「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展+山部泰司トークショー

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 2月18日〜3月5日の日程で@KCUAで開催されていた「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展は、数年前から同ギャラリーがこの時期に行なっている各年代ごとの回顧展(卒業時に大学によって買い上げられた作品を中心に展示されている)の一環という位置づけの展覧会ですが、今回は作品に加えて、1980年代前半における様々な美術動向――後にそれらは「関西ニューウェーブ」と一括され、この時期の現代美術における特権的なムーヴメントのひとつとされることになる――の熱気を今に伝える資料・史料が多く並べられていました。とりわけ重点的に揃えられていたのが、1982年に始まってその後数年間続いた、京都市立芸大と東京藝大の有志による交流展「フジヤマゲイシャ展」をめぐるものでして、様々な紙媒体に加えて、図録を引用元とする当時の出展作品の写真が壁に多く貼られたりしていました。当方のような資料ヲタ的には名前だけが伝説化されて一人歩きしていることこの上ない感がある展覧会ですから、不十分ではあるにしてもその一端に触れることができて、テンション爆上がりだったり。

 

 さておき、この展覧会、当方は2月19日に見に行ったのですが、そのフジヤマゲイシャ展の第一回の出展作家の一人――というか企画運営側の人でもあった――現代美術家の山部泰司(1958〜)氏のトークが開催されていました。もともと事前告知はなく、当方も@KCUAに行く前に立ち寄った某ギャラリーのオーナー氏から当日聞かされて知ったわけで。実際、超突発的に告知されたためか、その場に立ち会ったのはスタッフ以外では当方とそのオーナー氏のみだった、という。

 

 それはともかく、長年関西の現代美術界隈で評論やキュレーションを手がけてきた大阪電通大教授の原久子女史と、この展覧会に協力している京都市立芸術大学芸術資源研究センターの研究員である石谷治寛氏を聞き手として開催されたこの超突発トーク、おそらく後日芸術資源研究センターから何らかの形で公開されることになるでしょう(?)から詳細はそちらに譲りますが、山部氏の目から見たフジヤマゲイシャ展開催に至るまでの経緯が主な話題になっていました。フジヤマゲイシャ展自体がというより、その前夜の風景――とりわけ当時誰がどのように存在し、行動したか――に語りの多くが割かれていたわけですね。で、そこに、現在もなお旺盛な制作活動を展開し続けている山部氏による理論的思考と(個人史も含まれる)歴史とを交差させる試みが重ね書きされていくという形で進行していたと、さしあたってはまとめることができるでしょう。理論と歴史が交錯するとき、物語が始まる。

 

 山部氏は1978年に洋画専攻に入学しますが、この時期の京都市立芸大は、60年代末から70年代初頭にかけての学生運動の中で行なわれたカリキュラム「改革」の余波が残る一方で、大学自体が東山区から西京区に移転することが決まるなど、いろいろと混乱していた時期であったそうです。そんなこの時期を回顧する際に、氏がとりわけ重要な契機として語っていたのが、カリキュラム「改革」でした。京都市立芸大の場合、当時猖獗をきわめた全共闘運動とリンクする形で勃発した学生運動の中で、運動側から提案された案がかなり反映された形でカリキュラム自体の改革がなされるという超展開をたどっていく(トークの中で氏は「文化大革命」と表現していました)わけですが、そこで行なわれた「改革」によって、美術学部入学者全員に対する導入科目として――「ものづくり」を素材やメディウムに従属させずに、フラットに考え直す・やり直すことに主眼を置いた(と当時受け取られていた)――「総合基礎」という授業が導入されたり、「構想設計」という専攻が新設されたりするという、現在にも受け継がれている体制がこの時期に作られた。で、さらに、この時期から特定の研究テーマのもとに学年を超えて学生が教員のもとに参集する勝手連的なゼミが叢生していたそうで、専攻を越えた横のつながりと学年を越えた縦のつながりとが比較的自由にできやすいという環境が、この時期の京都市立芸大にはあったというわけです(それは同時に「自分たちがやることには既に先人がいるから意味がない」という(解放感と表裏一体の)絶望感をも醸成することになっていたのですが)。

 

