「>Gather — 群れ<」展

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 深江橋にあるギャラリーノマルにて7.22〜8.5の日程で開催されていた「>Gather - 群れ<」展は、精神科医で美術評論家でもある三脇康生(1963〜)氏のキュレーションのもと、中川佳宣(1964〜)氏と高橋耕平(1977〜)氏がフィーチャーされているという趣の展覧会でしたが、実際に展覧会に接してみるとキュレーター+二人展という構成とはいささか異なる様相を見せているように感得され、個人的になかなか興味深いものがありました。

 

 今回は中川氏の新作数点と、滋賀県の山奥にあるという中川氏のアトリエに転がっていた廃物にそこの記録写真を貼りつけた高橋氏の作品《N氏のアトリエ》シリーズが大小十数点、三脇氏が中川氏にインタビューした様子を高橋氏が撮影した映像作品が出展されていましたが、このようなラインナップ自体が、この展覧会の性格をきわめて雄弁に語っていたと言わなければならないでしょう。三脇氏はキュレーターであり中川氏に対する聞き手でもあり展覧会全体の言葉による記録者でもある――実際、三脇氏の執筆による小冊子が販売されていました(画像参照)――し、中川氏は出展作家であり映像によって記録される客体でもあり自身が接してきた過去の美術家(ex. 泉茂、村岡三郎)について語る主体でもあるし、そして高橋氏は出展作家であり三脇氏と中川氏に対する映像による記録者でもある。このように、それぞれがキュレーターや出展作家といった単一の形象に収斂せずに展覧会全体の中で複数の役割を担っており、そのことによっていささかなりとも拡散的な性格を帯びた存在としてこの展覧会に臨んだことになるわけで。「>Gather - 群れ<」という展覧会タイトルは、そのことをこれ以上ないくらい端的に言い表わしています。

 

 《各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く。もはや、群れを入れておく各人は不要で、群れをかき集めることだけになった気がしたら、それが成功というものだろう》と三脇氏は小冊子の中で述べています。このような氏の意図通りに展覧会が機能しているかどうかについては議論が別れるところではあるでしょうが、少なくとも高橋氏(の作品)に焦点を合わせてこの展覧会を見たとき、三脇氏の「各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く」という発言は、この展覧会のみならず、高橋氏の最近の映像作品について考える上で、きわめて示唆的である。

 

 上述したように、この展覧会において高橋氏は、三脇氏による中川氏へのインタビューの記録映像のほか、自身が撮影した中川氏のアトリエの記録写真を氏のアトリエから拾ってきた廃物に貼りつけるという作品を出展しておりますが、映像作品とサイトスペシフィック感のあるモノ――それは(加工された)ファウンドオブジェクトの場合もあるし、展覧会に合わせて高橋氏が新たに作ったものの場合もある――と写真や映像作品を混在させて展示空間内にインスタレーションするというのは、近年の高橋氏において断続的に試されている手法である。例えば、近作に限っても、一昨年(2015年)に岡崎市旧本多忠次邸で開催された城戸保(写真家)氏との二人展「ほんとの うえの ツクリゴト」展では、岡崎藩主の後裔である本多忠次が昭和初期に東京都世田谷区に建てた私邸を移築した会場でその場所の思い出を本多家の人たちが語っている映像作品と建物の資料が混在された形で展示されていましたし、昨年(2016年)に兵庫県立美術館で開催された「街の仮縫い、個と歩み」展では、阪神淡路大震災で被災した身体障害者三人への取材映像と人と防災未来センターが所蔵する震災直後に撮影された写真を高橋氏が再撮影して拡大コピーした写真が同じく混在された形で展示されていた。その意味では、この「>Gather - 群れ<」展の出展作品もまた、そうした傾向の延長線上に位置づけることができるでしょう。

 

 《私には、他者の経験に自らの身体を接続することで、自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望がある。そしてその欲望に形を与えることで、他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事を望んでいる。たとえそれが失敗の先例であったとしても》(「街の仮縫い、個と歩み」展図録より)――以上で概観した近年の作品について高橋氏はこのように述べています。ここからもわかるように、氏においては「他者」ないし「他者の欲望」が自分自身の作品制作を駆動する重要なファクターとなっている様子なのですが、その際にストレートに「他者」「他者の欲望」に向かうのではなく、独特の迂回を経た上でそうしていることに注目する必要があるでしょう。高橋氏がしばしば用いているのは、取材映像の中でインタビュイーの発言を自分自身のアフレコ音声に差し替えるというものですが(「ほんとの うえの ツクリゴト」展でも「街の仮縫い、個と歩み」展でもそれは効果的に用いられていました)、それは「他者の経験に自らの身体を接続する」ことを映像の中でリテラルに行なうということであり、それによって「自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望」「他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事」を仮想的かつ実効的に行なおうとしているわけです。そこから自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す道が開かれることになるだろう。だから、映像の中で自己と他者が仮想的かつ実効的に差し替えられるという経験を多用することは、他者の経験を我が物とすることではない。

