公開研究会「市田良彦『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)をめぐって」

 京都大学にて4月21日に行われた「公開研究会「市田良彦『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書)をめぐって」」。京都大学人文科学研究所内の研究班「ヨーロッパ現代思想と政治」(http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~philo-politics/)の研究会活動の一環として、この研究班の班長である市田良彦氏が最近上梓した『革命論 マルチチュードの政治哲学序説』(平凡社新書、以下『革命論』と略)の公開合評会といった趣で開催されたもので、市田氏の他、研究班内からは小泉義之氏と王寺賢太氏(MC)、そしてスペシャルゲスト(?)として『スピノザの方法』(みすず書房)や『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)といった著書で知られる高崎経済大学准教授の國分功一郎氏がコメンテーターとして出席していた。会場には研究会メンバーのほか、浅田彰氏やスガ秀実氏の姿もあり、聴衆も濃いメンバーやなぁと思うことしきり。

 この『革命論』、そのタイトルから反射的に連想されるような(あるいは読者がなんとなく期待するような)トピック――「どうして革命は起こるのか」「誰がいかにして革命を起こすのか」というような――についての実践的・説明的な著書というわけではなく、「革命」と呼ばれる、諸々の政治-行政過程に回収されないばかりかその政治-行政過程そのものに対する例外状態として生起する事象について、それが「例外状態」であるということをギリギリまで放棄することなく思考し続けた一群の哲学者――同書の言葉で言い換えると「革命をその例外性に忠実に思考しようとした哲学」(同書p21)者たちについての著作であることはとりあえず押さえておく必要があるだろう。で、同書においてその一群の哲学者として取り上げられているのは、アルチュセールフーコーデリダドゥルーズ、ネグリ、アガンベンバディウ、ナンシー、ラクー=ラバルト、マトロン、ズーラビクヴィリetcといった面々であり、彼らが思索を展開していった「68年革命」以後のフランスの知的・政治的状況が適宜参照されながら素描されていくことになる、といった按配。当方は二月に京大で開催されたシンポジウム「人文研アカデミー 日本からみた68年5月」(そのときのことについてはこちら)で先行販売されていたのを購入して読了したのだが、内容的にはよく分かる部分・激しく同意できる部分となるほどさっぱりわからんな部分とがまだら状に混ざり合っている*1という奇妙な読後感だったわけで、そんな著書をめぐってどのような議論が展開されるのか、普通に気になることしきりだった次第。

 さておき、研究会は最初に市田氏から『革命論』への補足的なプレゼンテーションが行われ、そこから國分氏と小泉氏によるツッコミコメントと質疑応答を経て、出席していた研究会メンバーによる討論という形で進行していった。市田氏が発表したのは氏が『革命論』を書くに至った現実的な背景についての説明と、同書刊行後に載せられた菅孝行氏と檜垣立哉氏による書評記事*2への応答という形を取った補足説明だった。

 前者について。市田氏は長年フランスの左翼系理論誌『multitude』誌の編集委員を務めていたが、2008年に編集方針をめぐって編集委員間で分裂する事態となり、同誌を去った。それはこの年にリーマン・ショックをきっかけに起こった金融危機へのリアクションをめぐって、前から潜在的に存在していた理論的な対立――金融資本主義のグローバルリゼーションに対するAlter-Globalizationを構想する上で「国民国家」や「EU」をどう評価するかという問題をめぐって、それはなされた――が噴出し、もはや調停できないほどに鮮明になったからであるが、ここでの対立は金融危機とそれによる債務の増大に対して、能動的なデフォルト(債務不履行)路線を取るか、デフォルトを回避すべく国家によるニューディール路線を取るかという形で鮮明化したわけで。つまり、市田氏たちは現状の政治経済体制の中に存在しない(ことになっている)能動的なデフォルト路線を提唱し、それに対して国民国家をグローバリゼーション批判の根拠地にしようとする一派が反発する、という形でこの対立は噴出したのだった。言い換えるなら、市田氏たちが提示したのは、問題を発見し適切な政策によって解決に導くというサイクルでなされるポリティクス(政治-行政過程)に対し、そのサイクルからは決して導き出されない解答をもって事に当たろうという路線であったと言えるだろう。氏曰く、このあたりの経緯については迷ったあげく結局『革命論』の中に盛り込むことはできなかったとのこと。

 後者について。上にあげた哲学者たち(特にドゥルーズデリダバディウあたり)は、多かれ少なかれ〈出来事evennement〉という言葉をキーワードにして自らの思考を展開していったのだが、この〈出来事〉を軸にして考え直すことで、〈出来事〉の持つ革命的性格について何らかの知見を得ることができるのではないか。フランス現代思想的な文脈で言うと、構造主義は全てを構造によって説明することで〈出来事〉を自然主義化してしまい、結果として主体の関与する余地としての「政治」を消去してしまったし、ポスト構造主義は自己構成する主体の理論化を続けた結果〈出来事〉の異質性についての思考が等閑視されてしまうことになった。こうして構造主義は〈出来事〉の主体的性格を、ポスト構造主義は客体的性格を捉えそこねてしまったのだが、「革命」は〈出来事〉においてこの二つを一致させるものであり、またそれは特権的な主体が革命を起こすという唯物史観が崩壊した後において「革命」を主体と客体をつなぐものとしての〈出来事〉を生起させるものと見ることでもある。

