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「ハルトシュラ mental sketch modified」展

 難波にあるCASで開催中の「ハルトシュラ mental sketch modified」展(http://cas.or.jp/2013/JandK/index.html)。韓国人のジミン・チョン(Jimin Chun)女史と、主に関東で制作活動をしている川村元紀氏の二人展で、長谷川新氏がキュレーションを行なっている。当方、川村氏と長谷川氏とは以前から知己を得ており、とりわけ長谷川氏からはこの展覧会のコンセプチュアルな構想や美術史的パースペクティヴについていろいろ話を伺ったことがあるだけに、それが形になったこの展覧会は、以前から個人的に注目していたもので。

 かかる私事はさておき、今回は二人のインスタレーション作品がそれぞれ数点ずつ出展されていた*1インスタレーションというと、広いスペースを存分に使った大がかりな作品が連想されるところだが(←偏見)、今回は展示スペースの都合もあってか、小〜中規模のものが中心。ことに一つの展示スペースを双方のインスタレーションがシェアしている場所もあったわけで、その意味ではインスタレーションといっても、大仕掛けを見るというよりは、所与の空間内における様々なモノの設置や佇まいの妙を見るべき展覧会となっていると、さしあたっては言えるだろう。かつてインスタレーションという言葉が日本に導入された当初――長谷川氏によると、それは1970年代末だそうだが――「空間設置」や「仮設芸術」といった(今見てもこなれてない感全開な(そして実際、ほどなくして使われなくなっていく))訳語が充てられていたものだが、今回の出展作はそのような翻訳の綾として選ばれた言葉としての「設置」や「仮設」という性格を見る側に強く抱かせるものとなっていた次第。それは二人の出展作が日常品を多用していたことで、さらに増幅されていく。

 もっとも、「日常品を用いている」と一口に言っても、ジミン女史と川村氏とでは作品の表層的なありようにおいてほとんど真逆の志向性を有していることは同時に指摘しておく必要があるだろう。かいつまんで述べておくと、ジミン女史のインスタレーション作品は、どこかから持ち込んだ既製品のタペストリーを中心に壁一面に自作のドローイングや詩を描きこんだり、あるいは別室では壁面に「Life is not a dream」と貼り紙を貼ったりするなど、自身の内面性やメッセージを反映させた形で提示することに重点が置かれている一方、川村氏のインスタレーション作品は仮設の棚の上に雑多な日常品や生活雑貨――その多くはCASの近所にあるスーパーや百均などで調達されたそうだが――がそのまま並べられて棚からカラフルな糸が垂れ下がっていたり、ビニールテープで巨大なオブジェを作っていたりと、一見すると意味を取りにくい〈もの〉として提示することに重点が置かれているように、個人的には思うところ。《川村は自身の作品をかつて「日常から無意味へのルート検索」と名指した》*2そうだが、与えられた空間を自身の内面性によって染め上げていくことを(様々な詩的/私的言語(含ドローイング)を駆使して)志向するジミン女史とは対照的な志向性に貫かれていたわけで、ほよほよと見ていても、ことに双方のインスタレーションが一つの展示室をシェアしている空間においては、両氏の志向性の違いが割と見やすい形で露呈していたと言えるだろう。

 ――かような具合に、作品の表層的なありようと、そこにおいて表現されているインプリケーションのレヴェルにおいては一見すると対立をなしている両氏の作品なのだが、しかしその根底にある方法論のレヴェルにおいては、そのような見かけに反して、むしろ共通点を見出すことが重要かもしれない。インスタレーションというジャンルがその融通無碍さにおいて、あらゆる作品を(「(現代)美術」という枠組みすら超えて)単一の位相に還元してしまうことに対する脊髄反射的な反発はこれまでも手を変え品を変え論者を変えて繰り返されてきたものだが、そういった融通無碍さにもたれかかることによって見出されるような共通点ではなく、かかる手垢のついた議論の中で否定的に言及されるインスタレーションと別種のインスタレーションの可能性が、両氏の作品の方法論上の共通点において(たとえ間接的にせよ)立ち現われている――そのように考えることができるのではないか。

 その可能性の一端は(長谷川氏が名づけた)「ハルトシュラ mental sketch modified」という展覧会タイトルにおいて、既に雄弁に示されている。「ハルトシュラ」とは、言うまでもなく宮澤賢治(1896〜1933)の詩集『春と修羅』からきているのだが、この詩は「そのとほりの心象スケツチです」という詩句に典型的に現われているように、宮澤自身の心的なナマの記録であることが宣言されながら、その中盤において《正しくうつされた筈のこれらのことばがわづかその一点にも均しい明暗のうちに(あるいは修羅の十億年)すでにはやくもその組立や質を変じしかもわたくしも印刷者もそれを変らないとして感ずることは傾向としてはあり得ます》という一節に立ち至る/立ち至ってしまう。この認識上の反転を軸にしつつ、長谷川氏は次のように述べる。

