「人文研アカデミー 日本からみた68年5月」

 京都大学で2月5日に開催されたシンポジウム「人文研アカデミー 日本からみた68年5月」。京都大学人文科学研究所内の研究班「ヨーロッパ現代思想と政治」の主催によるもので、昨年発売された西川長夫氏の新著『パリ五月革命 私論』(平凡社新書)の刊行記念も兼ねているとのこと。


 1967年から70年にかけて国費留学生としてフランスに滞在し、68年のいわゆる「五月革命」の際にはカメラ片手にパリ市内を駆け回ったという西川氏――そんな氏の私的な「五月革命」回想とその前後に直接的間接的にめぐりあった知識人(アンリ・ルフェーヴルルイ・アルチュセールロラン・バルトから森有正加藤周一まで)論、さらには「五月革命」以後の現代フランスをめぐるアクチュアルな同時代史論(1989年の革命200周年と2005年の暴動が集中的に取り上げられている)までがこの『パリ五月革命 私論』(以下同書と略)には濃縮されており、結果として新書としては破格と言ってもあながち揚言ではない500ページ近い大著となっているわけだが、同書においてドキュメントされた「五月革命」と同時期に日本においても盛り上がった全共闘運動とを、〈政治〉という側面から改めて(再-)結合させて考え直そう――そしてそれは〈政治〉という概念/実践に対する再考をも同時に含まざるをえまい――というのがこのシンポジウムのメインテーマであったと、さしあたってはまとめることができるだろう。で、シンポジウムは二部構成でしつらえられており、第一部はその西川長夫氏と68年当時『叛乱論』という著作で日本の全共闘運動にも影響を与えた長崎浩氏の対論、第二部は市田良彦氏をMCとして、伊藤公雄上野千鶴子中島一夫安丸良夫の各氏による、同書をめぐる共同討議という形で進行していた次第。


 さておき、第一部では上述したように西川氏と長崎氏の対論が展開されたわけだが、その際にキーワードとなっていたのが「私」。これは同書における《「六八年革命」は「私」が語り始めた最初の革命であった。そしてそのことは「革命」の概念を根底から変え、同時に「私」の概念も変えてしまう。それは新しい革命であり、既成の革命概念を当てはめることも、既成の用語で語ることもできないだろう》(p9)という西川氏の発言や、あるいは長崎氏が『叛乱論』で「行動する「私」と「あなた」の出会いから全てが始まる政治」というヴィジョンを提示していたことから取られているのだが、対論においてはこの「私」をめぐる両氏の相違が主題となっていった。ごく簡単にその相違点を強調しておくと、全共闘運動当時、学生たちが「生」という言葉によってその私性を前面に押し出し、そこから“人生論で革命を語る”というべき言語状況が生起したことを「私が語り始めた最初の革命」としての68年に見出す長崎氏に対して、「私」の逆説的な無名性が「五月革命」の特徴であり、そこでは「私が語る」のではなく「語ることで私が形成される」という論理が通底していると西川氏が返す、といった具合。


 で、ここから話は「「五月革命」と〈政治〉」というトピックへと展開していき、長崎氏と西川氏の相違がさらに際立っていく。それは西川氏によって「(長崎氏のは)運動を組織する側の「私」、(私のは)運動によって組織される側の「私」」という形で端的に素描されていたわけだが、ここに「五月革命」と日本の68年革命との決定的な違いが露呈していたと見ることは不可能ではないだろう。かかる二人の決定的なすれ違いは第二部における伊藤公雄氏や上野千鶴子女史のプレゼンテーションにおいてさらに反復されることになるのだが、ここでは議会や行政によって担われる政治過程から独立した〈政治〉を運動の参加者が担っていったか否かという点が日本とフランスの最大の違いではないかという西川氏の指摘が重要であったように、個人的には思うところ。とりわけ1789年革命以後のフランス史を「民衆と独裁者の共犯関係の繰り返し」(ex.ボナパルティズム、ゴーリズムetc)というキーワードで剔訣し、このサイクルの外側へ出る運動という側面が「五月革命」にはあったという西川氏の発言は、「五月革命」にとどまらない「68年革命」全体――さらには現代の〈政治〉状況――を考える上でも、きわめて有益であろう。実際にはフランスにおいては「五月革命」という運動全体へのコンタクトを(肯定的にであれ否定的にであれ)当時のド-ゴール派も共産党社会党も回復し、それを自党派に得手勝手に流しこむことで急速に退潮していくことになるわけで。西川氏がシャルル・ペギーのアフォリズムを引用して「全ては神秘に始まり政治に終わる」と言っていたが、それは事態の行方をこれ以上ないほど簡潔に説明している。


 第二部では、まず伊藤、上野、中島、安丸各氏が同書を読んだ上で68年革命について自身の問題意識に引きつけたプレゼンテーションが行なわれ、その上でMCの市田良彦氏や、一聴衆となった西川氏と長崎氏を巻き込んだ議論が行なわれた。以下、各人のプレゼンテーションのエッセンスを箇条書きしておく。



 ◯安丸良夫
 ・自分が民衆運動史研究を始めた当初は民青共産党の圧倒的な影響力があり、正統派マルクス主義や丸山(眞男)政治学のような、運動史を政治史としてプラクティカルに考える傾向が支配的だった。

