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「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展


Galerie Aube

 ここ数年、海外での「具体」や「もの派」の人気もあって、戦後日本の美術の動向が回顧される機会がとみに増えてきているが、そんな中でも、(「もの派」がムーヴメントとして一段落したとされる)1970年代後半から、(村上隆氏や奈良美智氏が注目を集めはじめる)90年代半ば頃にかけての時期は、それ以前や以後に較べて回顧や検証の機会がかなり少なく、また言及されるにしてもきわめて通り一遍に済まされるばかりという意味でも、一種のエアポケットと化している感がある。9月26日〜10月19日の日程で、京都造形芸術大学内のギャラリースペースであるギャルリ・オーブで開催されている「無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」展は、このエアポケット状態の80年代に、とりわけ関西を本拠地として活動している/いた一群の作家たちの仕事を彫刻、立体、インスタレーションに絞って焦点を当てる試みである。

◯今回の出展作家
上前智祐(1920〜)、福岡道雄(1936〜)、殿敷侃(1942〜92)、宮﨑豊治(1946〜)、椎原保(1952〜)、笹岡敬(1956〜)、八木正(1956〜83)

 《「80年代」は「ポストモダニズム」の時代であったと言われる。そこでは、インスタレーションの氾濫と彫刻の復権が同時に語られ、物語が、イメージが、ニューウェーブが席巻する「七〇年代から八〇年代へのドラスティックな転換」があったとされる》(同展キュレーターの長谷川新氏によるステイトメント「無人島にて――「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション」より)――近年、その機会自体がまだまだ少ないにしても、ことに関西では80年代の現代美術界の状況について語られる際には、上で言及されているような諸キーワード(「インスタレーション」「物語」「イメージ」「ニューウェーブ」)が特権的に語られることが多いが、二人の物故者を含み、最も若い笹岡敬氏でも60歳近いという今回の出展作家のラインナップは、それだけで既にかかる「80年代」の状況論に対する批評として意図され、また機能していると言えるだろう。例えば出展作家中最年長の上前智祐氏はこの頃には(自身創立当初からのメンバーだった)具体美術協会も解散して久しかったし、福岡道雄氏は60年代にバルーン型オブジェによって注目を浴びてこの時期には高名な存在であったし、あるいは笹岡氏は1977年に「狂転体」というグループを結成して既に活動を開始していた。いずれにせよ、1960年前後に生まれて80年代初頭に美大生であり、ほどなくして作家としてデビューしていく世代――彼ら/彼女らは後年「関西ニューウェーブ」と呼ばれ、80年代の関西の現代美術界について語られる際に特権的な繋留点として参照されることになるだろう――に先行する様々な世代のこの時期の仕事から「80年代」を見直すことが、この展覧会では意図されているのである。

 彫刻というジャンルに関して、この時期の史的展開をごく簡単に素描しておくと、1980年代は、それ以前からの「もの派」の影響圏の内部で、しかし「立体」(この言葉が初めて使われたのは1969年の第9回日本現代美術展からだそうだ)や「インスタレーション」(『美術手帖』誌でこの言葉が初めて使われたのは1979年4月号とされている)という言葉が流入したことで、70年代における、「禁欲的」「主知的」etcと雑駁に言われるような諸動向から、真逆の「快楽的」「感覚的」とこれまた雑駁に言われるような諸動向へと現代美術のモードが転換していった時代とされることが多い――上述の「関西ニューウェーブ」は、まさにそのようなムーヴメントとして記述される――のだが、この展覧会が真っ先に検証しようとしているのは、そのような史観/物語である。建畠晢氏はこの頃の、「インスタレーションの氾濫と彫刻の復権が同時に語られ」ていた動向から一線を画した一群の作家(福岡道雄氏や宮﨑豊治氏もそこに含まれる)に対し、当時既に高名だった村岡三郎(1928~2013)を繋留点として「ムラオカ・スクール」と名づけた上で、彼らを「“前衛”を“異端”と読みかえることによって時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めた作家」(建畠晢「私信・Kへ 政治としての異端」(1987))として評価したが、氏が言うような明示的なエコールとして「ムラオカ・スクール」が存在していたかどうかはともかくとしても、今回の出展作家たちが「時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めた作家」ことは、その出展作を見れば一見即解であろう。「無人島」とは言い得て妙。

