「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展&「泉茂PAINTINGS1971〜93」展

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 関西を代表する画家の一人として長年大阪を拠点に活動してきた泉茂(1922〜95)の画業を回顧する展覧会が和歌山県立近代美術館と大阪市内のYoshimi Arts、the three konohanaで3月26日まで開催されていた。 和歌山県立近代美術館での「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展では泉の画業全体を通観する形で、Yoshimi Artsとthe three konohanaでの「泉茂 PAINTINGS 1971-93」展では1970年代以後晩年に至るまでの絵画作品(Yoshimi Artsでは1970年代の、the three konohanaでは80年代以降の作品が集中的に展示されていた)が集中的に俎上に乗せられており、三つの会場を回ることで泉の画業を最初期から晩年に至るまで通観できるようになっていたわけで、関西の公立美術館の常設展で一、二点出展されているという形で展示されることが依然として多い――逆に言うと、それ以上の存在として遇されることが地元においても稀であるということでもあるのだが――中にあって、版画のみならず絵画をも含めて見ることができたわけで、きわめて貴重な機会となったように、個人的には思うところ。

 

 1950年代に瑛九(1911〜60)が始めたデモクラート美術協会に参加し、版画家として活動を開始した泉は、同会の解散後渡米。アメリカ〜フランスと滞在して1968年に帰国した後は大阪を拠点に多くの絵画・版画を制作しつつ、大阪芸大の教授として後進――有名なところでは中川佳宣(1957〜)氏や館勝生(1964〜2009)をあげることができるだろう――の育成にもあたるなど、終生にわたって関西の現代美術界隈に大きな影響を与え続けていく。没後20年以上を経て開催された今回のこれらの展覧会では、これまで版画家としての活動の方がクローズアップされることが多いきらいのあった(そのような傾向の近年における重要な達成として、2015年にBBプラザ美術館で開催された「泉茂の版画紀行」展をあげることができる)泉の美術をより立体的に理解するためのヒントに満ちていたと言えるかもしれない。

 

 泉の画業を改めて通観してみると、デモクラート美術協会時代におけるシュルレアリスム象徴主義が入り混じったような物語性の強いエッチング作品から、10年近い海外生活の中で抽象絵画に大胆に舵を切り、特にフランス滞在時代にはドローイングの筆触を改めて絵画として描き直すという作品を手がけるようになる。帰国後はエアブラシを多用しつつ幾何学的に明快なフォルムによる絵画を、さらに1980年代後半から最晩年にかけては雲形定規を用いて描かれた有機的なフォルムが画面上をカラフルに乱舞する絵画を多く手がけるようになるといった具合に、おおむね十年ごとに画風を大胆に変えている。個人的には上記のそれぞれの時期の作品に単独で断片的に接してきたものだから、彼の画業を通観するということ自体がほぼ初めてで、とりわけ最晩年の絵画作品には管見の限り全く接したことがなく、純粋にへぇこういうスタイルでも描いてたんやと思った次第。実際、今回は――特に「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展において顕著だったのだが――この「作風を時々に応じて大きく変え続けた作家としての泉茂」という側面が強調されていたのだが、重要なのは、泉において画期をなすこれらの転換が、そのランダムで場当たり的な見かけとは異なり、かなりの程度内的な要請に応じてなされたということである。特に「PAINTINGS 1971-93」展の出展作品は、そのような観点から見て分かりやすい作品が集中的にセレクトされていたと見受けられるから、なおさらである。

 

 泉における作風の変容と絵画の内的な変容との関係は、形象・フォルムという要素に焦点を合わせて見てみると分かりやすいかもしれない。上述したように、泉の画風は渡米によって象徴から抽象へ、さらに帰国後は描かれる対象がストロークそれ自体から幾何学的な形象へと変化していくのだが、以上のような過程が、自身の絵画から形象以外の要素を排除する(少なくとも表面的にはそれを志向している)過程であることにさしあたっては注目する必要があるだろう――渡米に際して「何かが何かを表象-代行する」というモーメントを排除し、帰国後は(エアブラシを多用することで)筆で描いた痕跡を画面内から排除する、といった具合に。泉がこのような方向性に向かった背景には、デモクラート美術協会時代に瑛九から「構造」の重要性について諭された経験が大きいと言われているが、瑛九がどのような文脈においていかなる定義のもとに「構造」という言葉を用いたのかについては不明なところが多いものの、泉の絵画を見る限りにおいては、絵画が画面の外部――それは既存の象徴性(や、それをインデックスとして発動する物語性)のみならず、作者自身の存在にも及ぶことになるだろう――との関係において成立している状態は「「構造」がない」状態であり、従って形象をそれ自体として画面内においてのみ成立させることが、泉における「構造」の導入であったとは言えるだろう。帰国後間もない時期から継続的な探求が行なわれた果てに行き着いた80年代前半における、円や三角形が歪みをともないながら描き出され四囲が赤い線で囲われた作品は、瑛九によって与えられた「構造」というキーワードに使嗾されて描かれた泉の絵画の、「構造」それ自体の翻案ぶりも含めた、ひとつの到達点である(が、そこからさらに変化して、有機的な形象とカラフルな色彩自体が主題となった最晩年のスタイルに身を翻すことになるのだが)。

 

 ところで会期中の3月4日には、「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展の担当学芸員である植野比佐見女史による講演がthe three konohanaで開催されている。講演の具体的な内容についてはこちら( http://www.yoshimiarts.com/exhibition/20170225_Shigeru_Izumi-PAINTINGS_1971-93-add2-170304talk.pdf )を参照されたいが、以上のような「構造」の導入と翻案の過程を、デモクラート美術協会参加以前にまで遡ってさらに細かく見ていくものとなっていた。「構造」の導入による画面の自立という一連の過程が、唐突な飛躍によってではなく、以前から描いてきたモティーフ(鳥など)の酷使と言うべき執拗な使用によってなされてきたことが様々な傍証を積み重ねながら丁寧に論証されていて、個人的には非常に得るものの多い講演だったわけで。

 

 あと、泉と同時代の絵画の諸動向との関係についても一定の知見が披歴されていたことも印象的であった。泉における「構造」の導入と翻案の過程は、アメリカにおける抽象表現主義やフランスにおけるシュポール/シュルファスといったムーヴメントと明らかに並行している――さらに言うと、最晩年の作品は、有機的な形象とカラフルな色彩それ自体が主題となっているだけに、その少し前に欧米を席巻したニューペインティングとの並行性も指摘されうる――のだが、しかし泉の絵画からは、どの時期においてもそういったムーヴメントに完全に含みこまれるのを拒絶するような契機も存在することが同時に指摘されるべきであろう。そこには時間的な非同期性(ニューヨークに着いた頃には抽象表現主義のムーヴメントが収束期にさしかかっていた、とか)以上の要素が存在すると考えられ、そこにこそ泉のハンサムネスがあるのではないか――と書くといささか理に落ち過ぎるきらいがあるのだが、しかし彼のハンサムネスが私たちの想像以上に全方位的なものであった(それは極限まで画面の自立を求める態度と表裏一体ではあるのだが)ことを含めて、改めて考えるべきことは相当多いように思われる。

 

 そういったことも含めて、「「今なおアクチュアルな画家」としての泉茂」への評価の転換を促しているという意味では、非常に真っ当な展覧会であったと言えるだろう。