 ――以上のような市田氏のプレゼンテーションを経て、國分氏と小泉氏のコメントが読み上げられたのだが、二人とも論点がなかなか錯綜しており、ことに小泉氏は『革命論』ばかりか國分氏の『暇と退屈の倫理学』や佐藤嘉幸氏の『新自由主義と権力』(人文書院、2009)、アガンベンの『例外状態』(未來社、2007)にまで言及した12ページにわたるレジュメを用意しながら結局ほとんど使っていないという具合だったわけで。それでも例えば國分氏が提起した、『革命論』において英語圏の仕事がほとんど現われてこない(序章におけるサンデルへの強烈なdisりと第1章におけるハンナ・アーレントへの言及くらいか)というツッコミや、スピノザ『国家論(政治論)』をめぐる近年の傾向に対する不満感の表明は、同書といかに交叉するかは別にして確かに有効な論点を提示していたように見えるし、小泉氏が『革命論』終章でフィーチャーされていたフーコーの「反牧人革命」に注目し執拗に市田氏に問うていたのも――確かに他の章に較べてあっさりとした記述だったから――同書のクリティカルな部分への問いかけとしてはなかなかいいところをついていたように、個人的には思うところ。

 その後、聴衆の側にいた研究会メンバー(に限ったわけではなかったのだが)による発言が続いたが、個々には興味深い発言が続くもののいささか散漫としつつあった中、立木康介氏が精神分析の知見からアルチュセールに、ことに彼が革命を「治療」という言葉で語ったことに言及すると、議論は一挙に「治療」をめぐる話に集約していったわけで。少し詳しく見てみよう。「治療」という言葉は『革命論』においても、次のような文章で紹介されている。

 一九六〇年代に「重層的決定」の概念の対象として客体化された「例外」は、そのときにはあくまで認識の対象であったが、八〇年代の「偶然性唯物論」では倫理的に物化され、対象化された。そこに善や悪の属性を付与することなく(付与しないことが倫理的である)、物象を扱うように臨むべき対象となった。とはいえ「革命」は人間社会の革命であり、その点にあくまで残る人間的性格を勘案すれば、後に見るように「治療」として扱うべきことがらになったと言ってもいい。悪しきところがあるから変えるのであるが、この変容作業には労働との本質的差異がない。これに対し、アガンベンにおいて「収容所」によって主体化された「例外」は、そのままで人間社会の本性になっている。本性とは変えられないから本性なのであり、したがってこの「治療」を拒むのだ。アイヒマンを死刑に処しても変わらない世界が「収容所」となった世界である。その世界はアイヒマンという例外を凡庸な人間の範例として持っている。つまり健康ならぬ健康を常態化している――怪物しかいないこの世界のどこに医者が見つかるというのだろう。それゆえ、そこはもはや「救済」を待つしかない世界、政治が「救済」として実行される世界なのである。「治療」か「救済」か。その違いがいかに大きいかを私たちはごく日常的な問題として知っているだろう。「救済」を得るためには、自ら「治療」してはならないのだ。宗教的であろうと人道的であろうと、「救済」はよそからの介入である。それに対し「治療」にあっては、たとえ「私」が治療対象であるときでも、「私」が治療主体とならねばならない。治療対象として現れる世界が、「私」を主体化するのだ。(p36-37)


 これがアルチュセール的な倫理だ。「革命」は「私たち」のものなどではない。「私たち」に倫理的に許されるのは、この例外を例外として単に認知したり、承認したり、さらには驚愕、畏怖、忌避したりすることなどではなく、言わば技術的アプローチの対象としてあえてそれに臨むことだけだ。「私たち」は「革命」の前に引き立てられるのである。君たちは「私」をどう扱うのか、どう「治療」するのかと問いただされるのである。そのような関係を、客体となった例外は哲学者に強いる。「私たち」を、例外を前にした哲学者にする。(略)哲学者としてこの革命をどう「治療」するのかと、客体になった例外は「私たち」に問うのだ。(p39)

 ――フロイトラカンについても一時期積極的に言及し、また自らも精神分析医にかかっていた(っぽい)アルチュセールにおいては「治療」という言葉は一般的な意味でのそれではありえないわけで、そのアルチュセールについて論じている上の市田氏の文章においても事情は同じである。ここでの「治療」は何かを治すこと、異常事態を常態に戻すことではなく、むしろ「言わば技術的アプローチの対象としてあえてそれに臨む」ための方法論として提示されている。立木氏は「治療」を症状への転移という精神分析的タームにおいて改めて捉え直している(「運命的な不幸をありふれた不幸に変えることが精神分析」)が、それは政治が一般的な意味での「治療」に終始している中にあって、きわめて重要な見解であると言えるだろう。

*1:ことに序章における、最近だとマイケル・サンデルのブームに見られるような「政治哲学」の隆盛に対する批判は個人的には激しく同意できたが、第3章におけるフランソワ・ズーラビクヴィリやアレクサンドル・マトロンによるスピノザドゥルーズ読解から「対抗-実現/反-実現」と「準原因」を導き出す理路はなるほどさっぱりわからん感が相当高いように、個人的には思うところ。

*2:菅孝行氏による書評は『図書新聞』4月21日号に、檜垣立哉氏による書評は『週刊読書人』4月20日号に掲載されている