「>Gather — 群れ<」展

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 深江橋にあるギャラリーノマルにて7.22〜8.5の日程で開催されていた「>Gather - 群れ<」展は、精神科医で美術評論家でもある三脇康生(1963〜)氏のキュレーションのもと、中川佳宣(1964〜)氏と高橋耕平(1977〜)氏がフィーチャーされているという趣の展覧会でしたが、実際に展覧会に接してみるとキュレーター+二人展という構成とはいささか異なる様相を見せているように感得され、個人的になかなか興味深いものがありました。

 

 今回は中川氏の新作数点と、滋賀県の山奥にあるという中川氏のアトリエに転がっていた廃物にそこの記録写真を貼りつけた高橋氏の作品《N氏のアトリエ》シリーズが大小十数点、三脇氏が中川氏にインタビューした様子を高橋氏が撮影した映像作品が出展されていましたが、このようなラインナップ自体が、この展覧会の性格をきわめて雄弁に語っていたと言わなければならないでしょう。三脇氏はキュレーターであり中川氏に対する聞き手でもあり展覧会全体の言葉による記録者でもある――実際、三脇氏の執筆による小冊子が販売されていました(画像参照)――し、中川氏は出展作家であり映像によって記録される客体でもあり自身が接してきた過去の美術家(ex. 泉茂、村岡三郎)について語る主体でもあるし、そして高橋氏は出展作家であり三脇氏と中川氏に対する映像による記録者でもある。このように、それぞれがキュレーターや出展作家といった単一の形象に収斂せずに展覧会全体の中で複数の役割を担っており、そのことによっていささかなりとも拡散的な性格を帯びた存在としてこの展覧会に臨んだことになるわけで。「>Gather - 群れ<」という展覧会タイトルは、そのことをこれ以上ないくらい端的に言い表わしています。

 

 《各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く。もはや、群れを入れておく各人は不要で、群れをかき集めることだけになった気がしたら、それが成功というものだろう》と三脇氏は小冊子の中で述べています。このような氏の意図通りに展覧会が機能しているかどうかについては議論が別れるところではあるでしょうが、少なくとも高橋氏(の作品)に焦点を合わせてこの展覧会を見たとき、三脇氏の「各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く」という発言は、この展覧会のみならず、高橋氏の最近の映像作品について考える上で、きわめて示唆的である。

 

 上述したように、この展覧会において高橋氏は、三脇氏による中川氏へのインタビューの記録映像のほか、自身が撮影した中川氏のアトリエの記録写真を氏のアトリエから拾ってきた廃物に貼りつけるという作品を出展しておりますが、映像作品とサイトスペシフィック感のあるモノ――それは(加工された)ファウンドオブジェクトの場合もあるし、展覧会に合わせて高橋氏が新たに作ったものの場合もある――と写真や映像作品を混在させて展示空間内にインスタレーションするというのは、近年の高橋氏において断続的に試されている手法である。例えば、近作に限っても、一昨年(2015年)に岡崎市旧本多忠次邸で開催された城戸保(写真家)氏との二人展「ほんとの うえの ツクリゴト」展では、岡崎藩主の後裔である本多忠次が昭和初期に東京都世田谷区に建てた私邸を移築した会場でその場所の思い出を本多家の人たちが語っている映像作品と建物の資料が混在された形で展示されていましたし、昨年(2016年)に兵庫県立美術館で開催された「街の仮縫い、個と歩み」展では、阪神淡路大震災で被災した身体障害者三人への取材映像と人と防災未来センターが所蔵する震災直後に撮影された写真を高橋氏が再撮影して拡大コピーした写真が同じく混在された形で展示されていた。その意味では、この「>Gather - 群れ<」展の出展作品もまた、そうした傾向の延長線上に位置づけることができるでしょう。

 

 《私には、他者の経験に自らの身体を接続することで、自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望がある。そしてその欲望に形を与えることで、他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事を望んでいる。たとえそれが失敗の先例であったとしても》(「街の仮縫い、個と歩み」展図録より)――以上で概観した近年の作品について高橋氏はこのように述べています。ここからもわかるように、氏においては「他者」ないし「他者の欲望」が自分自身の作品制作を駆動する重要なファクターとなっている様子なのですが、その際にストレートに「他者」「他者の欲望」に向かうのではなく、独特の迂回を経た上でそうしていることに注目する必要があるでしょう。高橋氏がしばしば用いているのは、取材映像の中でインタビュイーの発言を自分自身のアフレコ音声に差し替えるというものですが(「ほんとの うえの ツクリゴト」展でも「街の仮縫い、個と歩み」展でもそれは効果的に用いられていました)、それは「他者の経験に自らの身体を接続する」ことを映像の中でリテラルに行なうということであり、それによって「自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望」「他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事」を仮想的かつ実効的に行なおうとしているわけです。そこから自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す道が開かれることになるだろう。だから、映像の中で自己と他者が仮想的かつ実効的に差し替えられるという経験を多用することは、他者の経験を我が物とすることではない。

 

 「>Gather - 群れ<」展に戻りますと、今回の中川氏へのインタビュー映像においては、以上のような方法は用いられていません。映像はあくまでも三脇氏による中川氏へのインタビューの(時間的に多少端折っている部分はあるにせよ)ストレートな記録に終始している。しかしながら、上述してきた高橋氏の映像作品の理路を概観した上で改めて接してみると、映像作品において立ち上がっているのは、自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す場であり、それを「中道性」(小冊子所収の三脇氏の文章「Gather - 群れ」より)というそれ自体精神分析的な実践の中で作っていくプロセスであるように、個人的には思うところ。自己も他者も、さらには「群れ」も即自的に存在するのではなく、精神分析的な介入によってはじめて存在する。「群れは、この中道性の中で作られる」(ibid.)。

 

 かかる〈中道性〉を通過することがどのような結果をみることになるか――それが(当方も含めた)観る側の課題となるでしょう。