読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

迎英里子について

f:id:atashika_ymyh:20170201095627j:plain

 ところで、当方が今年1月から6月末までの上半期に見に行った展覧会の数は美術館・画廊・オルタナティヴスペースetc合わせて283でしたが、その中でもベストというわけではないにしても、個人的に最も目からウロコが落ちたのが、寺町三条にあるGallery PARCで3月26日から4月10日にかけて開催されていた迎英里子「アプローチ2[石油]」展でした。迎英里子(1990〜)女史は京都市立芸術大学で彫刻を専攻し、昨年大学院を修了したとのことで、この「アプローチ2[石油]」展は彼女の二度目の個展となります。

 さておきこの「アプローチ2[石油]」展、どのような展覧会だったのかというと、角材やビニールシート、発泡スチロール製のボール、網などを材料にしてギャラリー内に謎インスタレーション(画像参照)を作り、毎週末にそこで迎女史本人によるパフォーマンスが行なわれるというものでした。パフォーマンスの内容は至ってシンプルでして、この謎インスタレーションの中で彼女自身がいろいろモソモソしたり、発泡スチロール製ボールをいくつも転がしたり網の中に投げ入れたりしていくというもの。で、それが10分ほど続き、いったいこれのどこがどう「石油」なのだろうかと観る側が訝り始めたとき、おもむろに紙とマジックを取り出し、ギャラリーの片隅で何か書いて謎インスタレーションの各部に貼りつけていく。網には「堆積盆地」や「帽岩」、ビニールシートには「土」、発泡スチロール製ボールには「石油」といった具合に名称を記した紙が貼りつけられていき、それによって、一連のパフォーマンスは実は石油が地中にできていく地質学的過程を彼女自身が身体を張って実演してみせていたことが、そして謎インスタレーションはその過程を説明するために抽象化された地質のモジュールだったことが明かされる、という…… なるほどこれは確かに「石油」としか言いようがないと納得することしか、もはやできないのでした。

 ――迎女史はそのキャリアのほぼ最初からこのような、実際に行なわれている過程を抽象的にモデル化したモジュールを制作していましたが、近年ではモジュールの中で自らパフォーマンスを行なう作品を手掛けるようになってきています。そこでは、例えば肉牛の屠殺-解体作業(《食肉の流通経路》 https://youtu.be/7ylOlc8WjEg (2014))や、あるいは植物の開花(《細胞の数の増加による開花》 https://youtu.be/DxqNqjijivs (2013))といった、それが人間の社会的営みであるか人間の介在しない自然現象であるかを問わず俎上に乗せられて再演されることになる。かような具合に、現象を翻訳し再提示することがこれらの作品のキモとなっているわけですが、それらは単に再現の精度の高さ/低さを誇示するためになされているわけではなく、モジュールとパフォーマンスを通して、私たちが(よほどのことがない限り)経験できないことを可視化することに重きが置かれていると、さしあたっては言えるでしょう。

 ただしここで大急ぎでつけ加えなければならないのは、以上の一連の流れは、経験できない=「わからない」ことをモジュールとパフォーマンスを通して「わかる」ようにするためのものではないということである。迎女史自身の言葉を借りると、この一連の流れが目指しているのは、《新しく作られたシステムは一見すると何をしているのか、意味がある行為なのかどうかわからない。しかし行われている動作を感覚的にトレースできるため、完全な思考の放棄はされない。観客は宙ぶらりんの状態で、直接的な説明のないまま想像を巡らせます》(←本展ステイトメントより)であり、それは言い換えるなら、「わからない」ことを「わかる」ようにするのではなく、「完全にわからない状態ではない」ようにすることであると言うべきでしょう。「わからない」と「わかる」との間には無限の「完全にわからない状態ではない」状態がグラデーション状に存在する、というのが、これらの作品と行為における彼女の基本的な認識である。本当に「わからない」状態ってとりあえず検索すれば最低限の知識が得られる現在においては存在しないのではないかという(Gallery PARCのディレクター氏を交えて三人で歓談した折の)迎女史の発言は、いろいろ示唆的です。

 このように、現象をモジュールとプロセスの複合体として取り出し、それをパフォーマンスによってトレースすることで、対象を「わからない」ことから「完全にわからない状態ではない」ことへと置き換え、(それが通常の意味とはかなり異なるにしても)「理解」に近づくことができる――かような認識に立つとき、そこで前景化されることになるのが〈身体〉であることは必然でしょう。一連のパフォーマンスは、現象を理解するために「身体がそう受け取る限りにおいての現象」に置き換えることであるわけですから。しかしその一方で、今回の「アプローチ2[石油]」展においては、パフォーマンスのもととなる石油の地質学的な生成過程が数億~数十億年にわたるプロセスであり、それをたった10分前後のパフォーマンスにしてしまうことで、これまでの同系統の作品のような、現象をモジュールとプロセスの複合体=複合的なイメージの集合体に置き換える手つきの妙を見せること以上に、空間的・時間的な超圧縮も見せるという要素が前面に押し出されており、そのことによって人間的・身体的なスケール感をもどこかで突き抜けたものとして提示されているわけで、単純に現象を身体的な実感に縮減することとも異なるモーメントを――迎女史の意図に反してでも――見出すことが重要なのかもしれません。そう言えば迎女史は、80年代~90年代初頭に、彫刻を「物質」から「身体がそう受け取る限りでのイメージ」の美術と置き換え、その意味拡張を敢行することで日本の現代美術において特異な存在となった中原浩大(1961~)氏のゼミで学んでいたのでした。

広告を非表示にする