 

 「>Gather - 群れ<」展に戻りますと、今回の中川氏へのインタビュー映像においては、以上のような方法は用いられていません。映像はあくまでも三脇氏による中川氏へのインタビューの(時間的に多少端折っている部分はあるにせよ)ストレートな記録に終始している。しかしながら、上述してきた高橋氏の映像作品の理路を概観した上で改めて接してみると、映像作品において立ち上がっているのは、自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す場であり、それを「中道性」(小冊子所収の三脇氏の文章「Gather - 群れ」より)というそれ自体精神分析的な実践の中で作っていくプロセスであるように、個人的には思うところ。自己も他者も、さらには「群れ」も即自的に存在するのではなく、精神分析的な介入によってはじめて存在する。「群れは、この中道性の中で作られる」(ibid.)。

 

 かかる〈中道性〉を通過することがどのような結果をみることになるか――それが(当方も含めた)観る側の課題となるでしょう。

今道由教展

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今道由教展DM

 西天満にあるOギャラリーeyesで開催中の今道由教展。関西を中心に1990年代から制作活動を続けている今道由教(1967〜)氏ですが、近年は毎年だいたいこの時期(7月下旬)にこのOギャラリーeyesで個展を行なっております。当方は一昨年に初めて氏の作品に接して以来毎年見に行ってまして、個人的に何か気になる美術家の一人だったり。

 

 さて今回出展されていたのは、一枚の大きな紙に切れ込みを入れて折り返すことでランダムに色面を成形していくという平面作品。昨年の個展においてそれまでの作風から超展開するような形で発表され、個人的には大いに瞠目したものですが、今回はその作風をさらに発展させた作品が出展されていました。昨年の個展における出展作では表面と裏面を違った色に塗った上で最小限の介入を施すことで色彩と形態にリズム感を与えていたわけですが、今回の出展作では、そういった手法はそのままに、切れ込みの入れ方や折り返し方が複雑化したり、色面の一部にラメやキラキラシールでデコレーションを施したりしており、昨年の出展作のようなミニマリズム的な緊張感とはまた違った側面からこの作風を試していたと言えるでしょう。

 

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今道由教《無題》(2017)

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今道由教《無題》(2017)

 当方、昨年の個展でかかる作風の作品に初めて接したときには、作風がその前の個展のときの作品と全くといっていいほど変わっていたことに加え、色彩と形態との関係性に対する手つきの巧みさ――そこでは技術の高さや複雑さを誇示することよりも、むしろ完成に至るプロセスの手数をいかに少なくするかという方向にベクトルが向いていた――見せ方のアトラクティヴさに驚くばかりでしたが、今年の個展の作品に接してみると、主に色彩に関して「遊び」の要素がやや前面に出てきたことによって、作られた部分によって構成された形態がリズム感を持って存在していることが昨年以上に前景化していたと見ることができます。上述したように、今道氏の作品は大きな紙に切れ目を入れて折り返すという形で作られているのですが、作られた各部分は個別性を持ちつつも、折れ目や(意図的に残された)折りの甘い部分が容易に見出せることによって、それらがもともと一枚の紙を超展開して作られていることからくる連続性も併せ持つことになるわけです(もし同じものを様々な大きさの紙をコラージュして作っていたら、見え方はかなり変わってしまうだろう)。

 

 このように、今道氏の作品は絵を描く際に支持体として機能する紙に対して直接手を加えるという形で制作されており、実際、氏自身も「支持体そのものが造形に深く関わる作品」「物質の身振りから生じる平面性と立体性が交錯する表現」(プレスリリースより)にフォーカスして制作していることを自認している様子ですが、そこに1960年代末から1970年代初頭にかけてフランスにおいて一時的に大きく盛り上がったムーヴメントである(とされる)シュポール/シュルファスの影響を見出すことは、さほど困難ではないでしょう。絵画を支持体(シュポール)と表面(シュルファス)に両極端に還元し、それらの複合体として絵画を再定義=解体するというのがシュポール/シュルファスの最も基本的な定義ですが、今道氏の場合、ここまで見てきたように、表面よりも支持体自体の持つ平面性と立体性そしてそれら同士の関係性にその関心は明らかに向いているわけで、してみると「シュルファスなきシュポール」と言うべきものへと絵画を編成-変成させようとしていると見ても、あながち的外れではありますまい。

 

