読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「Blind Spot vol. 1 写真の現在」

 河原町三条にあるMedia Shopにて5月23日に開催された「Blind Spot vol. 1 写真の現在」。タイトルからも分かるように、「写真」について、写真家(本人は「美術作家」と自称しているそうだ)の鈴木崇(1971〜)氏と写真史研究家の林田新(1980〜)氏が縦横に語っていくといった趣のトークショーで、今後「Vol.2 写真の過去」、「Vol.3 写真の未来」(いずれも仮称、予定は未定)が予定されているとのこと。


 《現在、写真を使った表現は、芸術ジャンルの一つとして認識されているといってもよいでしょう。その一方で、写真は様々な領域を超えて、広く私達の日常に浸透し、それが置かれているコンテクストに応じて、芸術作品、広告、出来事の記録、思い出の品として、多様な表情を見せています。では、写真が芸術作品であることの条件とは果たして何なのでしょうか? 本イベントは、作家・鈴木崇が常日頃から思いを巡らせているこうした疑問に端を発しています。水のように掴みどころの無い写真に何が枠を与えているのかを見定めていくために、本イベントでは写真史研究者・林田新とともに、2世紀に渡って蓄積されてきた写真の歴史に目を向けて行きます。緩やかに、けれども真正面から写真の来し方行く末に思いを巡らせ、写真について語らう場を創設するべく、作家、研究者、キュレーター、さらには御来場いただく皆さまを交えた公開ミーティングを行ないます》(告知チラシより)――以上のような問題意識のもと、今回は上述の二人に加え、愛知県美術館学芸員をしている中村史子女史をゲストに迎えて行なわれた次第。平日夜にもかかわらず、会場は立ち見が出るほどの盛況ぶりだった。


 さておき、トークショーは最初に鈴木崇氏が自身の遍歴や自作のプレゼンを通して写真について考えていることを語ることから始まった。鈴木氏は1990年代に渡米して向こうの美術大学で写真を学んだそうで、プレゼンはそのあたりの話から入っていった――アメリカで写真の正史(アルフレッド・スティグリッツに始まり、ウォーカー・エヴァンスロバート・フランク、ロバート・アダムス、ルイス・ボルス、最近の(といっても70〜80年代なのだが)エグルストンという流れ)と“写真とはまずもってドキュメントである”という認識を教えこまれた鈴木氏は、しかし1995年ごろに荒木経惟氏の展覧会で彼の写真作品を見て、今まで自分が勉強してきたアメリカ写真の正史とまったく異なる作品群に深い衝撃を受けることに。さらに後年トーマス・シュトルートの写真にも衝撃を受けた氏は渡独してシュトルートのスタジオでアシスタントなどを務め、帰国後写真作品を発表していくのだが、これらの一連の経験を通して“写真とは(写されている状況や被写体のパブリック/プライベートを問わず)ドキュメントである”というアメリカ写真史の正史と異なる美術写真の系譜に直面するわけで。で、そこから「写真」とは結局のところ何なのかについて考えざるを得なくなり、写真というものをいかにそれ自体として――つまり被写体の記録性という要素に還元させることなく――見せるかを写真作品を通して考察するような、きわめて自己言及的な作品を撮っていくことになる。それは、近作では、例えばものの影を撮影した《ARCA》シリーズや、スポンジで作られた抽象的とも具象的ともつかないオブジェをストレートに撮影する《BAU》シリーズに、顕著に現われることになるだろう……


 ――鈴木氏のプレゼンを超乱暴に要約すると概ね以上のようになり、ここから林田新氏のコメンタリ→中村史子女史を交えた三氏による鼎談→フロアとの質疑応答という流れで進行していったのだが、あらかじめ論点を先回りしておくと、基本的には鈴木氏のプレゼンで問われた「「写真」とは結局のところ何なのか」「写真について考えることとはどういうことなのか」、そしてこれらの問いの原点に措定される「写真の“とりとめのなさ”について」という問いの周りをグルグル回っていく形で進行していったと言えよう。


 実際、林田氏のコメンタリは、写真が現在のように美術ジャンルの一つとして認識されている状況の前史、つまり少なからざる人々によって、写真がいかなる資格において美術の一ジャンルたることが要請され構成されていったかを「medium specificity(メディウムとしての特異性)」という言葉をキーワードにしてトレースしていくことが話題の中心となっていた。そしてその際medium specificityはモダニズムの文脈とポストモダンの文脈の双方において持ち出され、美術に接続されようとしたのではないか、と――もう少し具体的に言うと、モダニズムの文脈からの medium specificityの強調は写真が記録・ドキュメントであるということを基点にして主に絵画との差異を強調することによってなされ、一方、ポストモダンの文脈からの medium specificityの強調は、70年代後半から80年代前半にかけて非白人や女性の美術家が写真を重要な表現手段として登場してくるという文脈を基点に、こういった写真作品(とその作者)が「“白人・男性・知識人中心のアートではない”アート」として提示されることによってなされてきた、というわけである。だが、林田氏のコメンタリのキモは、現在においては、ほかならぬ「写真」自体がこれらのmedium specificityをすり抜けてしまうようなものになっているということであるというところにあるのではないか。内容の多様性という点においても(鈴木氏が荒木氏の写真を見たときの驚きというのは、この点にかかわってくる)、物理的な量の多さ(「写真は様々な領域を超えて、広く私達の日常に浸透し、それが置かれているコンテクストに応じて、芸術作品、広告、出来事の記録、思い出の品として、多様な表情を見せています」という現実)という点においても。

(続く)