今道由教展

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今道由教展DM

 西天満にあるOギャラリーeyesで開催中の今道由教展。関西を中心に1990年代から制作活動を続けている今道由教(1967〜)氏ですが、近年は毎年だいたいこの時期(7月下旬)にこのOギャラリーeyesで個展を行なっております。当方は一昨年に初めて氏の作品に接して以来毎年見に行ってまして、個人的に何か気になる美術家の一人だったり。

 

 さて今回出展されていたのは、一枚の大きな紙に切れ込みを入れて折り返すことでランダムに色面を成形していくという平面作品。昨年の個展においてそれまでの作風から超展開するような形で発表され、個人的には大いに瞠目したものですが、今回はその作風をさらに発展させた作品が出展されていました。昨年の個展における出展作では表面と裏面を違った色に塗った上で最小限の介入を施すことで色彩と形態にリズム感を与えていたわけですが、今回の出展作では、そういった手法はそのままに、切れ込みの入れ方や折り返し方が複雑化したり、色面の一部にラメやキラキラシールでデコレーションを施したりしており、昨年の出展作のようなミニマリズム的な緊張感とはまた違った側面からこの作風を試していたと言えるでしょう。

 

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今道由教《無題》(2017)

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今道由教《無題》(2017)

 当方、昨年の個展でかかる作風の作品に初めて接したときには、作風がその前の個展のときの作品と全くといっていいほど変わっていたことに加え、色彩と形態との関係性に対する手つきの巧みさ――そこでは技術の高さや複雑さを誇示することよりも、むしろ完成に至るプロセスの手数をいかに少なくするかという方向にベクトルが向いていた――見せ方のアトラクティヴさに驚くばかりでしたが、今年の個展の作品に接してみると、主に色彩に関して「遊び」の要素がやや前面に出てきたことによって、作られた部分によって構成された形態がリズム感を持って存在していることが昨年以上に前景化していたと見ることができます。上述したように、今道氏の作品は大きな紙に切れ目を入れて折り返すという形で作られているのですが、作られた各部分は個別性を持ちつつも、折れ目や(意図的に残された)折りの甘い部分が容易に見出せることによって、それらがもともと一枚の紙を超展開して作られていることからくる連続性も併せ持つことになるわけです(もし同じものを様々な大きさの紙をコラージュして作っていたら、見え方はかなり変わってしまうだろう)。

 

 このように、今道氏の作品は絵を描く際に支持体として機能する紙に対して直接手を加えるという形で制作されており、実際、氏自身も「支持体そのものが造形に深く関わる作品」「物質の身振りから生じる平面性と立体性が交錯する表現」(プレスリリースより)にフォーカスして制作していることを自認している様子ですが、そこに1960年代末から1970年代初頭にかけてフランスにおいて一時的に大きく盛り上がったムーヴメントである(とされる)シュポール/シュルファスの影響を見出すことは、さほど困難ではないでしょう。絵画を支持体(シュポール)と表面(シュルファス)に両極端に還元し、それらの複合体として絵画を再定義=解体するというのがシュポール/シュルファスの最も基本的な定義ですが、今道氏の場合、ここまで見てきたように、表面よりも支持体自体の持つ平面性と立体性そしてそれら同士の関係性にその関心は明らかに向いているわけで、してみると「シュルファスなきシュポール」と言うべきものへと絵画を編成-変成させようとしていると見ても、あながち的外れではありますまい。

 

 そう言えば、当方が一昨年に接した、現在の作風に超展開する前の今道氏の作品は、大きな紙に二色で太い線がランダムに何本か引かれているというものでしたが、そこでは線は描かれたもの(表面)であるとともに、線同士の交点における絵の具の滲みや垂れといった偶発的なものを隠さないことで、線自体が面としての物質性も持っていることが(これまたプロセスの数の少なさを感じさせることによって)見る側に容易に感得されるような作品となっていました。支持体の上に描かれた表面としての線というより、もう一つの支持体としての面として、つまり二種類の支持体が同じ物質性の上で存在していたわけですね。してみると「シュルファスなきシュポール」という路線は、氏においては昨年突然登場してきたわけではなく、少なくともゼロ年代から形を変えつつ試されてきたものであるとも考えられます(それ以前はどうだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのでアレですが)。

 

 いずれにしましても、今道氏の絵画的(それは以上に述べたように、なお絵画なのである)探求がどのような成果を今後もたらすことになるのか、さらに継続して注目していく必要があるのは間違いないでしょう。