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早瀬道生「表面/路上/その間」展

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 KUNST ARZTで9月13〜18日の日程で開催されていた早瀬道生「表面/路上/その間」展。京都造形芸大の大学院に通っているという早瀬道生(1992〜)氏の、同所では初めての個展です。

 今回出展されていたのは、今年7月に沖縄本島に赴いて撮影した写真作品と、特定の日の各紙の紙面データをひたすら重ねて引き伸ばしたフォトモンタージュ系作品でしたが、個人的には前者の写真作品に瞠目することしきりでした。米軍用のヘリパッド建設問題で今に至るまで大揺れな――その割に現地の動向がマスコミレベルで報じられることが少ない――沖縄県東村高江地区に赴き、現地でうち続く反対デモに参加しながら、彼らに対峙している機動隊員を撮影したというポートレイト写真が出展されていましたが、そのジャーナリズム的なフットワークもさることながら、写真には機動隊員個々人の顔がバッチリ写されていたわけで、それが整然と並んでいるのを見るにつけ、こういう展示はこれまでもあぶない展覧会を仕掛けてきたKUNST ARZTでしかできないよなぁと謎に感心してしまうところ(一見すると肖像権に抵触しそうですが、法的には一応問題ないようです)。

 とは言え、在廊していた早瀬氏から撮影裏話を聞きながらより仔細に見てみると、そのようなジャーナリスティックな、あるいはスキャンダラスな位相にとどまらない問題意識のもとに撮影されたものであることが感得されるのも、また事実である。氏曰く、これらのポートレイトは盗撮ではなく、その場で機動隊員たちに事前に伝えた上で撮影されたとのことで、道理で真正面からストレートに撮影された写真が多かったわけだと、納得しきり。で、かような、突然闖入してきたカメラマンによって撮影されるというイレギュラーな事態に際会してもなお、少なくとも表面的には動ずる様子もなく概ね無表情で写真に収まったというところに、個々人の個性が消去された状態、さらに言えば個々人を超えた存在の不気味さを見出したそうです。そういう意味では、これらの写真作品においては機動隊員個々人がというより、彼らの形を取って現前するものが撮影されていると言えるかもしれません。言うまでもなくそれは、ドイツ写真におけるベッヒャー・シューレについてしばしば語られる「タイポグラフィ」に通ずる態度である。

 個人的には、かようなポートレイト写真を見て連想したのは、2013年に大阪で開催され、その後東京と金沢に巡回したMOBILIS IN MOBILI展に出展されていた河西遼氏の写真作品でした。河西氏が東日本大震災後に一時的に盛り上がった反原発デモに参加し、デモ隊の内側からそれを遠巻きに眺める路傍の人たちのポートレイトを撮影するというものでしたが、そこでの被写体たちの表情は一様に何か奇妙で不気味な事態に出くわしてしまったというような、困惑とも何ともつかないものだった。そのような画一的なリアクションを写し出すことで、河西氏のカメラは彼/彼女たちの表情にではなく、個々の彼/彼女たちを超えたところに措定される「市民」の姿にフォーカスされていたと言えるでしょう。デモ隊を不気味なものとして見つめる「市民」たちが反転した形で不気味なものとして立ち現われてくる――そのような奇妙さをこそ河西氏のカメラは雄弁に切り取っていたわけです。彼の写真作品が提示しているのは、今日において「市民」とはある種の市民運動が無邪気に設定するようなヒューマニズム的な理念ではなく、単にそこにあるモノに過ぎないという現実である(で、このような、モノとしての市民を撮影するという態度の一つの起源として、例えば阿部淳氏の《市民》シリーズをあげることができるでしょう)。

 「表面/路上/その間」展に戻りますと、早瀬氏の行為は、デモ隊の側から撮影するというところに河西氏との共通点が見出されるわけですが、タイポグラフィ的な視線によって、早瀬氏の写真もまた、機動隊員の不気味さの向こう側にある「市民」の不気味さが写し出されていると見ることができるでしょう。それによって、現地で起こっていることとともに、あるいはそれ以上にと言うべきでしょうか、「沖縄における米軍基地問題」と私たちが呼ぶことの基底をなす前提条件が写し出されていると見ることも、あるいは不可能ではない。機動隊員の不気味さは、「(沖縄県民視点からの)本土の人」である私たちの不気味さでもあるわけです。戦後日本における「理念としての「市民」」の限界としての「沖縄における米軍基地問題」は、これまで多くの写真家(東松照明森山大道氏など)によって向けられてきた沖縄への視線に対する批評としてもある。