



◯「私戦と風景」展(2016.1.30~2.27 原爆の図 丸木美術館)

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※キュレーター:斎藤桂太

※出展作家:亜鶴、市川太郎、鈴木操、角田啓、手塚太加丸

※ゲストアーティスト:釣崎清隆

 「私戦」とは、明治時代に制定された「私戦予備罪」なる法律(一昨年、某大学生がISに個人で参戦しようとしてこの罪で警察に逮捕されたことで一躍話題になった)に由来するそうだが、そんな不穏な展覧会を、戦後民主主義・平和主義の桂冠画家として長年遇されてきた丸木位里、俊夫妻の個人美術館である原爆の図 丸木美術館で開催するというフレームワークに驚くことしきり。斎藤氏も丸木美術館もイケメンやなぁと素直に思ってしまう(爆)。いずれにしても、「戦争と平和」という問題系からこぼれ落ちる「私戦」というタームを軸にして、そこから出てきた作品を「風景」として差し出すという試みには、単に同世代の作家を紹介するという以上の、近代史〜現代史への鋭い問いかけが内包されていることに、私たちはもっと瞠目しなければならないだろう。私戦予備罪も含まれる現在の刑法が制定されたのと第一回文展が開催されたのが同じ(日露戦争から間もない)1907年であるというのは、この展覧会について考える上で、何か非常に暗合めいている。



◯「辰野登恵子の軌跡/イメージの知覚化」展(2016.7.5~9.19 BBプラザ美術館)

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 元伊丹市立美術館館長の坂田義太郎氏が館長に就任して以来、一企業のプライベートコレクションを見せるという当初の目的を大きくはみ出したクリティカルな展覧会を連発しているBBプラザ美術館だが、辰野登恵子(1950〜2014)の初期から晩年までの作品を、大阪の某大コレクター氏の個人コレクションだけで回顧したこの展覧会には、美術史ヲタ的にテンション爆上がりだったわけで。絵画における色彩やフォルムの諸問題に対して、絵画が本質的に「描かれたもの」をめぐるイリュージョンであるという一点をそれまでの画家たち以上のテンションで支えにした上で、様々なアプローチをかけていったところに辰野の画業の特徴があり、それは版画やデザインといった周辺領域の問題系を絵画に躊躇なく描きこむことでなされていったと、現在の観点から超乱暴に整理することができるが、彼女のこういった画業を、同時代の画家たちとの対質において見ていくことが、今後ますます求められているのかもしれない――そんなことを考えさせられる好展覧会。



◯岡山芸術交流(2016.10.9~11.27 岡山市内各所)

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※アーティスティック・ディレクター:リアム・ギリック

※出展作家:荒木悠、トリーシャ・バガ、ノア・バーカー、ロバート・バリー、アナ・ブレスマン+ピーター・サヴィル、アンジェラ・ブロック、ホセ・レオン・セリーヨ、マイケル・クレイグ=マーティン、ペーター・フィシュリ+ダヴィッド・ヴァイス、サイモン・フジワラ、ライアン・ガンダー、リアム・ギリック、メラニー・ギリガン、ロシェル・ゴールドバーグ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、ピエール・ユイグ、ジョーン・ジョナス、眞島竜男、カーチャ・ノヴィスコーワ、アーメット・オーグット、ホルヘ・パルド、フィリップ・パレーノ、レイチェル・ローズ、キャメロン・ローランド、島袋道浩、下道基行、リクリット・ティラヴァーニャ、アントン・ヴィドクル、ハンナ・ワインバーガー、ローレンス・ウェイナー、アニカ・イ

 コンセプチュアルアートの現在を語る上で外せない美術家であるリアム・ギリックをディレクターに迎えるなど、近年の地域アート全盛期にあって「本気度の高い」人選が話題になっていたが、実際見て回ると、現在30代〜50代前半くらいの、多少はっちゃけた作品も作れる面々を揃えたこともあってか、コンセプチュアルアートとしては王道感がありつつも、非常に新鮮な感じがした次第。「コンセプト」が概念や論理だけでなく、歴史や社会問題を含みこんだ壮大なプロジェクトでもあることを改めて知らしめるとともに、それがアーカイヴやドキュメンテーションと結びつくことで新たな活況を呈しているという近年の動向にも目配せが利いていて、ポイント高。個人的には、こういった近年の動向の上にさらに旺盛な想像力を歴史の上に重ね書きしてみせた荒木悠氏の作品や、人間と自然との関係を人間と擬人と自然の関係に書き換えたピエール・ユイグの作品がとりわけ印象的。



◯「はならぁと2016こあ 人の集い」展(2016.10.1~31 高取土佐町並みエリア)

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※キュレーター:遠藤水城

※出展作家:雨宮庸介、石垣克子、島崎ろでぃー、捩子ぴじん、本山ゆかり

 同時期に同じ会場で開催されていた「町家の案山子めぐり」の中に出展作家たちの作品を交ぜるというキュレーションには賛否両論あったようだが、展覧会を「展覧会以上の「出来事」」として感受する/させる試みとしては、なかなか意義深いものがあったのではないだろうか。「作品」と「作品以外の、ただそこにそのようにあるもの」を分離した上で交雑させるところに、近年の遠藤氏の関心は集中しているように見えるが、そのような手つきから「人」=〈他者〉を「地域」「アート」に導入するという氏の試みが今後どのように展開していくことになるのか、気になるところではある。



◯「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」展(2016.10.22~2017.1.15 国立国際美術館

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 池水慶一(1937〜)氏を中心に1967年に結成され、メンバーの離合集散がありつつも来年50周年(!)を迎える美術家集団THE PLAYのこれまでの行為の全容を資料や記録映像で回顧するというこの展覧会。自作のいかだで淀川を下っていく、京都府南部に丸太を組み合わせて巨大なピラミッド状の構造物を作り(美術館内に再制作されている)、避雷針を設置して落雷するのを待つ(しかもそれを10年間にわたって続ける)といった大掛かりな行為に目が行きがちであるが、個人的にはそれらの合間になされた小ネタめいた行為(某場所の実物大地図を作る、口永良部島にあるという謎の大穴を見に行く、など)も気になることしきり。パフォーマンスやアクティヴィズムなどが、当初の新鮮さや制度批判的なモーメントを失って硬直化している感のある現在において、一見すると社会に直接働きかけるという契機に乏しいようにも見える彼らの行為(池水氏は「ハプニング」と呼んでいるが)は、今なお示唆的であろう。資料の見せ方も良かった。



◯迎英里子「アプローチ2[石油]」展(2016.3.26~4.10 Gallery PARC)

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 今年、個人的に最も目からウロコ感があり、「その発想はなかった」と思わされた展覧会がこれ。謎のインスタレーションの中で彼女がモソモソと動くというパフォーマンスを見せられたあと、それが地質学的モジュールの中で石油の生成過程を身体を張って見せていたことが事後的にわかるという仕掛けになっていたわけで。俎上に乗せる現象をモジュールとプロセスの複合体として取り出し、それをパフォーマンスによってトレースすることで「わからない」ことから「完全にわからない状態ではない」ことへと置き換え、(それが通常の意味とはかなり異なるにしても)パフォーマンスをする側も観る側も「理解」に近づくことができる――という認識をもとにした作品を数年前から継続して作り続けている迎女史だが、このような形で〈身体〉を前景化させ、現象を「身体がそう受け取る限りにおいての現象」に置き換えるという所作は、今後もっと注目されるかもしれない(彼女が中原浩大氏のもとで学んでいたということも含めて)。