 そう言えば、当方が一昨年に接した、現在の作風に超展開する前の今道氏の作品は、大きな紙に二色で太い線がランダムに何本か引かれているというものでしたが、そこでは線は描かれたもの(表面)であるとともに、線同士の交点における絵の具の滲みや垂れといった偶発的なものを隠さないことで、線自体が面としての物質性も持っていることが(これまたプロセスの数の少なさを感じさせることによって)見る側に容易に感得されるような作品となっていました。支持体の上に描かれた表面としての線というより、もう一つの支持体としての面として、つまり二種類の支持体が同じ物質性の上で存在していたわけですね。してみると「シュルファスなきシュポール」という路線は、氏においては昨年突然登場してきたわけではなく、少なくともゼロ年代から形を変えつつ試されてきたものであるとも考えられます(それ以前はどうだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのでアレですが)。

 

 いずれにしましても、今道氏の絵画的(それは以上に述べたように、なお絵画なのである)探求がどのような成果を今後もたらすことになるのか、さらに継続して注目していく必要があるのは間違いないでしょう。

A-Lab Artist Gate 2017

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 7月17日まであまらぶアートラボ(尼崎市)で開催されていた「A-Lab Artist Gate 2017」。新人作家の登龍門的な位置づけのグループ展といった趣で開催されてまして、今回は大学や大学院を卒業して間もない人たち(稲垣美侑、井村一登+makership、木原結花、木村友美、榑松夏実、濱口芽、吉野滉太)が選出されていました。

 

 出展作品は絵画やオブジェ、映像、インスタレーションetc.と多岐にわたっており、新人作家の多様な表現を(様々な制約はあれど)一望できる機会となっていたとさしあたっては言えるでしょうが、個人的にはその中でも木原結花女史の《行旅死亡人》シリーズに瞠目しきり。この作品、昔の新聞に掲載されていた身元不明の行き倒れ――作品タイトルの「行旅死亡人」はそのような死者のことを指すそうで――の記事の切り抜きと、そこに書かれている身体的特徴や服装の描写をもとに様々な写真をコラージュして作られたそれっぽい人の写真とを並べて展示するというもので、今回は老若男女12人分制作されていました。個人的には死者、それも「行旅死亡人」という存在をテーマにするという目の付けどころがなかなか良いところをついてるなぁと思うことしきりでしたし(理由は後述)、駄コラ・クソコラであることを割と隠さない画質のコラージュも、古新聞の画質と揃えているように見受けられ、意図的なのかそうでもないのかはともかくとしてこの手の作品としては上手いなぁと思うところ(画質が良かったら違和感が先に立ってしまうでしょうし)。しかも木原女史、大阪芸大出身だそうで、ART OSAKA後の飲み会の席でその事実を聞かされて驚くばかり。かような作品だから京芸か精華大OGとばかり(ry

 

 ――というわけで、自治体が運営しているアートスペースでの、「若手作家をフィーチャーする」という公共事業的性格(?)の強い趣旨のもとで開催された展覧会にほとんどあるまじき不穏さを全開させていたこの《行旅死亡人》シリーズ、個人的には発想や作品の形式という点において、これはむしろ欧米のアートアクティヴィストの活動や作品に近いものがあるなぁ日本人でここに注目する作家って昨今意外と珍しいなぁと思うことしきりでしたが、ここで木原女史が行旅死亡人という存在に着目していることが結果としていかなる射程を含んでいるかに注目することが必要でしょう。上述したように行旅死亡人とは身元不明のまま行き倒れて亡くなった人のことですが、現在の日本でも年間数百人〜数千人単位で存在していると言われている。木原女史がそういう現状とどの程度切り結ぶことを意図してこのような作品をものしたのかは(彼女と実際に会っていない以上)判然としませんが、少なくとも「死」や「死者」の存在を絶対化し、そのことをもって公共性の基礎に据えるというような――レヴィナスあたりの哲学を俗っぽくしたような――態度が排除している何かを明るみに出していることは間違いない。

「拡がる彫刻 熱き男たちによるドローイング」展(第1期)

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7月4日からBBプラザ美術館で始まった「拡がる彫刻  熱き男たちによるドローイング」展は、植松奎二、JUN TAMBA(塚脇淳)、榎忠各氏の近作〜新作を月替わりで個展形式で紹介するというもので、今月は植松氏がフィーチャーされてましたが、巨大な紙に描かれたドローイング数点と、石とスチールワイヤーと鉄パイプによるインスタレーション作品、あとは60年代後半から現在に至るドローイングの小品を回顧展的に並べているというシンプルな構成ながら非常に見応えのあるものとなっていました。

 

