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2013年 当方的展覧会ベスト10+2(後編)

 続いて、後編です。



・「であ、しゅとぅるむ」展(1.9〜20 名古屋市民ギャラリー矢田)
※出展作家:あいちはぶ(池田健太郎辻恵、文谷有佳里、もぐこん) 泉太郎 伊藤存 ジェイ・チュン&キュウ・タケキ・マエダ 小林耕平×山形育弘×伊藤亜紗 坂本夏子+鋤柄ふくみ 二艘木洋行お絵かき掲示板展 山本悠とZINE OFF(鎖国探偵、だつお、長島明夫、福士千裕、福永里奈、寶樂圭、三輪彩子、森篤士、sukechan、tutoa、qp、etc.) 優等生(梅津庸一、大野智史、千葉正也、福永大介) KOURYOU qpとべつの星(會本久美子、川島莉枝、田中佐季、佐藤紀子、ナカノヨーコ、ナガバサヨ、はまぐちさくらこ、はやしはなこ、前田ひさえ、森田晶子)
 名古屋市が毎年開催している「ファン・デ・ナゴヤ」の今年の企画展のひとつとして開催されたこの展覧会。「美術に属する表現と大衆文化に属する表現が一堂に会することで、2000年以降の日本における多様な創作活動の縮図を示す」(ウェブサイト(http://dersturm.net/#about)より)と宣言されていた通り、画家やイラストレーターのみならず、同人作家やお絵かき掲示板の常連(?)投稿者、果ては(泉太郎氏と同姓同名ということで氏本人から出展を依頼された)日曜写真家まで投入されており、出展作家の雑多ぶりとしては、ここ数年例のないものとなっていたわけで。で、そういった人々が(伊藤存氏とKOURYOUを除いて)「あいちはぶ」や「優等生」「qpとべつの星」といった謎ユニットのメンバーとなって作品を出展していたわけだから、これはもう。

 かかる雑多さの累乗状態は作家の固有(名)性を剥ぎ取るような行為――それは誰一人として固有の領域を与えられていない状態で、他人の作品を視界に入れないと見られないようになされた展示によって、さらに増幅される――によってもたらされたものであり、その意味で、この展覧会において示すことが企図された「2000年以降の日本における多様な創作活動の縮図」とは、多様な創作活動の即自的な反映ではなく、それ自体が暴力的な行為の結果もたらされたものであることに、ここで十分注意しておく必要があるだろう。まさに「der Sturm(暴風)」に偽りなし。「大衆文化に属する表現」に対して、素朴な反映論やクロスオーバーとは違った態度をここまでのテンションで大規模に貫いてみせたことは、普通に買い。



・伊東宣明「芸術家」展(5.21〜6.2 Antenna Media)
 関西を中心に、主に映像作品を手がけている伊東宣明(1981〜)氏。この「芸術家」展では、古今東西の芸術にまつわるアフォリズムをまとめた「芸術家十則」を伊東氏が自作し、それを自身もアーティストである岡本リサ女史に一分以内に早口で暗誦させるという、何だか外食産業の新入社員研修みたいな行為の一部始終がドキュメントされた一時間ほどの映像作品が出展されていた。自分自身が被写体/被験者となって作られてきたこれまでの氏の映像作品と比べても――内容のえげつなさを含めて――不穏な気配に満ちた作品となっており、その意味では氏の作品の中でも際立ったものとなっていたと言えよう。

 かように、内容的なキャッチーさが関西の美術界隈では話題となっていたフシのあるこの「芸術家」展だが、伊東氏の作品にそれなりに接してきた目からすると、氏の作品に頻出する「「行為」と「存在論的フレームワーク」の乖離や壊乱」が主題となっているのが一見して分かるように作られていたことに注目しておく必要があるだろう。この作品の場合、芸術と芸術家との間に往々にして問われる「芸術が先か芸術家が先か」という問いに対して「これを正しく暗誦することができたら芸術家である」という形で芸術(という行為)に対する定義なしに芸術家の存在を定義してしまうわけで、ここにおいてもやはり行為(芸術)と存在論的フレームワーク(芸術家)との関係が壊れてしまっていることが主題になっている。そのような考察の一貫性を含めて見るべき良展覧会。