 ・だから民衆運動史においても発展史観が無自覚に採用されていたわけだが、弥勒信仰に代表されるような過去の意匠を借りて展開される運動の研究を進めていくうち、政治観念を書き換える必要性を強く感じるようになった。

 ・そこに直撃してきたのが68年革命。以来、一揆の史料とサルトルの『弁証法的理性批判』やルフェーヴルの『パリ・コミューン』を並行して読むような生活を続けた。これらの本では正統派マルクス主義の発展史観への批判が敢行されており、自分自身の研究スタイルはここで大きく変わっていった。

 ・民衆運動史を見ると、そこにおけるユートピア志向は必ず挫折する。しかしそれは一方で形を変えて継承することもできる。そのためのヒントが68年革命には存在する。


 ◯上野千鶴子
 ・自分がここに来たのは「68年世代の女がおらん」と市田氏に言われたからw

 ・西川氏の本は、前半がドキュメントで後半が思想史というきわめて独特な構成だったことに驚いたが、同時に誰に向けて書いているんだろうかという疑念を強く持った。

 ・同書においては「五月革命」の高揚がフィーチャーされているけど、もしこのとき西川氏が日本にいて日本での運動に接していたら、それをどう書いただろうか。自分にとって68年を回顧することとは、その後の運動の長い退廃期を生きること、生きてきたことの意味を問い直すことにほかならない。

 ・全共闘運動とは“男の子”の革命(ごっこ)だった。だから「全共闘の女性」という形象は、男の経験と女の経験の差異を欠いており、そもそもそんなものは存在しなかった。まさに「ウーマン・リブ新左翼の胎内から生まれた鬼子」(田中美津)なのである。

 ・68年革命のことで最近考えているのは、ドイツの68年世代と日本のそれとの違い。ドイツでは68年世代が緑の党を作って政治活動を行ない、その結果脱原発運動を成功に導いた。翻って日本では、というと…… 政治に対する意識の違いを思わずにはいられない。


 ◯伊藤公雄
 ・自分は68年当時は高校での運動に参加し、大学に入ってからはアナーキストになったが、何の因果か最後の全共闘の委員長になったのだった。

 ・日本の全共闘運動は世界的に見ても異様。学生がヘルメットをかぶって(新)左翼運動に参加したのは日本だけ(欧州ではヘルメットは右翼の象徴だったりする)。これ自体研究テーマとして面白いのだが、その根底には戦争への憧憬のようなものがあったのではないだろうか。まさに“男の子”の革命だったのである。

 ・もちろんヨーロッパ諸国との同時代性も存在するのだが、内ゲバや(赤軍のような)武装闘争路線には日本独自の「組織の論理」の強さがある。

 ・日本において68年革命がほとんど思想化されず後世に継承できなかったのは、学生運動を最後まで労働運動に従属させるような労働者本隊論を拭い去れなかったからではないか。フランスの学生運動は労働運動と最後まで無関係だったし、イタリアの学生運動は“学生も失業者もみんな労働者”という超理論を作り出した。

 ・政治について「私」「僕」から語る語り方がある程度出てきたのが68年革命の功績であり、イタリアで70年代に全面化した「権力奪取を目指さない運動」というモーメントもこのような語り方から出てきたと言えるのだが、しかしやっぱり最終的な課題としての権力奪取というのはあるのではないだろうか。


 ◯中島一夫
 氏本人がブログにて当日発表した原稿を再掲しているので、そちらを参照されたい→ http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20120206/p1



 ……以上の四者四様の報告を経て、市田氏のMCで共同討議へ。個人的には当初上野千鶴子無双状態になるんじゃないかと思っていたのだが、実際にはそんなことはなく、フロアにいた西川氏や長崎氏を巻き込みつつ、多様なトピックや思い出話(ことに安丸氏の、一橋大でバリケード闘争に遭遇したとき百姓一揆の方がもっと上手いことやってたのにと思った、という話に会場は爆笑しきりだった)が渦巻いていた次第。

 そしてここで大きなテーマとして浮上してきたのは、やはり〈政治〉であったと言えるだろう(まぁそれは市田氏がMCをしている以上当然と言えば当然なのだが)。〈政治〉とは諸々の政治過程に回収されないばかりか、その政治過程そのものをセット/リセットするようなものと超強引に定義しておくと、そのような〈政治〉が68年革命においていかに生起したのか、あるいはしなかったのかを問うことは、つとめて現代的な課題でもあるからだが、68年革命の「文化革命」としての側面が(主に社会学やカルチュラルスタディーズ方面において)強調されている中において、この市田氏のゴリゴリな立場は、それ自体貴重である。実際、氏のかようなポジショニングに触発されるように各人の68年革命観がそれ自体がまさに革命論として提示されていったのだから――それは上野女史が(ことさら影響関係を指摘されがちな)全共闘運動とリブ-フェミニズム運動とを、前者は政治と非日常を結びつけたが、後者は政治と日常を結びつけたという形で剔訣してみせたところに、顕著だったし、最終盤になって長崎氏から発せられた「全共闘は先行するマルクス主義・革命理論がグシャグシャにされて再検討されたほとんど最初の事例であり、だからこそ徹頭徹尾政治運動だった」という発言には、かつて一世を風靡した理論家の矜持が垣間見えたのだった。〈政治〉についての討議は全体的には時間切れで終わった感があるけれども、この発言が出たことで全体的に引き締まったものとなったのではないだろうか。