植松氏というと、1970年代における、自分自身を被写体として観る側に〈重力〉を感じさせる写真作品が有名ですが、個人的にはその〈重力〉を象徴化しすぎるあまりキッチュでスペイシーな形態の立体やインスタレーションになってしまったという趣の作品にここ数年ギャラリーで接するたびにモシャモシャした気分になってしまうことが多かったもので。そんな視線からしても、今回の出展作は、そういったモノによる象徴化に代えて、「モノと「モノ同士の関係性」を同時に規定する〈重力〉」というインヴィジブルな位相に今一度焦点を当て直し、上述したような最小限のモノの組み合わせによるインスタレーションや描かれた要素の少ないドローイング――そこでは「浮遊する巨石」や「石と構造物が微妙に釣り合っている様子」といった分かりやすいモティーフが巨大な紙に描かれている――によって示すことに全振りしており、氏の表現したいことがこれまでに較べてもはるかにクリアになった印象を観る側に抱かせるようなものとなっています。これが植松氏の最近の作風のゆえなのか、BBプラザ美術館内にいる辣腕の学芸員(←いやいるのかどうか知らんけど)によるスーパーキュレーションの成果ゆえなのかは判然としませんが、展覧会全体で1970年代の写真作品に比肩しうるレベルに達していたと言っても、あながち揚言ではない。

 

《本展覧会は、空間を支持体として、彫刻で描き出すこともドローイングの一種であり、また平面ドローイングも構成によっては、彫刻の一種になりうることを試みるものです》――このステイトメントに端的に表わされているように、「拡がる彫刻」展は会期全体を通して、平面/空間、二次元/三次元といった対とは異なる角度から彫刻を改めて主題化しようという問題意識のもとに企図されており、それは「物質から「物質の様態」への移行」という60年代後半以降に一挙に全面化したモーメント――その代表例が「もの派」あるいは(植松氏も含まれる?)「ポストもの派」である――を、「立体」や「インスタレーション」という語の流行と定着という現象を横目に見つつ再考することでもあると言えるのですが、その際に「ドローイング」という要素を介しているところにこの展覧会の端倪すべからざる着眼点があります。えてしてすぐれた彫刻家は同時にすぐれたドローイング描きでもある(例:ジャコメッティ舟越桂)という事実と、この展覧会が企図し再考しようとしている彫刻概念の拡張とを出会わせる上で、最初に植松氏の個展を持ってきたのは端的に正解であろうと、展覧会を見ながら漫然と思ったのでした。次のJUN TAMBA氏、その次の榎忠氏のも期待しきり。

 

なおこの展覧会に合わせて、会期中何度でも入場できる入場券として缶バッジが発売されておりますので(各氏4種類ずつ計12種類、¥500)、オススメ。

 

「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展&「泉茂PAINTINGS1971〜93」展

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 関西を代表する画家の一人として長年大阪を拠点に活動してきた泉茂(1922〜95)の画業を回顧する展覧会が和歌山県立近代美術館と大阪市内のYoshimi Arts、the three konohanaで3月26日まで開催されていた。 和歌山県立近代美術館での「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展では泉の画業全体を通観する形で、Yoshimi Artsとthe three konohanaでの「泉茂 PAINTINGS 1971-93」展では1970年代以後晩年に至るまでの絵画作品(Yoshimi Artsでは1970年代の、the three konohanaでは80年代以降の作品が集中的に展示されていた)が集中的に俎上に乗せられており、三つの会場を回ることで泉の画業を最初期から晩年に至るまで通観できるようになっていたわけで、関西の公立美術館の常設展で一、二点出展されているという形で展示されることが依然として多い――逆に言うと、それ以上の存在として遇されることが地元においても稀であるということでもあるのだが――中にあって、版画のみならず絵画をも含めて見ることができたわけで、きわめて貴重な機会となったように、個人的には思うところ。

 

 1950年代に瑛九(1911〜60)が始めたデモクラート美術協会に参加し、版画家として活動を開始した泉は、同会の解散後渡米。アメリカ〜フランスと滞在して1968年に帰国した後は大阪を拠点に多くの絵画・版画を制作しつつ、大阪芸大の教授として後進――有名なところでは中川佳宣(1957〜)氏や館勝生(1964〜2009)をあげることができるだろう――の育成にもあたるなど、終生にわたって関西の現代美術界隈に大きな影響を与え続けていく。没後20年以上を経て開催された今回のこれらの展覧会では、これまで版画家としての活動の方がクローズアップされることが多いきらいのあった(そのような傾向の近年における重要な達成として、2015年にBBプラザ美術館で開催された「泉茂の版画紀行」展をあげることができる)泉の美術をより立体的に理解するためのヒントに満ちていたと言えるかもしれない。

 

 泉の画業を改めて通観してみると、デモクラート美術協会時代におけるシュルレアリスム象徴主義が入り混じったような物語性の強いエッチング作品から、10年近い海外生活の中で抽象絵画に大胆に舵を切り、特にフランス滞在時代にはドローイングの筆触を改めて絵画として描き直すという作品を手がけるようになる。帰国後はエアブラシを多用しつつ幾何学的に明快なフォルムによる絵画を、さらに1980年代後半から最晩年にかけては雲形定規を用いて描かれた有機的なフォルムが画面上をカラフルに乱舞する絵画を多く手がけるようになるといった具合に、おおむね十年ごとに画風を大胆に変えている。個人的には上記のそれぞれの時期の作品に単独で断片的に接してきたものだから、彼の画業を通観するということ自体がほぼ初めてで、とりわけ最晩年の絵画作品には管見の限り全く接したことがなく、純粋にへぇこういうスタイルでも描いてたんやと思った次第。実際、今回は――特に「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展において顕著だったのだが――この「作風を時々に応じて大きく変え続けた作家としての泉茂」という側面が強調されていたのだが、重要なのは、泉において画期をなすこれらの転換が、そのランダムで場当たり的な見かけとは異なり、かなりの程度内的な要請に応じてなされたということである。特に「PAINTINGS 1971-93」展の出展作品は、そのような観点から見て分かりやすい作品が集中的にセレクトされていたと見受けられるから、なおさらである。