 ――このように、「関西ニューウェーブ」を特権化する史観/物語に対して、「時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めた作家」たちの作品を対置することでその相対化が図られている感があるこの展覧会だが、しかし一方でより仔細に見てみると、彼らが単に孤立していたわけではなく、時代の状況や問題意識と(否定的な形にせよ)関係を取り結ばれた場所で活動を展開していたことが同時に感得されるのも、また事実であろう。確かに、今日の視点から見て、70年代から80年代への移行は、彼らがその十年前に遭遇した60年代から70年代へのそれに比してもより深い断絶と転換をともなっているように見えるのだが、そうであるからこそ、60年代から70年代への転換の結果もたらされた状況と突き合わせることで、その仕事をより立体的に見ることができるわけで。ことにそれは出展作家のうちの何人かが、この時期に作風をガラッと変えていることからも、容易に見て取れるだろう。

 出展作に即して、いくつか例をあげておく。具体創立時のメンバーであった上前智祐氏は、具体解散後、「縫う」という行為に方法論を集中させることで平面と立体とを両睨みにするような視座を確保し、その考察はこの時期《縫立体》に結実する。あるいは福岡道雄氏は、それまでの抽象的なオブジェから、日常風景や物語的な情景をジオラマ的に(?)作っていくという作品をこの時期に展開していく(今回はその中でも大型の《波・または》が出展されている)。笹岡敬氏は「狂転体」でのパフォーマンス中心の活動から、大掛かりな装置を作って水と熱の循環システムを作るという、現在に至る仕事をこの時期に始める。そして殿敷侃は、それまでの銅版画やシルクスクリーンによる平面作品から、廃物を大量に使い、主に野外で展開されるインスタレーションへと作風を大胆に変更してしまう(今回は変更前の銅版画と変更後の野外インスタレーションの記録写真が並列して展示されている)。

 ――いくつか例をあげてみたが、彼らのこういった作風の変容は任意に行なわれたのではなく、70年代から80年代への、――禁欲的・主知的な動向から快楽的・感覚的な動向への――転換とシンクロする形でなされており、しかも彼らは結局ニューペインティング(およびその付帯現象としての「彫刻の復権」)に結局加担することはなかったわけで、いきおい彼らの活動は60年代から70年代への転換においてもたらされた「もの派」の影響圏の〈内部〉に、上述の転換をいかに導入するかという問題意識に駆動されたものであると見ることができるかもしれない。従って、ここで「もの派」~「ポストもの派」というムーヴメントとの対質において、彼らの仕事を見ていくことが、重要になってくるだろう。それは例えば、東京で精力的に活動していた戸谷成雄氏や遠藤利克氏の70年代後半から80年代の仕事とも部分的にせよリンクするのではないか。同時期の戸谷氏と遠藤氏の仕事について、森啓輔氏は次のように述べている。

 70年代後半の彫刻の布置、それはミニマル・アートやアースワーク、またもの派の形態的模倣として、その非生産的な再生産に意味を見出すことではない。また、80年代の欧米からのニュー・ペインティングの動向の影響を受けた絵画と軌を一ににして保守化していく彫刻の移行期と位置づけることでもない。遠藤と戸谷は80年代の旺盛な活動から、もの派を批判的に継承し、「神話的物語性」(東野芳明)、「記憶や象徴性の重視」(峯村敏明)を特徴とする彫刻家として、「ポストもの派」と呼ばれてきた。確かに、彼らの実践はイメージの批判による行為の無名性と、関係性の作品への構造化という点で、70年代から80年代への繋留の可能性を担っていた。しかし一方で、関係性の構造化に際しては、作家と対象との接触面を局所化することで、きわめて限定的な界面を創出し、その界面を意味論的(遠藤)、あるいは存在論的(戸谷)に複数化していった。戸谷の《 》で括るという意味論的な限定は、やがて80年代に凝集する形態を持ち、拡散していく様式から彫刻の存在を自らの内部に保とうとする意志が垣間みえる。84年を始点とする戸谷の「森」とは、その錯乱を一つの形態に許容する界面の集合体を意味し、78年を起点として遠藤が用いた火や水、木による円環構造は、局所的に揺らぐ水面を端緒としていた。行為の無名性がもたらした作家と素材の局所的界面の生成、「出会い」を制作過程において再演していくことで、不可避的に累積されていく複数の関係性。(森啓輔「切断される再演――「以後」としての1978年の彫刻」(『引込線2013 works&essays』所収 引込線実行委員会、2013))

