井上裕加里「堆積する空気」展

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井上裕加里「堆積する空気」展フライヤー

 Gallery PARCは毎年この時期に展覧会の企画案を公募し、入選した三つの企画展を連続して開催しておりますが、その第三弾として8.1〜13の日程で開催されていたのが井上裕加里「堆積する空気」展。日本の近現代史や――日韓・日中間の歴史認識問題や北朝鮮の核開発問題など、軋轢の絶えない――東アジア情勢を取り上げた作品をここ数年手がけ続けている井上裕加里(1991〜)女史の、およそ二年ぶりとなる個展です。

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井上裕加里《罪の意識》(2017)

 今回は新作《罪の意識》と旧作《Auld Lang Syne》という二点の映像作品を中心にした構成となっていました。前者は原爆ドームをバックに井上女史が二画面に分かれて向かい合う形で(画像参照)、当時エノラ・ゲイに搭乗していた米兵やマンハッタン計画の参加者といった原爆を開発して投下した側の証言と、被爆した少女たちの証言をそれぞれ(あたかも対話しているかのように)朗読するという作品。一方、後者は日本で「蛍の光」というタイトルで親しまれているスコットランド民謡「Auld Lang Syne」が、韓国や台湾では全く違った歌詞が当てられていることに想を得て、三ヶ国の人が同曲をそれぞれ歌っているのを三画面で同時再生しているという作品となっています。上述したように、井上女史は、以前からアジア太平洋戦争に取材したり現下の東アジア情勢をダイレクトに反映させつつひねりを加えた作品を作ってきていますが、今回もその部分においては一貫していると言えるでしょう。この展覧会の直前に――京都市で近々始まる東アジア文化都市2017の関連企画である――フェルトシュテルケ・インターナショナル( http://www.kac.or.jp/events/21603/ )に参加して中国や韓国をリサーチして回ってきたそうで、そのことも作品にフィードバックされているのだろうかと思いながら作品に接したのですが、日米間あるいは日韓台間において微妙なこわばりや空気感を醸成するトピックを取り上げることで、戦後において何が無意識的なレヴェルに追いやられていったのかを逆照射するものとなっていたと、さしあたっては言えるでしょう。「堆積する空気」という展覧会タイトルに偽りなし。

 

 かような井上女史の作品がいかなる政治や歴史認識に導かれ、またそれらを(再)起動しているかについては一度触れたことがありますので( http://atashika-ymyh.hatenablog.jp/entry/2016/06/30/000000 )、ここでは縷々繰り返しませんが、彼女が――最新作である《罪の意識》を含めて――主だった作品において今回のような複数の画面の映像を表現手段としていることは、表現と政治・歴史との対質において考える際に、きわめて示唆に富んでいると言わなければならないでしょう。ここには、単なる趣味・趣向の問題を超えた何かが存在する。

 

 「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」――これは夏目漱石が1905年から翌年にかけて書いた断片の一節です。後に柄谷行人氏がこの一節を何回か取り上げて論じたことで有名になりましたが、井上女史の映像作品において通奏低音となっているのは、この漱石の一節のような認識を導入しつつどうやって脱構築するかということであると考えられます。上述したように、《罪の意識》においては原爆を落とした側と落とされた側という相異なる(しかも極端に対立している)立場からの発言が井上女史の実演によって突き合わされているわけですが――今回に限らず、昨年の日韓交流展(於:京都嵯峨芸術大学)では韓国での反日デモと日本でのヘイトスピーチデモとが同じ方法で俎上に乗せられていました(危)――、そのように、自己の身体を介して、いわば肉体的な問題として「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という漱石の言葉を実演して見せているところに、井上女史のクリティカルな部分が存在する。



ところで、われわれは漱石が「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」と書いていることに注意すべきであろう。このとき、彼は人間と人間との関係を、どんな抽象(観念)的な媒介によってもみていないので、肉体的な空間(space)においてむき出しにされた裸形の関係としてみているのである。(略)漱石の小説に関して、「自己本位」(エゴイズム)や自意識の相克をみることは、これまでの一般的な見解である。だが、漱石は人間と人間の関係を意識と意識の関係としてみるよりも、まず互いが同じ空間を占めようとして占めることができないというような、なまなましい肉感として、いいかえれば存在論的な側面において感受していたのだ。(柄谷行人「意識と自然」)

 

 

 「人間と人間との関係を、どんな抽象(観念)的な媒介によってもみていないので、肉体的な空間(space)においてむき出しにされた裸形の関係としてみている」「人間と人間の関係を意識と意識の関係としてみるよりも、まず互いが同じ空間を占めようとして占めることができないというような、なまなましい肉感として、いいかえれば存在論的な側面において感受していた」――このような、(柄谷氏が注意を差し向ける)漱石の認識の一端を井上女史もまた共有し、複数の画面を用いた映像作品という形で「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」状況をリテラルに表現し提示することで逆照射していると考えられるわけですが、とはいえ、ここで言う「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」ことを、「二個の者」の単純な和解と捉えてはならないのもまた事実でしょう。それは「意識と意識の関係」のレヴェルでのことに過ぎないからである。井上女史が作品という形で招来させようとしている事態はあくまでも「意識と意識の関係」においてではなく、「なまなましい肉感」において堆積している。それを「意識と意識の関係」に置き換えている、あるいは置き換えられうるものとしている配置(dispositif)が問題とされるわけです。

 

 したがって、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」というのは、この配置の結果であり、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」状況(ホッブズなら「自然状態」というところかもしれない)という「なまなましい肉感」の位相に対して、それをどんな形にせよ解決しようという「意識と意識の関係」における当為のもとで発せられたものであると見る必要があります。それは、私たちの文脈に引きつけて言い換えるなら、私たちの現在を規定する戦後民主主義ないしそのバックボーンとされる平和主義がそのような解決ではなかったのかという懐疑のもとに井上女史の作品に接するということである。彼女がしばしば書きつける「答えは目の前にあり、見えていないのは問いである」というステイトメントは、この「なまなましい肉感」の位相において読まれる必要があります。「答えは目の前にあり、見えていないのは問いである」というステイトメントは、そのような解決が果たして解決であったのか、それは解決の名による(想像的な)解消ではないのかという彼女自身の認識の発露であると見なければならないでしょう。だから余談になりますが、この一点において井上女史の作品は68年革命における「戦後民主主義批判」を現在において反復しているわけです。

 

 いずれにしましても、今回の出展作品においてなされていたのは、広島という、平和主義の起源の地であるとともに急所でもある地を俎上に乗せることで、「平和」を様々なスペクトルのもとに、言い換えるなら「平和」を平和主義という「意識と意識の関係」においてではなく「なまなましい肉感」の位相において感受し、そこから別種の「平和」を再考していく(しかし、それはいったいどのようなものになるのだろう?)ことにほかならない。