 

 泉における作風の変容と絵画の内的な変容との関係は、形象・フォルムという要素に焦点を合わせて見てみると分かりやすいかもしれない。上述したように、泉の画風は渡米によって象徴から抽象へ、さらに帰国後は描かれる対象がストロークそれ自体から幾何学的な形象へと変化していくのだが、以上のような過程が、自身の絵画から形象以外の要素を排除する(少なくとも表面的にはそれを志向している)過程であることにさしあたっては注目する必要があるだろう――渡米に際して「何かが何かを表象-代行する」というモーメントを排除し、帰国後は(エアブラシを多用することで)筆で描いた痕跡を画面内から排除する、といった具合に。泉がこのような方向性に向かった背景には、デモクラート美術協会時代に瑛九から「構造」の重要性について諭された経験が大きいと言われているが、瑛九がどのような文脈においていかなる定義のもとに「構造」という言葉を用いたのかについては不明なところが多いものの、泉の絵画を見る限りにおいては、絵画が画面の外部――それは既存の象徴性(や、それをインデックスとして発動する物語性)のみならず、作者自身の存在にも及ぶことになるだろう――との関係において成立している状態は「「構造」がない」状態であり、従って形象をそれ自体として画面内においてのみ成立させることが、泉における「構造」の導入であったとは言えるだろう。帰国後間もない時期から継続的な探求が行なわれた果てに行き着いた80年代前半における、円や三角形が歪みをともないながら描き出され四囲が赤い線で囲われた作品は、瑛九によって与えられた「構造」というキーワードに使嗾されて描かれた泉の絵画の、「構造」それ自体の翻案ぶりも含めた、ひとつの到達点である(が、そこからさらに変化して、有機的な形象とカラフルな色彩自体が主題となった最晩年のスタイルに身を翻すことになるのだが)。

 

 ところで会期中の3月4日には、「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展の担当学芸員である植野比佐見女史による講演がthe three konohanaで開催されている。講演の具体的な内容についてはこちら( http://www.yoshimiarts.com/exhibition/20170225_Shigeru_Izumi-PAINTINGS_1971-93-add2-170304talk.pdf )を参照されたいが、以上のような「構造」の導入と翻案の過程を、デモクラート美術協会参加以前にまで遡ってさらに細かく見ていくものとなっていた。「構造」の導入による画面の自立という一連の過程が、唐突な飛躍によってではなく、以前から描いてきたモティーフ(鳥など)の酷使と言うべき執拗な使用によってなされてきたことが様々な傍証を積み重ねながら丁寧に論証されていて、個人的には非常に得るものの多い講演だったわけで。

 

 あと、泉と同時代の絵画の諸動向との関係についても一定の知見が披歴されていたことも印象的であった。泉における「構造」の導入と翻案の過程は、アメリカにおける抽象表現主義やフランスにおけるシュポール/シュルファスといったムーヴメントと明らかに並行している――さらに言うと、最晩年の作品は、有機的な形象とカラフルな色彩それ自体が主題となっているだけに、その少し前に欧米を席巻したニューペインティングとの並行性も指摘されうる――のだが、しかし泉の絵画からは、どの時期においてもそういったムーヴメントに完全に含みこまれるのを拒絶するような契機も存在することが同時に指摘されるべきであろう。そこには時間的な非同期性(ニューヨークに着いた頃には抽象表現主義のムーヴメントが収束期にさしかかっていた、とか)以上の要素が存在すると考えられ、そこにこそ泉のハンサムネスがあるのではないか――と書くといささか理に落ち過ぎるきらいがあるのだが、しかし彼のハンサムネスが私たちの想像以上に全方位的なものであった(それは極限まで画面の自立を求める態度と表裏一体ではあるのだが)ことを含めて、改めて考えるべきことは相当多いように思われる。

 

