「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」展

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 伊丹市にある創治朗( http://gallerysojiro.wix.com/sojiro )で6月18日〜7月10日の日程で開催されている「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」展。現在地にギャラリーとしてオープンして以来一周年になるそうで、それを記念して企画されているとのことです。

 

※出展作家: 西ノ田、海野由佳、中山いくみ、竹村寬来、大槻香奈、松井コーヘー、大澤悠、イセ川ヤスタカ、仲順れい、潤inoue.、萩岡美知子、藤村幹、升田学、石野平四郎、神野翼


 昨年夏に西ノ田氏の個展(「ラビラント・キューティカ」展)でこけら落としを迎えて以降、意欲的な企画を次々と繰り出している創治朗ですが、今回は同所で個展を開催したことのある作家を中心にしつつ、関わりの深い作家たちにも声をかけたとのことで、ギャラリー内には総勢15名の作品が小品を中心に並んでいました。出展作の多くは絵画ですが、作風の傾向はかなりバラバラで、そこに共通点を見出すことは、不可能ではないにしてもかなり難しい。絵画に限って瞥見してみても、うねるようなストロークの絡まりとして女性の裸体を描いた海野由佳女史、切り絵を出展していた仲順れい女史、複数の風景をレイヤーを重ねるようにして描いた中山いくみ女史、プラモの箱イラストのようなテイストで旧日本軍の航空機を描いたイセ川ヤスタカ氏、嶋本昭三(1928〜2013)の弟子という経歴ながら今回マンガを出展した神野翼氏……――といった具合でしたから、これはもう。

 

 ――以上のように、この「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」展は、作風も出自も相当に異なる人たちが集められた雑多な展覧会という印象を観る側に真っ先に抱かせるような形で構成されていたわけですが、しかし一方でこの雑多さというのが、先に述べたような人脈的な理由とはまた違った水準で理由づけられ、また価値づけられていることに注目しておく必要があると言わなければなりません。

 

 それは「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」という展覧会タイトルに最も如実に現われている。一見して即座に分かるように、このタイトルはシェイクスピアハムレット』の名セリフ「to be or not to be」と小林秀雄出世作となった論文「様々なる意匠」を混ぜたものですが、かようなタイトルを冠することによって〈様々なる意匠〉自体の是非が争点となっていることが、たちどころに見出されるでしょう。それは《「様々なる意匠(=単なるさまざまなデザインが見かけの多様性としてあるだけ)」であってよいのか。またはそうでなくあるべきか。ここには切実な問いがあります》《今やわたしたちは他者との対話や連帯を奇跡のように望むしかなく、わたしたちにとって最も濃密に感じることができるものこそは他ならぬ何も掴めない「空虚」であるということ。このような困難を経ない限り、作品は生まれえないということ。そうした状況に展望をもたらす術はあるのかという視点からこの題名が着想されました》といった二見正大(創治朗ディレクター)氏のステイトメントにも、如実に現われています。言い換えるなら、この展覧会における出展作品の雑多さは、現在の日本における、いわゆる“現代アート”(に限った話ではないのですが)を主導しているモードとして〈様々なる意匠〉が(良くも悪くも)あることを示すために半ば以上戦略的に選択されたものである。そしてその上で〈様々なる意匠〉が示している「単なるさまざまなデザインが見かけの多様性としてあるだけ」という状況にいかにクサビを打ちこむか、あるいはそもそもそれは可能なのかが、ここで問われることになります。

 

 このように、現在における〈様々なる意匠〉をめぐる考察、というか苛立ちのようなものが原動力となっていると見てもあながち的外れとは言えなさそうなこの「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」展ですが、それでは、この言葉の出典元となった小林秀雄の「様々なる意匠」において、「単なるさまざまなデザインが見かけの多様性としてあるだけ」という状況」はいかに応接されているか。この点を念頭に置きながら読んでみたとき、――後世の文芸評論家たちによって様々に言及されてきた――冒頭部以上に、以下のように書かれた末尾の部分の方が重要になってきます。

 

 私は今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要とみえるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。(小林秀雄「様々なる意匠」(引用に際しては『小林秀雄初期文芸論集』(岩波文庫、1980)を底本とした))

 

 「ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために、むしろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない」――「様々なる意匠」において「意匠」とは当時の文壇において並立していた潮流のことでしたが、それらに対する小林の態度は、以上のような彼自身の言葉によって要約されています。ここは小林秀雄について論じる場ではないのでアレですが、「ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎないために」「あらゆる意匠を信用しようと努め」るという態度は、〈様々なる意匠〉の全てに価値を見出し、それらが共存している状態として見ることであると言えるでしょう。

 

 ところで、こういった小林の「様々なる意匠」に対して、加藤周一(1919〜2008)の〈雑種〉概念を置いてみることができます。加藤はフランス留学の最中から直後にかけて「日本文化の雑種性」を皮切りに次々と〈雑種〉概念に関する論考を執筆し、帰国後の1956年に『雑種文化』を刊行する。日本の文化の基底にあるのは他の様々な文化や文物を受け入れて作り変えていく〈雑種〉性にある(逆に「純粋な日本文化」を歴史から取り出そうとする試みはことごとく失敗することになる)という彼の議論は、今日ではある種当たり前のものとなっていると言えますが、しかし〈雑種〉という概念には、例えば多文化主義などに見られるような複数の文化がそれぞれ並存しているような状況を理想化するというものとは全く異なるラディカルさがあるのではないか――以下の文章で廣瀬純氏が指摘していることは、非常に重要なものがあります。

 

 加藤が唱えた「雑種」とは、互いに異なるかたちでコード化された複数の「特別なリンゴ」の共存のことではないのだ。そうではなく、すべての事物を脱コード化の運動のなかに巻き込む「スープ」、すべての事物が一様に「普通のリンゴ」としてあるようなディストピアとしての「スープ」こそが、加藤のいう「雑種」すなわちハイブリッドなのである。(廣瀬純ディストピアの潜勢力」(『現代思想』2009年7月臨時増刊号所収))

 

 ――長い寄り道になってしまいましたが、〈様々なる意匠〉をめぐる現在について考える際に、加藤の〈雑種〉概念の持つ射程も測りつつ考え直していくことが重要なのかもしれません。それはこの「to be 様々なる意匠 or not to be 様々なる意匠」展について考える際にも同様である。最終日の7月10日にはディレクターの二見氏と京都を中心に評論や企画を行なっている黒嵜想氏、カオス*ラウンジの中心メンバーの一人である黒瀬陽平氏によるトークショーが予定されていますが、そこにおいても〈様々なる意匠〉がどのように俎上に乗せられることになるか、興味深いところです。

 

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