当方的2012年展覧会ベスト10(前編)

 年末なので、当方が今年見に行った中から、個人的に良かった展覧会を現代美術限定で10+いくつか選んでみました(順不同)。

 今年は美術館での展覧会に気合の入ったものが多かった――少なくとも俺得な展覧会のほとんどが美術館でのものでした――のが特徴的だったと言えるでしょう。ここ数年貸画廊やコマーシャルギャラリーが担ってきた役割の一部が美術館に移ったと言うべきでしょうか。あと、それまでは個々の作家やギャラリスト、知識人たちの思い出話として語り継がれてきた近過去を改めて歴史的なパースペクティヴに置き直す系統の展覧会がモノグラフィ/アンソロジー問わず数多く開かれた(さらに言うと、当事者を招いてのトークショーも数多く開かれた)のが今年の大きな特徴でして、個人的には非常に勉強になった次第。内外ともに戦後史の大きな区切りを経験した後において、足下のインフラや身体的な蓄積を改めて問い直していく姿勢が、少なくとも管見の限りにおいて関東・関西問わず同時多発的に見られたわけで、主に見る側の課題として、かかる傾向からいかなる新しい動きが立ち上がってくるかを問い直していくことが今後ますます重要になってくるでしょう。

 以下、感想込みで↓



・中原浩大「コーチャンは、ゴギガ?」展(9/22〜11/4 伊丹市立美術館)
 名前と一部の作品(《海の絵》《レゴモンスター》《ナディア》……)が、本人の90年代半ば以降の寡作化もあいまって半ば伝説となり、その作品を通観する機会が意外となかった――2001年の豊田市美術館での回顧展くらいか――中原浩大氏。この展覧会ではそんな中原氏のドローイング作品に絞って、80年代から現在に至るまでを通観しており、それだけでもかなり貴重な機会となったわけで。出展されていたドローイングに対しては「社会的にも、教育的にも、試練や迫害のないまま」なされた「お絵かき」と氏が定義しているように、描かれた当時や現在のアクチュアルな状況との交叉をほとんど考慮しないままなされたものである――がゆえに、そこには多孔的/多幸的とも言えるイメージ群が乱舞していたのだが――ことが最大限強調されていたのだが、そのことによって、作者(や数年前に生まれたという娘の存在)を媒介とした絵画的な無意識の生成という方向性が際立っており、それは現在の一群の若手美術家の平面作品が目指している方向性と奇妙なほどシンクロしていたのもまた、事実と言えば事実であろう。

 かような観点から見たとき、個人的には《Night Art 夢の中でこの形を完成させなさい》というドローイング連作がなかなか興味深かった。岡山県の某小学校でのワークショップ用に作られたこの作品、未完成のドローイングを生徒全員に配り「ゆめのなかで、かたちをかんせいしよう」という形で行なわれたそうで、中原氏のドローイング作品が「夢」というものと(さらには「夢の政治学」((C)デリダ)というものと)かかわりを持っていることがこの連作では如実に示されている。このことを手がかりとしていろいろ考察していくべきことは多いのではないだろうか。



・「かげうつし 写映|遷移|伝染」展(11/3〜25 京都市立芸術大学堀川御池ギャラリー@KCUA)
※出展作家:加納俊輔 高橋耕平 松村有輝 水木塁 水野勝規/林田新(企画)
 「写し」「映し」「移し」などといった漢字を当てることができる「うつし」をキーワードに、写真や映像作品の分野で主に活躍している作家たちを集めたアンソロジー展といった趣だったこの展覧会。結果として写真や映像を(さらには絵画をも)横断する〈画像〉という新たな位相に写真や映像作品が入りつつあることをコンパクトにかつヴィヴィッドに示したものとなったように、個人的には思うところ。かような〈画像〉という位相の前面化という傾向を主題とすること自体は、昨年栃木県立美術館で開かれた「画像進化論」展や愛知県立美術館で自主企画展として開催された「イコノフォビア」展、この「かげうつし」展にも出展していた加納氏と高橋氏による「パズルと反芻」展(京都と東京で開催された)で既に行なわれていたのだが、その傾向をさらに一歩前に押し進めた意味で、〈画像〉をめぐるクリティカルな諸争点をめぐる現時点での総決算として、今後も繰り返し参照されるべき展覧会である。ところでカタログはいつ完成するんでしょうか<関係者の皆様