 そういったことも含めて、「「今なおアクチュアルな画家」としての泉茂」への評価の転換を促しているという意味では、非常に真っ当な展覧会であったと言えるだろう。

「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展+山部泰司トークショー

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 2月18日〜3月5日の日程で@KCUAで開催されていた「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展は、数年前から同ギャラリーがこの時期に行なっている各年代ごとの回顧展(卒業時に大学によって買い上げられた作品を中心に展示されている)の一環という位置づけの展覧会ですが、今回は作品に加えて、1980年代前半における様々な美術動向――後にそれらは「関西ニューウェーブ」と一括され、この時期の現代美術における特権的なムーヴメントのひとつとされることになる――の熱気を今に伝える資料・史料が多く並べられていました。とりわけ重点的に揃えられていたのが、1982年に始まってその後数年間続いた、京都市立芸大と東京藝大の有志による交流展「フジヤマゲイシャ展」をめぐるものでして、様々な紙媒体に加えて、図録を引用元とする当時の出展作品の写真が壁に多く貼られたりしていました。当方のような資料ヲタ的には名前だけが伝説化されて一人歩きしていることこの上ない感がある展覧会ですから、不十分ではあるにしてもその一端に触れることができて、テンション爆上がりだったり。

 

 さておき、この展覧会、当方は2月19日に見に行ったのですが、そのフジヤマゲイシャ展の第一回の出展作家の一人――というか企画運営側の人でもあった――現代美術家の山部泰司(1958〜)氏のトークが開催されていました。もともと事前告知はなく、当方も@KCUAに行く前に立ち寄った某ギャラリーのオーナー氏から当日聞かされて知ったわけで。実際、超突発的に告知されたためか、その場に立ち会ったのはスタッフ以外では当方とそのオーナー氏のみだった、という。

 

 それはともかく、長年関西の現代美術界隈で評論やキュレーションを手がけてきた大阪電通大教授の原久子女史と、この展覧会に協力している京都市立芸術大学芸術資源研究センターの研究員である石谷治寛氏を聞き手として開催されたこの超突発トーク、おそらく後日芸術資源研究センターから何らかの形で公開されることになるでしょう(?)から詳細はそちらに譲りますが、山部氏の目から見たフジヤマゲイシャ展開催に至るまでの経緯が主な話題になっていました。フジヤマゲイシャ展自体がというより、その前夜の風景――とりわけ当時誰がどのように存在し、行動したか――に語りの多くが割かれていたわけですね。で、そこに、現在もなお旺盛な制作活動を展開し続けている山部氏による理論的思考と(個人史も含まれる)歴史とを交差させる試みが重ね書きされていくという形で進行していたと、さしあたってはまとめることができるでしょう。理論と歴史が交錯するとき、物語が始まる。

 

 山部氏は1978年に洋画専攻に入学しますが、この時期の京都市立芸大は、60年代末から70年代初頭にかけての学生運動の中で行なわれたカリキュラム「改革」の余波が残る一方で、大学自体が東山区から西京区に移転することが決まるなど、いろいろと混乱していた時期であったそうです。そんなこの時期を回顧する際に、氏がとりわけ重要な契機として語っていたのが、カリキュラム「改革」でした。京都市立芸大の場合、当時猖獗をきわめた全共闘運動とリンクする形で勃発した学生運動の中で、運動側から提案された案がかなり反映された形でカリキュラム自体の改革がなされるという超展開をたどっていく(トークの中で氏は「文化大革命」と表現していました)わけですが、そこで行なわれた「改革」によって、美術学部入学者全員に対する導入科目として――「ものづくり」を素材やメディウムに従属させずに、フラットに考え直す・やり直すことに主眼を置いた(と当時受け取られていた)――「総合基礎」という授業が導入されたり、「構想設計」という専攻が新設されたりするという、現在にも受け継がれている体制がこの時期に作られた。で、さらに、この時期から特定の研究テーマのもとに学年を超えて学生が教員のもとに参集する勝手連的なゼミが叢生していたそうで、専攻を越えた横のつながりと学年を越えた縦のつながりとが比較的自由にできやすいという環境が、この時期の京都市立芸大にはあったというわけです(それは同時に「自分たちがやることには既に先人がいるから意味がない」という(解放感と表裏一体の)絶望感をも醸成することになっていたのですが)。

 

 かかる「改革」によってもたらされた環境のもとで山部氏が研究テーマとして設定したのは「知覚をオールオーヴァーな感覚の粒子としてとらえ直す」というものでした。現在の部外者的な視点からすると、「改革」によって大学の環境自体がオールオーヴァー状態になっていた――既に入学直後に「総合基礎」という授業をくぐり抜けた以上、それは必然なのですが――ことを割と率直に反映したテーマ設定ではあると思わせるところですが、それを特定のコンセプトのもとではなく、絵画内部にとどまらない自身の行動込みで実践しようとしていたところに、当時の思考の一端が現われていると言えるでしょう。実際、この時期の氏は「編集される作家でもあり、時代を編集する側にもなりたい」と思っていたのだとか。そういう思考/志向のもとでいろいろな活動に参加したり旗振り役を買って出たりした結果、1981〜82年にかけての時期にはスピリチュアル・ポップ展とイエス・アート展とインテリアアートショー(←心斎橋にあったソニービルで開催されたという)と自身の個展(←1981年にギャラリー白で行なっている)が同時進行している状態となっており、そこにさらに持ち込まれたのがフジヤマゲイシャ展の企画だったそうです。

