加藤巧「ARRAY」展

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 the three konohanaで開催中の加藤巧「ARRAY」展。主に海外でアーティスト・イン・レジデンスなどの活動を続け、昨年のはならぁとではメイン会場の一つだった今井町奈良県橿原市)でキュレーターも担当するなど、近年は日本国内でも活動の機会を増しつつある加藤巧(1984~)氏の、関西では初めてとなる個展です。

 

 加藤氏が表現手段として主に用いているのは、(中世ヨーロッパにおいてポピュラーな技法だった)テンペラ画とのことで、今回は新作のテンペラ画が十数点ほど出展されていました。具体的な制作過程についてはギャラリーのHP上で紹介されているので詳細はそちら( http://thethree.net/exhibitions/3613 )に譲りますが、いずれも自ら水彩ドローイングを描いた上でそれを模写する形でテンペラ画に置き換えていくという形で描かれているそうで、元となるドローイングは展示されていなかったものの、作風的には置き換えの妙味を観ていくという趣で統一されていました。よく知られているように、テンペラ画とは顔料を何か(卵黄を使うのが最もポピュラーだという)で接着して支持体(石膏)の上に乗せていくという手法ですが、現代の絵の具と違ってワンストロークで描くことができずすぐに乾いてしまうため、少しづつ色を置いていくような描き方にならざるを得ないという。かような、現在普通に使われている絵の具を用いることでは出てこない種類の不自由さを厭わず描くことによって、絵画に対して間接的・分析的な姿勢が前面に押し出されていたわけで、その意味で加藤氏の作品は、少なくとも出展作を見る限りにおいては、絵画というもの/行為自体に対する反省的態度から出発していることが観る側にも容易に感得できるようなものとなっていたと言えるでしょう。「ARRAY」(配置・配列)という展覧会タイトルは、――展示区間自体も作品の配置・配列にかなりこだわりを持ってしつらえられていたこととあわせて――確かに言い得て妙である。

 

 管見の限りにおいて、かかる「絵画というもの/行為自体に対する反省的態度」が最も先鋭的に立ち現われていたのが、「色彩」についてでした。実際、出展作を見てみると、ドローイングの段階ではワンストロークで描かれたであろう描線や色面が――(複数の)色彩の微妙なグラデーションの変化をともないながら――たどたどしく置かれた色の集積として描き直されていた。ここで加藤氏が試みているのは、先に触れたテンペラ画の制作過程と併せて見てみると、色彩を色彩としてという以上に存在として取り扱うという態度で絵を描くということであり、さらに言うなら絵画を構成要素や素材といった諸存在が並列されたモノとして扱うことである。絵を描くことは、そこでは諸存在をしかるべき形に再配列することと同じことになる――氏は「方程式」と言ってましたが、絵画を(マルクス風に言うと)下部構造において、あるいは下部構造として扱うことが、ここできわめてラディカルな形で行なわれているわけです。「存在は意識を規定する」。

 

 ところで7月10日には、国立国際美術館で研究員をしている(加藤氏とほぼ同年代の)福元崇志氏を招いてトークセッションが行なわれていました。福元氏が加藤氏の作品について様々な角度から訊ねたり解釈したりするという形でおよそ90分間にわたって展開されたこのトークセッションにおいて、やはり集中的に話題になっていたのは上述したような加藤氏の制作態度であった――トークにおいては、それは加藤氏自身によって〈描き〉という言葉によって改めて定位されていました。〈描き〉とは、絵画における「何かを描く」という行為から「何かを」が差し引かれている状態ないしそういう状態をもたらす前-行為として提示されていた(少なくとも当方はそう受け取りました)わけですが、この、目的語を欠いているがゆえに座りの悪さを聞く側に与え、さらには発話者の行為が何がしかの不安定感や手探りでやっている感をも想起させるような動詞・動名詞の周囲をぐるぐる回るような趣でトーク全体が進行していたと言っても、あながち揚言ではないでしょう。

 

 そんな〈描き〉という言葉のクリティカルさは、なぜ自作のドローイングをモティーフにしているのかという福元氏からの質問に始まる問答において、最も如実に現われていた。加藤氏いわく、それは他のモティーフだと対象を描くことの巧拙という他の評価基準が入りこんでしまうからだと返答してまして、〈描き〉が行為を通した/行為による分析や観察という側面を持っている以上、それらにのみ集中する上で自作のモティーフを用いることは不可欠だった、という。氏は他の評価基準が入りこんでしまうことを「逃げ場ができてしまう」と表現していましたが、それは〈描き〉という行為について考える上で、示唆的です。

 

 以上のようなやり取りを通して、福元氏は〈描き〉について自己言及的な作業であると言い、一方それに対してフロアから、それは自己言及というより現象学における基本的な態度としてのエポケー(判断停止)と言った方がより相応しいのではないかと応答があったりと、このあたりについては対談者/フロア関係なく白熱した議論が(いささかイレギュラーに)交わされていました。〈描き〉が、絵画に対する自意識のループとしての自己言及に由来するものなのか、そうしたループ構造が発動する手前に措定されるエポケーに由来するものなのかについてはにわかには即断できませんが、おそらくどちらの要素もそれなりに含みこんでいるとは言えるかもしれません。とは言え、ここでそういった問い以上に重要なのは、どちらを採るにしても不可避的に浮かび上がってくるであろう独在論的なニュアンスを〈描き〉は払拭しえているということではないかとということです。言い換えるなら、かかる自己内省的なプロセスと重なりつつも、〈描き〉はそこに他性=「モノ」の位相を導入することに成功しているのではないか。加藤氏は大学時代彫刻科に在籍していたそうで、それは「周りに「そこにモノがある」という環境で絵画を試したかった」という動機からだったという。

 

 いずれにしましても、福元氏とのトークセッションは、言うなればこれからの「モノ」の話をしようという態度で一貫していたわけで、それは絵画についての論議が昔も今もそのイリュージョン性をめぐってなされてきたことと好一対となっていたと言えるでしょう。それは絵画をめぐる議論に新たな豊穣さを与えることになったのではないでしょうか。加藤氏の「「モノ」としての絵画」をめぐる探究は始まったばかりである。