「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実―」展

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 箕面市にあるコンテンポラリーアートギャラリーZONE( http://art-gallery-zone.com/ )で12月10日〜27日の日程で開催されていた「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実―」展。詩人の京谷裕彰氏のキュレーションで、OKA、川崎瞳、松平莉奈、松元悠、百合野美沙子という五人の女性画家の平面作品が展示されていました。

 「現実を超える現実」というサブタイトルから容易に類推できるように、シュルレアリスムが主題として前面に押し出されていた感があるこの展覧会ですが、実際に作品に接してみると、シュルレアリスムという語が喚起させるイメージや(ブルトンやダリ、ミロ、デ・キリコマン・レイ瀧口修造etc.といった固有名によって語られる)アーカイヴの現在をなぞることよりも、「超現実主義」という訳語が当てられることしきりなこの語における「超現実」の、絵画における現在地の一角を五人の画家の作品を通して走査することに重きが置かれていたと、さしあたっては言えるでしょう。そこでは「超現実」とは非現実的なイメージ群の中に閉じこもることというより、(一見するとそういう行為に耽っているように見えているとしても)別種の現実を絵画によって構築し、もって生活世界の中でそれと対峙する行為にほかならないわけです。ですからそこでは他者や世界から遊離することよりも、それらへの関わりを改めて自己の中に繰り入れることが改めて主題化されることになる。京谷氏がシュルレアリスムの本義として提示する――「非現実ではなく現実を超える現実」としての――〈強度の現実〉とは、それ以外ではない。ところで、このような形で自己と他者・世界との関わり方を押し出す哲学は、通例「実存主義」と呼ばれます。ですからこの展覧会において試みられているのは、シュルレアリスム実存主義が端的に同じ実践である/ありうることを、絵画というもの/行為によって示すことにあるのではないだろうかと、個人的には思うところ。それはフランスにおいてサルトルブルトンを激しく批判していたとしても、そうなのである。

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 当方が見に行った12月12日には出展作家+京谷氏が勢揃いしてのアーティストトークが開催されまして、彼女たちがどのようなことを考えながら作品に向かっているのかを聞きながら出展作品に接することができました。そこでどのような言葉が発せられたかについてはいずれ当人たちが改めて言葉にするでしょうからここでは多くは語りませんが、カタツムリという象徴(西洋では「不滅」の象徴とされることが多いという)へのこだわりを追求し続けているというOKA女史、指をモティーフとしたイメージたちが乱雑に存在するユートピアディストピアを細密なペン画で描く川崎女史、檻のような中に閉じこもりながら味噌汁をすする青年(画像参照)を描いた松平女史、自身の身の回りの個人的な出来事やメディアで接したことから想を得てコラージュ的に描いていく松元女史、様々な虫が女性の周りを飛び回る幻視的な光景を描いている百合野女史と、シュルレアリスム美術においてまま見られる表現技法や発想法を用いつつも、それらを〈強度の現実〉へと差し向ける指向性がきわめて強い作品が揃ってまして、非常に見応えがありました(この文脈で見た場合、管見の限りにおいて日本画のヴィルトゥオジティの文脈でしか接することがなかった松平女史の作品が全く異なる相貌を見せていたのは、個人的には大きな発見でした)。

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 出展作はどれも印象的な作品でしたが、とりわけ個人的には百合野女史の絵画(上画像参照)に瞠目することしきり。上述したように様々な虫が女性の周りを飛び回るという幻視的な光景が描かれていたわけですが、そこでは女性の腕がくりぬかれて本来骨があるべきところに蛍光灯が埋め込まれており、虫はそれに誘われてやって来ているという筋立てになっている。ですから、虫を厭わしく思うとともにしかし寄ってきてしまうという、相反するイメージの流れ、ストーリーの流れが画面の中に描きこまれているわけですね(しかも作品タイトルは《うるさい》ですから、これはもう)。今日、絵画において何らかの形で象徴性を主題にするときに必要とされているのは、おそらくはこのようなイメージをめぐる実践でしょう。それによって、画家が幻視するものは、単なる幻想絵画と異なった位相に置かれることになるだろうから。

 「シュルレアリスム絵画というのは存在しない。正確に言えば絵を描くシュルレアリストがいるだけだ」――今回の展覧会に接して反射的に思い起こしたのは、このアンドレ・マッソンのアフォリズムでした。五人の作品はそれぞれの流儀で「シュルレアリスム絵画」ならぬ「「絵を描くシュルレアリスト」としての実存」への思考/指向を表現していたわけで、彼女たちの今後の探求や実践がどのような成果をもたらすことになるか、注目していかなければいけないなぁと思わされることしきりでした。