 

 ここでようやくフジヤマゲイシャ展自体の話になるわけですが、現在も版画家として関西を中心に活動しているマツモトヨーコ女史が当時立ち上げていた勝手連的なゼミ――山部氏のほか、杉山知子女史、松井智恵女史、石原友明氏etcといった面々でファッションについて研究するものだった――にいた池田周功氏が当時東京藝大生だった関口敦仁氏と意気投合して勝手に企画を立ち上げたことが、そもそもの始まりだったという。そのような経緯で始まったがゆえに、少なくとも山部氏の中においては、美術運動ではあるけど特定の主義・思想のもとに人々が参集するという「〜ism」というものではなかったし、そういうもののもとに(当時次代を担うと目されていた)作家が動員されたというものでもなかったということに話の力点が置かれていました。むしろそのようなスクールやエコールを外すこと、そのために逆説的に二つの大学の交流展ないしは東京vs京都というアングルを用いることが意図されていた、というわけですね。さらに言うと、「フジヤマゲイシャ」というネーミング自体もかかるアングルの一端として使われたわけで(だから後年言われるような自虐的ニュアンスというのは、少なくとも現場レベルではなかったとのこと)。言い換えるなら、勝手に集まった面々――「メインストリームからのアウトサイダー同士の交流」と表現されてましたが――で大学という制度との距離感を測ることが第1回のフジヤマゲイシャ展では意識され、出展作家たちの間で共有されていた、という。それが上手くいったかどうかは別問題だとしても、です。

 

 実際、山部氏の歴史認識においては、第1回フジヤマゲイシャ展が開催された1982年が自分自身や周辺のみならず、関西の現代美術界全体におけるある種の特異点・ゼロ年として設定され、それ以降は自分たちが対抗しようとしたフレームワークやアングルが再び絶対化されて、その特異点によって開かれた位相が変質していくとされていまして、それは自身がかかわらなくなった第2回以降についての評価に最もストレートに現われていました。京都市立芸大と東京藝大との交流展自体は1987〜88年までなんらかの形で続いたが、末期には「フジヤマゲイシャ展」とは呼ばれなくなり、会場も銀座の貸画廊になっていくそうで、それは山部氏においては端的な変質・裏切りとされることになる。もちろん、このあたりについては人によって見解が相当異なるでしょうが、少なくとも自分の語る物語がどのような歴史と論理の交錯によって支えられているかを、かような形でオープンにしていることには一定の注意を払う必要があります。

 

 山部氏はその後、絵画に絞って制作活動を続け、最近では古今東西の風景画から任意の要素を抽出して再配置するというメタ風景画というべき絵画を多く手がけています。そういった活動の全体像について論じることは本記事の任ではないので割愛しますが、矛盾する諸力・諸要素の交錯する場として自覚的に再設定することを絵画一般のミッションとした上で描くという氏の作品は、絵画というよりインスタレーションに近しいところがあり(今回のトークでも「絵画の枠を外すとインスタレーションになる」と言っていました)、また知覚のオールオーヴァー性という問題意識を70年代後半から一貫して抱いていることは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

 

柳瀬安里「光のない。」展

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 三条神宮道にあるKUNST ARZT( http://kunstarzt.com/ )で3月7日〜12日の予定で開催されている柳瀬安里「光のない。」展は、柳瀬女史の初個展となる展覧会ですが、控えめに言ってもかなりクリティカルな展覧会でした。在日米軍のヘリパッドの移設先としてとりわけ昨年以来当局と各種反基地運動の最前線と化している沖縄県東村の高江地区に柳瀬女史が赴き、そこをオーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。(原題:Kein Licht)』を朗読しながらそぞろ歩くという20分ほどの映像作品でしたが、様々な文脈に対して開かれつつもそれらの安直なトレースに陥らず、行為自体が現地における政治的な情勢に批判的に介入にもなっていたわけで、俎上に載せた場所やテクスト自体の極端さにとどまらないレヴェルであぶないところを攻めてるなぁと、一鑑賞者的に震撼しきり。

 

 今回の映像作品、劈頭に反基地運動のデモ隊が多くたむろすベースキャンプめいた場所で柳瀬女史がスピーチするシーンがある以外はほぼ全編にわたって『光のない。』を諳んじながら高江地区に通ずる道を歩いていく柳瀬女史の記録映像となっています。その歩みは、現地にいる機動隊員によって進路を調整されたりストーキング(?)されたりしながら跛行的になっていき、最終的には金網(おそらくその向こう側は米軍が管理する(=反基地運動が返還を要求している)地域であろう)を背にして朗読がなおも続く様子を映しながら終わっていく――

 

