伊東宣明「生きている/生きていない 2012-2017」展

f:id:atashika_ymyh:20180329013332j:plain

 いささか旧聞に属する話ですが、galerie 16で昨年12月12〜24日に開催されていた伊東宣明「生きている/生きていない 2012-2017」展は、関西を中心に活動している伊東宣明(1981〜)氏の、関西では数年ぶりとなる個展でした。伊東氏は、galerie 16では初個展から間もない2008年に一度個展を開催しておりまして、今回はそれ以来およそ10年ぶりとなるそうですが、この間、主に映像作品を中心に制作活動を続ける中で京都のみならず東京や名古屋でも個展を開催するようになったり、近年は京都造形芸術大学が運営するARTZONEのディレクターとしても同大学でアートマネジメントを学ぶ学生を率いて辣腕を振るうなど、活動の場を大きく広げてきている。その意味で今回の個展は、キャリアをしっかり重ねてきた上で満を持して凱旋してきたという趣があったと言えるでしょう。

 

 さておき、展覧会タイトルからも分かるように、今回は伊東氏が2012年以来手がけている《生きている/生きていない》シリーズが出展されていました。 全裸の伊東氏が聴診器で自身の心音を聴きながら、そのリズムに合わせて生肉の塊を拳で叩いていくという行為とシチュエーションを記録した数分ほどの映像作品ですが、2012年の第一作以来、おおむね一年に一作のペースで作られており、今や伊東氏の代表作と言ってもあながち揚言ではない。第一作では白い背景で行なわれていたのが、竹藪の中や山水画のような光景が広がる海辺、洋間、病院の廊下、果ては(岡山市にあるS-HOUSE Museum( http://s-house-museum.com/ )が所蔵している)加藤泉氏の彫刻作品を背景にして行なわれておりまして、映像内での伊東氏の行為やそれが行なわれているシチュエーションの突飛さを見るべき作品となっています。今回は、ギャラリー内の壁面に二画面に分け、双方の画面に映写された各作品がシンコペーションを変えながらループしていく――そのため、同じ映像が同時に現われることはない――という形で構成されていました。このような見せ方で《生きている/生きていない》に接することは管見の限りでは今までなかっただけに最初チト戸惑いましたが、ずっと見ていると、かような構成を取ることで、映像に映し出されたヴィジュアル的なシュールさとはまた違った角度からこの作品を見直す必要があるなぁと思わされることしきり。

 

 ことにそれは伊東氏の別の過去作と交差させることで、より明らかになるだろう。 これまで伊東氏は複数の画面を用いたり、映像内の要素がそのままで別のモノ・コトをも同時に指し示している(ように観客視点からは見えてしまう)事態を繰り込んだりした映像作品を手がけてきていることで知られています。上述したように伊東氏は10年ほど前にもgalerie 16で個展を開催していますが、その際に出展されていた《幻視者/演者と質問者》では“催眠術にかかった人”と“その人の演技をする人”をそれぞれ二画面で映し出してましたし、今はなきサントリーミュージアムで開催された「レゾナンス」展(2010)で展示されていた《死者/生者》では、うわ言を発している伊東氏の祖母の映像と彼女のマネをする伊東氏自身が、やはりそれぞれ二画面で映し出されていました。さらに数年前の《芸術家》では、駆け出しの女性アーティストに自作の(過去の大芸術家たちの名言をピックアップした)「芸術家十則」なるアフォリズム集をムリヤリ記憶させ、大声で早口で喋らせる(で、途中でトチったら最初からやり直させる)という、ブラック企業の社員研修にありがちな無意味な行為を延々とさせる様子を映し出していた――といった具合に、これらの作品においては、映像に映し出された事態の主体が(二画面の相互間で)決定不能状態に陥っている様子が執拗に主題化されているわけです。で、それは、《芸術家》において、「芸術とは/芸術家とは」という陳腐な問いに対して、「これを暗記して正しく暗唱できたら(誰であれ)芸術家である」というメタ的な位相を唐突に挟み込むことで問いが二重化されるという形で、形式論理的な操作という面においてひとつの極点を見せることになる。

 

 《生きている/生きていない》に戻りますと、この中で伊東氏が執拗に行なっている肉塊を叩くという行為は、草創期のトーキー映画において心音をローテクに再現する方法として考案されたものだそうです。大昔の時代劇においてキャベツをざく切りするときに出る音がチャンバラシーンで人が斬られたときの効果音として使われてた――というのと同じアレですね。そのことを勘案してから改めて映像作品に接してみますと、一見すると謎の行為を単に延々と映し出しているだけのように見えるこの作品も、実際の心音とローテク効果音として作られた心音という形で二重化された様態が映されていることになり、先にあげた過去作と同じ問題意識を共有して制作されたものであることが見えてきます。しかもそういう仕掛けを内容に埋めこんだ作品を二画面で提示するという形で、今回の展覧会ではさらに徹底された形で開示されているわけですから、かつての《芸術家》と同程度には極致に達していたと言えるでしょう。

 

 ――いずれにしましても、伊東氏の作品に頻出する二重化というモーメントが、一見するとそう見えない作品にも貫かれていることがかような形で示されたのが、個人的には大きな収穫でした。