小田島等「1987+My Osaka is」展(5.10〜6.2 中之島デザインミュージアムde sign de)
近年大阪に拠点を移して活動を続けているというイラストレーターの小田島等(1972〜)氏が中学・高校時代にやっていた雑誌広告の模写やコラージュを集めた「1987」と大阪で見つけた光景を写真に収めた「My Osaka is」の二つの要素からなっていたこの展覧会。個人的にはやはり前者の「1987」が興味深かった。80年代において開花したポップなイラスト文化に憧れていた自分自身をここまで見せるあたり、『1980年代のポップ・イラストレーション』の著者の面目躍如と言うべきであろう。

 その一方、「1987」というタイトルによって、単なる個人的な回想にとどまらない広がりを持っていたことにも注目しなければならない。近年、主に中ザワヒデキ氏らによって80年代前半の美術界における日本グラフィック展の重要性が唱えられているが、実際80年代には絵画とイラストレーションとの、単なるクロスオーバーにとどまらない表現上の交錯が――欧米における〈ニューペインティング〉の日本への導入に合わせて――様々に試されていたわけで、そういうムーヴメントの象徴としてあるのが、ひょっとしたら1987年という年号なのかもしれない。「絵画として〈キャラクター〉を描くこと」が当たり前となった感のある現在において、この時期の絵画/イラストレーションの相関・相剋関係に立ち返ることはそれ自体アクチュアリティがあり、見る側をそこに立ち返らせようとしているところに、この展覧会の意義深さがある。



・「SLASH / 09 −回路の折り方を しかし、あとで突然、わかる道順を−」展(6.7〜7.22 the three konohana)
※出展作家:小林礼佳 斎藤玲児 藤田道子/結城加代子(キュレーター)
 インディペンデント・キュレーターの山中俊広氏が今年西九条に構えた新スペースthe three konohana(http://thethree.net/)はオープン以来エッジの効いた作家チョイスと運営方針とで、大阪の現代美術界隈において早くも独特の位置を占めつつあるが、そんな同所で個展と並んで大きな位置を占めるのが外部キュレーターによるグループ展「Director’s Eye」であり、その第一弾として企画されたのがこの展覧会。主に東京で好企画をキュレーションしている結城加代子女史の展覧会が関西で初めて見られるということで、個人的には期待しきりだったのだが、三人の美術作家のインスタレーションを混在させ、しかもそこに有機的な関係性を持たせるようにしつらえる手腕の高さに唸るばかりだった次第。無意味な要素がひとつもないという点において、意味の配置よりもその並存状態に重きを置く関係性(心理学で〈自由基free-radical〉と呼ばれるような)が指向されていたことは、普通に買い。

 この点において、個々の作家や作品をピックアップするというアプローチが賢明な態度ではないことを前置きしつつも、個人的には小林礼佳女史の作品が好印象。ヘルメットやビニールシート、ランプといった防災グッズに自作の詩が活字によってプリントされているという彼女の作品は、モノに対する感度とともに記号や象徴秩序への感度をも見る側に要請するものとなっており、意味の並存状況をさらに増幅させることに一役買っていたわけで。後で述べる「ハルトシュラ mental sketch modified」展と並んで、関西におけるインスタレーションの展示としては、そのモード転換を促すようなものとなっていたと言えよう。



・末永史尚「目の端」展(10.24〜11.9 switch point
 今年はVOCA展や引込線2013、「Safety Place」展(9.14〜10.12 TALION\GALLERY)といったグループ展で末永氏の作品に接する機会が割とあったのだが、管見の限りで氏の本領が十全に発揮されていたのは、やはりこの個展をおいて他になかったわけで。ピカソマティス光琳などの絵の一部分だけをモティーフとした絵画や、木材に塗装して名刺の束や段ボール箱のように見せる立体作品など、ありふれているがゆえに視界内における志向作用から往々にして消えてしまうものに焦点を当てた作品が多かったわけで、その意味で「目の端」とは言い得て妙である。

 一方、末永氏の面目躍如だったのは、バーネット・ニューマンを画像検索して得られた結果の画面をモティーフに描くという絵画作品。画像化された画家の作品を、画像とわかるように描くという入れ子状的なフレームワークで描かれたいたわけで、様々な角度から読み解きたくなるところ。かようなモティーフを描くことで、一口に出展作の良さを言うにも、元ネタの絵が良いのか、画像化されたから良いのか、末永氏の画力が良いのか、という少なくとも三つのレベルが混在することになるわけで、その中で見ること/判断することの規準が分裂することになる。そういう方向に見る側を使嗾している点は、きわめてポイント高。