 柳瀬女史は、昨年末に同じKUNST ARZTで開催されたグループ展「フクシマ美術」展( http://kunstarzt.com/VvK/180FukushimaBijyutsu/FukushimaBijyutsu.htm )で出展されていた別の映像作品――そこでは一昨年に盛り上がった反安保法案の国会前デモのさなかにチョークで路上に線を引いて回る様子が記録されていました――でもその行為の中で『光のない。』を朗読しておりまして、この作品がある種特権的なテクストと位置づけられていることが容易に想像できます。当方も「フクシマ美術」展を見た際にこの映像作品を見たことがありまして、線を引く-引き直すという象徴性の高い行為をデモという最前線の真っただ中において敢行するというところに目の付けどころがシャープやなぁと好感しきりでしたが、今回の「光のない。」展に出展されていた映像作品においては、彼女の問題意識はさらにヴィヴィッドに、かつ複雑に多層化された形で提示されていたと言えるでしょう。双方の映像作品において主題化されているのは「私(たち)とは誰か」という問いであり、その変奏としての「「私(たち)/彼(ら)」を分かつものは何か」という問いである。『光のない。』は、(ギャラリー内に置かれていた単行本( 光のない。 - 白水社 )を瞥見する限り)「私」「私たち」「あなた」という指示代名詞が濫用されることでそれらの指示対象を逆に溶解させ、未明で不分明な存在たちの場を開かせるというテクスト的実践が全編にわたってすさまじい強度で展開されていくといった趣を読む側に強く印象づける作品と見ることができますが、柳瀬女史はそのテクストを素読することによってさらに濫用し、もって「私(たち)」や「彼ら」という線引きに対して介入しようとしていると言えるでしょう。しかもそれを、よりによってと言うべきか、高江地区において再演しているわけですから、これはもう。

 

 このように、「私(たち)」をめぐる言語-言説的な実践に基づく行為として『光のない。』を再演/再利用した記録として今回の出展作はあるわけですが、しかしそれは単なる言語的な実践にとどまっていないことに注目する必要があるでしょう。彼女が高江地区に赴いてこの映像を収録したのは昨年11月だったとのことで、その頃というのは、長年このあたりにおける沖縄県民による反基地運動を率いてきた指導者(山城博治という人らしい)が逮捕されたことで、運動をめぐる潮目が大きく変わっていた時期にあたります。しかも彼が逮捕された原因というのが、反基地運動に加勢するために本土から派遣されてきた活動家が先に逮捕され自供したことによるものだった、という。してみると、「私(たち)」/「彼ら」、もう一歩突っ込んで言い換えるなら「友/敵」((C)カール・シュミット)をめぐる線引きの政治的な配置がこの事件によって一挙に流動化していた――それはつまり、「私(たち)」/「彼ら」という対立軸自体が一方で溶解し、単純な国家権力vs市民運動というような構造が宙吊りにされたことと等しいのですが――時期に、柳瀬女史は高江地区に飛び込んで制作していたことになるわけです。その結果として、彼女の行為は国家権力vs市民運動という二項対立を斜めに横断している。

 

 ところで『光のない。』はもともとイェリネクが東日本大震災福島第一原発の事故に触発されて書かれたそうです。そういう出自もあってか、ポストシアトリカルで難解な代物揃いな彼女の作品にしては珍しくというべきか、日本でも2012年の初演以来たびたび俎上に乗せられている様子です(演劇に疎い当方も、そう言えば以前小沢剛氏を演出と舞台美術担当に招いて東京で上演された(F/T13イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)』(小沢 剛) 東京芸術劇場)と当時小耳に挟んだことがありまして)。そんな作品を沖縄で朗読することは、一見するとかなり場違いなことのようにも見えるところですが、しかしイェリネクの元テクスト自体、2011年のフランクフルト市での演劇祭における「デモクラシーの黄昏」というお題へのレスポンスとして書かれたこと(これは当方、会場内に置かれていた単行本の訳者あとがきで初めて知りました(爆))を勘案してみると、これはむしろ高江地区においてこそなされるべきことなのかもしれないと、勝手に納得することしきりでした。「デモクラシーの黄昏」というお題が当時どのような意図と文脈のもとに発せられたのかは窺い知れませんが、沖縄(に限った話ではないのですが)において進行しているのは、表層的にも国家権力vs市民社会という対立構造がもはや成立しなくなっているという点において、端的に戦後民主主義の黄昏と言いうる事態であるからです。しかしそれは「68年革命」とその日本における徴候としての「戦後民主主義批判」において既に告知され、露呈していたのではなかったか。

 

 柳瀬女史がイェリネクを通して示しているのは、かかる時間的・歴史的な広がりのもとに未明で不分明な存在たちの場を開かせるというテクスト的実践を置き直すことであるわけです。このとき、「デモクラシーの黄昏」は別の民主主義への合言葉となるであろう――そのようなことを考えさせられるのでした。