・「日本の70年代 1968-82」展(9/15〜11/11 埼玉県立近代美術館
 前述したように、今年は近過去を改めて歴史的なパースペクティヴのもとに再検討していくことを意図した展覧会が多かった――中でも最大のものは東京国立近代美術館で開催中の「美術にぶるっ! 第二部・実験場1950s」展であろう(当方は未見なのでアレなのだが)――が、タイトル通り1970年代にフォーカスしたこの展覧会では、美術に限らず様々な分野に思いっきり視野を広げてこの時代の(サブカルチュアや出版・広告文化も含めた)文化圏全体をカバーする勢いで取り上げられており、内容の濃さに圧倒されることしきりだった次第。ことに大阪万博のパヴィリオンの一つ“せんい館”の中で流されたという松本俊夫氏の映像作品《スペース・アコ》や、足立正生監督の映画『略称・連続射殺魔』全編が会場内で普通に流れていたのが個人的には俺得だった。カタログもコンパクトながら密度の濃い内容だったし。これで\1,300は明らかに安すぎる。

 ところでこの展覧会、70年代を(サブタイトルに現われているように)1968年から82年という、前後にやや広がりを持たせた時間的区切りの中で取り上げていることにも注目すべきであろう。1982年は、第一義的には会場の埼玉県立近代美術館の開館した年ということで特権的な年号として取り上げられていたのだが、現代美術界隈における「美術の極限化」((C)千葉成夫)が内閉と鬱屈に陥っていく中で別の動きが界隈の外側から現われてくる――それは現在の視点から「イラストレーションブーム」と呼ばれるようになるだろう――という二つの局面が交叉するのが1982年前後であったことを考慮に入れると、「68年革命」から始まって1982年で一区切りつけるという同展の史観は、もっと真剣に検討されて然るべき。



・「「記憶」をゆり動かす「いろ」」展(11/1〜11 旧川本邸(奈良県大和郡山市))
※出展作家:加賀城健 中島麦 岡本啓 前谷康太郎 野田万里子/山中俊広(キュレーター)
 昨年から10月下旬〜11月上旬の時期に奈良県各地で開催されている「なら 町家の芸術祭 HANARART」の一環として行なわれたこの展覧会。会場の旧川本邸は大正時代に遊郭として建てられ、現在は有志の手によって保存されているのだが、かかる来歴の特殊性ゆえに見る側に強い先入観を植え付けることにもなりかねないわけで、そこを会場に選んだ上に出展作を「いろ」=色彩の美的強度が前面に押し出された抽象作品に絞るという蛮勇に、個人的には驚かされた。結果として抽象作品でありながら会場固有の場所性とほどよく拮抗しつつも、見る側が作品を通して容易にそれへアクセスすることができるという幸福な関係が現出していたことは、この展覧会の特筆大書すべき美質であろう。ここにおいて「いろ」によって揺り動かされた「記憶」とは、誰かの固有な思い出ではなく、無人称の、したがって万人に開かれたアクセシブルな感覚の場の別名にほかならない――そのような場所を美術によって作ってみせるという野心的な試みとして回顧される必要があるだろう。でも次回以降この会場を使うキュレーター(HANARARTはキュレーター単位で企画が組まれるそうだ)にとってはハードルがバカ上がりしたのもまた、事実と言えば事実。



・「井田照一の版画」展(5/22〜6/24 京都国立近代美術館
 関西で長く活躍していた井田照一(1941〜2006)の60年代〜80年代の版画作品の多くが京都国立近代美術館に寄贈されたことを受けて開催されたのだが、個人的にはギャラリーなどで一点だけ見かけるという形でしか接したことのない作家だったので(爆)、まとめて見てみると作風の多様性に瞠目することしきり。「版画とは何か」という問題意識を決して手放すことなく、しかし一般的な意味での版画とはかけ離れた場所へ突き進んでいく過程を作品を通して追っていくドキュメンタリーとして興味深かった。版と転写された画面という関係性への探求に絞りつつ、そこから多形的に展開していく様に、版画がジャンルとしての隆盛をきわめていた時代の残照以上のものを見出す史的な想像力が求められているようにも見えるわけで(版画はその時代、芸術でも反芸術でもなかったという井田自身の認識は、今なおリテラルに再考される必要があるのかもしれない)。にしても京都国立近代美術館はこれで池田満寿夫と井田照一という当時のスター版画家の大コレクションを保有することになったわけで、それはなにげに大きいのではないか、
と。

(後編に続く)