 今写し取ったものが、生のまま写し取れたと思ったものが、がらりと変化しているにも関わらず、私たちはそれを変らないものとして感じているかもしれない。「そのとほりの心象風景mental sketch」は常に修正をよぎなくされるmodified。知覚し、認識したものは、すでに自分の頭のなかにあったぼんやりとしたイメージの糊にひっつくことで、イメージとしての「そのとほり」に絡め取られているかもしれない。それをただ無批判に「そのとほり」と言っているだけかもしれない。そのイメージの糊を、ものの側からはがしとることはできない。なぜなら、その糊は私たちの頭のなかだけではなく、ものの側にもついているからだ。もちろんそれをこうポジティブに言い換えることは可能だ。頭の中で考え方を変えるだけで、目の前にあるものを捉えなおすことができる、と。そしてものが持っている、当初作られた目的とは異なった在り方を見いだすこともできる、と。*3


 「正しくうつされた筈のこれらのことばがわづかその一点にも均しい明暗のうちにすでにはやくもその組立や質を変じ」ること、「「そのとほりの心象風景mental sketch」は常に修正をよぎなくされる」こと――こういった潜在的な可能性を導きの石として、「ものが持っている、当初作られた目的とは異なった在り方を見いだす」という志向性によって、この展覧会においてはジミン女史と川村氏の作品がキュレーションされているわけだが、ここから直ちに見出されるのは、両氏の作品が、結果的にせよ、インスタレーションというジャンルにとどまらず、諸物体の、空間における道具的な=当初作られた目的によって関係づけられた連関が外された状態において、なお諸物体がそれたりうるためのレッスンとして作られているということである。そしてかような態度によって、インスタレーションは、物体から〈もの〉をめぐる技芸へとその様相を変えることになるだろう。そして〈もの〉をめぐる技芸としてのインスタレーションでは「イメージとしての「そのとほり」」が、「すでに自分の頭のなかにあったぼんやりとしたイメージの糊」との対質において問題となってくる。

 こうして、〈もの〉をめぐる技芸としてのインスタレーションにおいては、物体というより「物体のイメージ」が問題となってくる。これはインスタレーションというジャンルが、総体として、物体の道具的な連関が外された状態を多かれ少なかれ志向し、思考-実践において表現していることにもかかわってくるのだが、そのような中で展開される(であろう)イメージ論とは、いったいどのようなものだろうか。言い換えるなら、物体の道具的な連関と密接にかかわることから独立したイメージとは、いったいどのようなものとして私たちの前に現われてくるのか――このことを考える上で示唆的なのが、田崎英明氏が展開するイメージ論である。

 イメージの不思議さはここにこそある。モンタージュによって、映画の中であるシーンがその前のシークエンスとのあいだでもつ関係、それは確かに力と力の関係ではあるのだけれど、力学的な関係ではないし、また、必ずしも物語的なつながりをもつわけでもない。パゾリーニなら「自由間接話法」と呼ぶような関係が、イメージの論理の基本にはある。


 社会の中の人間と人間の関係は、いわば力学的なものであって、一方が能動なら他方は受動である。これは対話であっても変わらない。一方が話しているとき、他方は聞かなければならない。ところがイメージ、とりわけ、映画の中に組み込まれることによって、作用する現在から切り離され、遂行的な力が中和されてしまったイメージは、力学的ではない力関係に入り込む。*4


 ――「イメージの不思議さ」を論ずるに当たって田崎氏が映画を範例に持ち出しているのは、きわめて重要であろう。映画の基礎をなすモンタージュにおいては、原理的には、一般的な関係性や時制とまったく無関係にシーンやカットをつなぐことができるわけだが、これは、言い換えるなら、観客はモンタージュによってつながったシーンやカット同士の関係を事後的にしか、それそのものとしてしか受容できないということである。映画においては能動/受動、原因→結果のような因果関係は中断され(「力学的ではない力関係」とは、そういうことである)、そのことによって、イメージは諸々の人間的な要素から引き剥がされて、それ自体として解放されることになるだろう*5。まさに「映画はイメージを想像力から解放した」*6のであり、そしてインスタレーションとは、この意味において、紛れもなく映画以後の技芸である。

 二人の――とりわけ自身の作品を「日常から無意味へのルート検索」と呼ぶ川村氏の――作品がインスタレーションというジャンルに対して鋭い批評性を発揮しているとすれば、それはかかる「イメージの不思議さ」を、それぞれのやり方で引き受けた上で物体を〈もの〉に変換するという、その志向性においてであろう。そのようなことを考えさせられた次第。 

*1:川村氏の出展作については、ここで見ることができる→ http://rob-art.tumblr.com/post/53284153474/motonori-kawamura-2013

*2:長谷川新「透明で幽霊で複合体なものに向けて―「ハルトシュラ mental sketch modified」―」

*3:長谷川、ibid.

*4:田崎英明『無能な者たちの共同体』(未來社、2007)、p213

*5:この解放されたイメージを、例えばドゥルーズは『シネマ』全二巻において(経験論的位相と超越論的位相を併せ持ったイメージとして)〈結晶イメージ〉という語で言い表わしている

*6:田崎、ibid. p211