加賀城健「〈Physical/Flat〉」展

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 いささか旧聞に属する話ですが、此花区にあるthe three konohanaで6月16日から8月6日にかけて開催されていた加賀城健「〈Physical/Flat〉」展。関西を拠点に染色作品を作り続けている加賀城健(1974〜)氏の、同ギャラリーでは三度目となる個展でした。

 

 1990年代から染色作品を作り続け、現代工芸の一分野としての現代染色において一定の評価を得て久しい加賀城氏。そんな氏を三たび取り上げるに際して、今回は過去二回とはうってかわって加賀城氏の約20年にわたるこれまでの制作の軌跡を(簡単にではあれ)振り返ることに主眼が置かれていました《本展では、これまでの加賀城の制作の展開を、2つの要素の着目から、考察していくことを目指します》(同展チラシより)。実際、会期前半(6.16〜7.9)では「〈Physical Side〉」ということで90年代からゼロ年代前半の作品が、後半(7.15〜8.6)では「〈Flat Side〉」ということでゼロ年代中頃から現在に至る作品がフィーチャーされていたわけで。さらに会期中に開催されていたART OSAKA(7.7〜9ホテルグランヴィア大阪)では、the three konohanaの出展スペースが加賀城氏の新作による個展形式「〈New Works-Extention〉」で構成されていたわけですから、夏の加賀城氏祭り状態であったと言っても、あながち揚言ではありますまい。

 

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加賀城健《Discharge──かみなりおこし》(2007)

 出展作に即してより具体的に見てみますと、〈Physical Side〉においては上述したように主に初期作品が中心となっていましたが、その時期においてなされていたのは、十数メートルにおよぶ布地の上に乗せられた大量の糊を力ずくで引きずり、脱色することで行為の軌跡・痕跡をそのまま見せるというものであった(画像参照)。ほかにも柔らかい布地を無理に引っ張った状態で染めたりするなど、この時期の作品においては、〈Physical〉にふさわしく、物理的な力や行為が主題になっていたと言えるでしょう。布地はここではそれそのものである以上に、力や行為の軌跡・痕跡がその上で展開される場としてある。この時期の作品に概してモノクロの作品が多いのも、そのような性格をさらに強めています。

 

 一方、ゼロ年代中頃から現在に至る〈Flat Side〉(及び新作による〈New Works-Extention〉)の出展作においては、〈Physical Side〉において等閑視されていた――あるいはもっと積極的に「抑圧されていた」と言った方が良いかもしれません――色彩が一転して全面化していました。一枚の布地を普通に様々な色で染めた作品に加えて、何枚かの布地を重ねた作品、シェイプドカンヴァスの発想をそのまま導入した作品など、見せ方が多様化しているのが一見して即解できたわけですが、それらが単に奇をてらったウケ狙いではなく、「布地」と「色彩」との関係性に対する考察を(特に絵画との対質において)多分に含んでいることに注目する必要があります。

 

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加賀城健《明るい地獄めぐり(連作・部分)》(2017)

 染色において「布地」は単なる画面(の基体)ではないのではないか――加賀城氏における染色への考察をドライブさせているのは、このような認識であると考えられます。言い換えるなら、「布地」を画面と同一視している限り、逆に「染めること」それ自体が抑圧されることになるだろう。絵画との対質を通して染色を考え直すという氏の態度には、染色というジャンル自体が「染めること」を排除しているということに対する危機感が存在する《染色をして作品発表する方々と話す機会があるとする。話の内容は決まってあの人は絵が描ける、描けない、という話に終始して、その絵がなぜ染色でなければならないのかの議論が少ない。私はこのことにずっと疑問を抱いてきた。染色家たるもの、その求める中心に染めることがあるべきだと考えるからだ》(加賀城健「創作をとおしての所感」)。

 

 で、「染めること」を改めて「求める中心」に据えたとき、それは「布地」に対する態度変更をも同時に迫ることになるはずです――染色は布地を文字通り染め上げる行為ですから、そこにおける色彩は絵画のように画面上に配置されるものとは違った位相に置かれる(というか、染め上げられる)ことになるからです。今回の展覧会に即しつついささか思弁的に言うと、〈Physical Side〉と〈Flat Side〉との間の最大の違いは、色彩の有無以上に、色彩を通した「布地」に対する認識の変容である。〈Physical Side〉の出展作において「布地」はその上で行為や物理的なベクトルの軌跡・痕跡が展開されるという点においてなお絵画的な「画面」の範疇を超えるものではなかったのですが、〈Flat Side〉の出展作においては「布地」は固有の物質性を持って「画面」とは違った形で色彩やフォルムを生かすものとして改めて立ち現われてくる。こうして「布地」や「色彩」に対する態度変更が「染めること」を染色というジャンルの「求める中心」に再び据えることになるだろう。今回の「〈Physical/Flat〉」展が染色と現代美術の双方に問いかけているのは、そのことにほかならないのです。