 かかる「改革」によってもたらされた環境のもとで山部氏が研究テーマとして設定したのは「知覚をオールオーヴァーな感覚の粒子としてとらえ直す」というものでした。現在の部外者的な視点からすると、「改革」によって大学の環境自体がオールオーヴァー状態になっていた――既に入学直後に「総合基礎」という授業をくぐり抜けた以上、それは必然なのですが――ことを割と率直に反映したテーマ設定ではあると思わせるところですが、それを特定のコンセプトのもとではなく、絵画内部にとどまらない自身の行動込みで実践しようとしていたところに、当時の思考の一端が現われていると言えるでしょう。実際、この時期の氏は「編集される作家でもあり、時代を編集する側にもなりたい」と思っていたのだとか。そういう思考/志向のもとでいろいろな活動に参加したり旗振り役を買って出たりした結果、1981〜82年にかけての時期にはスピリチュアル・ポップ展とイエス・アート展とインテリアアートショー(←心斎橋にあったソニービルで開催されたという)と自身の個展(←1981年にギャラリー白で行なっている)が同時進行している状態となっており、そこにさらに持ち込まれたのがフジヤマゲイシャ展の企画だったそうです。

 

 ここでようやくフジヤマゲイシャ展自体の話になるわけですが、現在も版画家として関西を中心に活動しているマツモトヨーコ女史が当時立ち上げていた勝手連的なゼミ――山部氏のほか、杉山知子女史、松井智恵女史、石原友明氏etcといった面々でファッションについて研究するものだった――にいた池田周功氏が当時東京藝大生だった関口敦仁氏と意気投合して勝手に企画を立ち上げたことが、そもそもの始まりだったという。そのような経緯で始まったがゆえに、少なくとも山部氏の中においては、美術運動ではあるけど特定の主義・思想のもとに人々が参集するという「〜ism」というものではなかったし、そういうもののもとに(当時次代を担うと目されていた)作家が動員されたというものでもなかったということに話の力点が置かれていました。むしろそのようなスクールやエコールを外すこと、そのために逆説的に二つの大学の交流展ないしは東京vs京都というアングルを用いることが意図されていた、というわけですね。さらに言うと、「フジヤマゲイシャ」というネーミング自体もかかるアングルの一端として使われたわけで(だから後年言われるような自虐的ニュアンスというのは、少なくとも現場レベルではなかったとのこと)。言い換えるなら、勝手に集まった面々――「メインストリームからのアウトサイダー同士の交流」と表現されてましたが――で大学という制度との距離感を測ることが第1回のフジヤマゲイシャ展では意識され、出展作家たちの間で共有されていた、という。それが上手くいったかどうかは別問題だとしても、です。

 

 実際、山部氏の歴史認識においては、第1回フジヤマゲイシャ展が開催された1982年が自分自身や周辺のみならず、関西の現代美術界全体におけるある種の特異点・ゼロ年として設定され、それ以降は自分たちが対抗しようとしたフレームワークやアングルが再び絶対化されて、その特異点によって開かれた位相が変質していくとされていまして、それは自身がかかわらなくなった第2回以降についての評価に最もストレートに現われていました。京都市立芸大と東京藝大との交流展自体は1987〜88年までなんらかの形で続いたが、末期には「フジヤマゲイシャ展」とは呼ばれなくなり、会場も銀座の貸画廊になっていくそうで、それは山部氏においては端的な変質・裏切りとされることになる。もちろん、このあたりについては人によって見解が相当異なるでしょうが、少なくとも自分の語る物語がどのような歴史と論理の交錯によって支えられているかを、かような形でオープンにしていることには一定の注意を払う必要があります。

 

 山部氏はその後、絵画に絞って制作活動を続け、最近では古今東西の風景画から任意の要素を抽出して再配置するというメタ風景画というべき絵画を多く手がけています。そういった活動の全体像について論じることは本記事の任ではないので割愛しますが、矛盾する諸力・諸要素の交錯する場として自覚的に再設定することを絵画一般のミッションとした上で描くという氏の作品は、絵画というよりインスタレーションに近しいところがあり(今回のトークでも「絵画の枠を外すとインスタレーションになる」と言っていました)、また知覚のオールオーヴァー性という問題意識を70年代後半から一貫して抱いていることは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。