 もちろん今回の出展作家たちの仕事を同時期の戸谷氏や遠藤氏のそれと完全に同一視することはできないのだが、「イメージの批判による行為の無名性と、関係性の作品への構造化という点で、70年代から80年代への繋留の可能性を担っていた」点に関しては明らかに共有している。ただ、戸谷氏と遠藤氏が「関係性の作品への構造化」というモーメントを、「作家と対象との接触面を局所化することで、きわめて限定的な界面を創出」することで生成しようとしたのに対し、今回の出展作家たちはそれぞれの問題意識と流儀で、60年代から70年代への転換において表面化した「物質から「物質の状態」への関心の移行」((C)中原佑介)というところから出発することと置き換えた上で、「(物質を直接的に扱う)作家」と「物質の状態」を同時に生成する〈身体〉の全面的な生成によって行なおうとしていたところに違いが存在する。

 〈身体〉は、今回の出展作では、例えば宮﨑豊治氏の《身辺モデル on a slanting surface》において直接的に主題として扱われているし、あるいは一見すると身体性から最もかけ離れているように見える笹岡氏の作品にすら逆説的な形で露呈しているのだが、かかる観点から見たとき、個人的に非常に興味深かったのは、いちばん奥の部屋に展示されていた――書き忘れていたが、展覧会は三つの部屋に別れており、入り口最初の部屋には宮﨑、福岡、笹岡各氏の作品が、次の部屋には上前氏と殿敷の作品が置かれているのだ――八木正と椎原保氏の作品である。八木は70年代末から制作活動を始め、「関西ニューウェーブ」の動きが本格化する直前/直後に急逝してしまうがために、70年代から80年代への転換それ自体を生きた存在としてこの展覧会の目玉となっている様子だが、実際、作品に接してみると、木を素材として用いて最低限の組み合わせでフラットな面を強調した作品を作っていくという作風は「(ポスト)もの派」の影響圏の内部を彷彿とさせ、一方で着彩が(最初は部分的に、後に全面的に)施された晩年の作品からは「関西ニューウェーブ」への繋留点を見出すことはさほど困難ではないだろう。いずれにしても、素材と環境との界面にフォーカスを当てたその作風からは、「作家と対象との接触面を局所化することで、きわめて限定的な界面を創出」するという同時期の戸谷氏や遠藤氏の仕事との類縁性が認められつつも、しかしその作品のベクトルが――八木自身がgalerie 16での個展に際して《私が聞くのは、対位法としての構図をこえたところでの、生な音なのである。私の作業は、その音を凍らせることであり、素材を、もののからだとして、とらえることである》(「京都・他 展覧会案内 八木正個展」(『美術手帖』1981年11月号所収)に寄せられた八木自身の文、強調引用者)と書いていることからもわかるように――素材の身体性(「もののからだ」)およびそれを扱う主体(の非主体性)に向かっていることからも見えてくるように、〈身体〉の全面的な生成に向かっている。

 一方、椎原氏のインスタレーション作品は、鉄線を熔接して組み合わせた構造物の上に石を乗せた大小様々なオブジェを展示空間じゅうのあちこちに作っていくというもの。氏は80年代にこのような作品を制作し続け、今回は9月30日までの間に公開制作という形で(再)制作されたのだが、実際に接してみると、鉄線によって線的な要素が極限まで強調された構造が単純にカッコいい(人によっては近未来感すら感じるかもしれない)し、このような作品を既に80年代に作っていたという事実に呆然とすることしかもはやできない代物だったわけで。とは言え、かような見かけのカッコよさ以上に、このような作品を作ること自体が自分自身の感覚と周囲の環境、鉄や石といった物質との不断の折衝であることに、ここでは注目すべきかもしれない。八木が「面」にこだわることで逆に素材の身体性へとフォーカスしていったのと対照的に、椎原氏は線的な感覚をもって、環境に対峙する身体性を創出している。

 ――こうして、ニューペインティング的な見かけを取ることなく、〈身体〉を項として改めて嵌入することで、質料/記憶/イメージetcを救い出すという点において、彼ら(もちろん八木や椎原氏に限った話ではない)は「(ポスト)もの派」の影響圏の内部に、「快楽的」「感覚的」なモーメントを接合しようとしていたのかもしれない。時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めているように見える彼らの作品もまた、現代美術のモード転換と(逆立的にせよ)取り結ばれていたことが、ここで明らかになるだろう。従来対立的に捉えられることの多かった二つのムーヴメントを重ね合わせることで、「80年代」の現代美術における新しい層――いや、ここは展覧会タイトルに倣って「無人島」とすべきか――を発見させることを促しているという点において、出展作品のオーソドックスな佇まいに反して、むしろアクチュアリティをこそ見出すことが必要である。そのようなことを考えさせられた次第。