麥生田兵吾「Artificial S1 眠りは地平に落ちて地平」展

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 Gallery PARCで4.15~5.1の日程で開催されていた麥生田兵吾「Artificial S1 眠りは地平に落ちて地平」展。京都市内各所で毎年4月から5月にかけて同時多発的に開催されている写真展「Kyoto Graphie」のサテライト展といった位置づけの「KG+」の参加企画。Gallery PARCはここ数年この時期に麥生田氏の個展を開催し続けており、同ギャラリーの年中行事といった趣すらありますが、一人の写真家を個展という形で定点観測していくというのは、Kyoto Graphie・KG+を通じて他に例を見ないものとなっており、個人的にはどうも積極的に見に行く気にならない展覧会が多いKyoto Graphieの中にあって、かような試みは注目すべきものがあると言えるでしょう。

 

 2010年頃から自身のブログ「pile of photographys」( http://hyogom.com/pilephotos/ )上で毎日写真を掲載し続けている麥生田氏。これまでのGallery PARCでの個展では、そこにアップロードされた中から選ばれた写真を「Artificial S」という総題のもとに展示するという形で構成されてましたが、今回はその継続となるようなストレートフォト系の写真作品もある一方、管見の限りでは初見のコラージュ作品が何点か出展されていました(画像参照)。個人的にはコラージュ作品を最初に瞥見したとき、作風を根本的に変えようとしているのだろうかと軽く訝るところもないではなかったのですが、作品に向き合っているうちに作風の変更どころか「Artificial S」路線のこれまでとは別方向からの深化であることが感得され、麥生田氏の写真がクリティカルな強度を持っていることを別の角度から改めて認識する良い機会となりました。

 

 かかるクリティカルな強度は、このコラージュ作品のタイトルが《写真》であるというところに、きわめて如実に現われている。美術評論家の清水穰氏はどこかで、麥生田氏の写真作品について(意味やメッセージ性を乏しくした)引き算の論理によって構築された写真であると評していましたが、もちろんそれは氏をdisって言っているわけではなく、ともするとストレートな報道写真のような被写体自体のメッセージ性や、最近のメディウム/メディア論を導入した「画像」としての写真によく見られるような被写体どうしの――主にフォルムにおける――隠喩/換喩的な関係性が作品の価値判断の基準となることが自明視されている中において、それらが往々にして排除してしまう〈写真〉の位相を改めて俎上に乗せようとして戦略的に作られた乏しさであると考えられます。まさにArtificial。実際、《写真》においては、コラージュされた各要素は互いの意味的な連関や、それらが別のイメージを換喩的に指示したり生産したりするという(俗流シュルレアリスムが期待するような)機能が巧みに脱臼させられた形で配置されており、そのことによって関係性も無関係性もないという状態がコラージュという形で逆説的に露呈しているわけで。そのような状態こそが〈写真〉の位相にほかならない。

 

 最近の写真展の中では、先だって京都精華大学内のグループ展で見た迫鉄平氏の映像作品や写真作品と並んで、きわめてクリティカルな展覧会だったと言えるでしょう。