「90's日本美術って何だったの!?――what was that!? レントゲン藝術研究所黎明期の日本の美術」展関連トーク

 馬喰町にあるラディウム・レントゲンヴェルケで9月1日に行なわれたトークショー「90's日本美術って何だったの!?──what was that!?  レントゲン藝術研究所黎明期の日本の美術」。同ギャラリーで開催されていたコレクション展(出展作家:中山ダイスケ、三上晴子、ヤノベケンジ、古井智、村上隆、津田佳紀、森村泰昌)の関連企画ということで、同ギャラリーのオーナー池内務(1964〜)氏と、現代美術家の中村ケンゴ(1969〜)氏が登壇していました。

 池内氏は1991年に大森東(東京都大田区)にレントゲン藝術研究所をオープンさせ、1995年の閉鎖までの間に多くの展覧会を開催した――特に1992年に椹木野衣氏のキュレーションで開催された「アノーマリー」展(出展作家:伊藤ガビン、中原浩大、村上隆ヤノベケンジ)は現在もなお語り草となっている――ことで知られています。ここで多くの若い美術家が個展やグループ展を行なっていたことから、1990年代前半の東京において(単なる一ギャラリーという以上に)現代美術シーンの震源地的な場所であったと現在でも回顧されることしきりなこのレントゲン藝術研究所ですが、この時期について当の池内氏が公に語ることは意外にもほとんどなかったそうで、それならばということで、当時美大生で同所に足繁く通っていたという中村ケンゴ氏がいろいろ訊ねてみようという形で企画されたとのこと。中村氏には眞島竜男氏、永瀬恭一氏、楠見清氏etc.との共著『20世紀末・日本の美術―それぞれの作家の視点から』(アートダイバー)がありますので、この時期についてのトークの聞き手としてうってつけの存在であると言えるでしょうが、今回のトークはその続きというか、同書で集中的に取り上げられ歴史化しようとしていた1990年代の日本現代美術におけるラスボス的存在とのセッションという性格を色濃く漂わせていたのでした。

 

 さておき、今回のトークは(モデレーターを務めたアートダイバー社長の細川英一氏いわく)何らかの形で近く公刊されるとのことなので、細かい内容についてはここでは最低限の記述にとどめておきますが、今回のために持ってきたという池内氏秘蔵の関連資料(図面や入口のデザイン画、契約書など)や三階にあったというレジデンススペースに村上氏が常駐していた話、「アノーマリー」展の裏話が披露されたりするなど、氏の旺盛なサービス精神によって、単なる過去回顧にとどまらない話が90分間怒涛のように続いたわけで、一介の現代美術史ヲタとしては俺得きわまりなかったです。一般論として、1990年代というのは、80年代における森村泰昌氏や中原浩大氏、石原友明氏、「超少女」(松井智恵女史、吉澤美香女史etc)らによる「関西ニューウェーブ」から、村上氏や中村政人氏、小沢剛氏らによる「東京ポップ」へとトレンドが大きく変化――それは日本現代美術の言説的なヘゲモニーが関西から東京に移ったことをも意味するだろう――していった時期に当たるという、(自身も「東京ポップ」の担い手の一人だった)中ザワヒデキ氏の所説に代表されるように、日本の現代美術において一つの画期・モードチェンジをなす時期であるとされるにもかかわらず、例えばZINEやミニコミ誌を含めたアートブックの出版点数自体が80年代やゼロ年代以降と較べて圧倒的に少ないなど、一次資料・史料の数自体が少ないこともあって、近過去にもかかわらず後から実証的に走査するにはなかなか難渋する時代でもある。だから例えば(このトークショーの数日前に広尾のカイカイキキギャラリーにおいて開催されたという日比野克彦氏とのトークにおいて)村上氏がポストもの派以降(氏自身が領導した)〈スーパーフラット〉までムーヴメントが存在しないという趣旨の発言をしていたり、椹木氏が1990年代前半の日本現代美術について語る際に通常の俯瞰的な叙述から逸脱することをあらかじめ宣言した上で語り始める(例:「「レントゲン藝術研究所」という時代 バブリーな開放感から、ニヒリズムの爆発へ」(『美術手帖』2005年7月号所収))という、その時代の当事者たちによる、良く言えば豊穣な思い出話、悪く言えば放埓なポジショントークが横行している現状があるわけで。ですから、90年代を多少なりとも客観的な歴史として改めて語り直す際に、上記のような端的な例に見られるような我有化に対して、当時きわめて重要な伴走者であったと衆目一致するギャラリストの回顧談という形で介入していくことが意図されていたわけです。実際、村上氏や椹木氏がこの時期について言いっぱなし状態であるという現状にはいろいろ思うところがあると、池内氏は語っていました。

 

 このように、今回のトークは、レントゲン藝術研究所を運営していたギャラリストと当時美大生だった現代美術家による「東京ポップ」再考という性格を色濃くにじませたものとなっていたわけですが、対談が進むにつれてクローズアップされていったのは、ギャラリストとしてこの動向を強力に推進した存在とされる池内氏と「東京ポップ」との関係が意外と微妙というか、そんなに単純なものではないということでした。レントゲン藝術研究所は3フロア190坪という、当時の日本現代美術界においては(ことによると現在においても)破天荒過ぎる場として唐突に登場したのですが、それによって池内氏と「東京ポップ」とが幸福な関係を取り結んでいたかというと、当時においても微妙な齟齬があったらしい。で、それは年を追うごとに加速度的に広がっていき、1995年の閉廊〜南青山への移転(この移転によって190坪から四畳半になったという(で、幾度の変転を経た現在、ラディウム・レントゲンヴェルケは24坪とのこと))に至る、と。

 では池内氏と「東京ポップ」との間にあった齟齬とは何だったのか――氏が第一にあげていたのは、「東京ポップ」が基本的にオフミュージアム志向だったということでした。実際、「東京ポップ」の主要な成果として今日回顧されるのは、当時街頭で行なわれたイベントやパフォーマンス、あるいはオルタナティヴスペースの設立と運営であることはよく知られています。小沢剛氏による《なすび画廊》や《地蔵建立プロジェクト》、スモールビレッジセンター(小沢剛村上隆、中村政人、中ザワヒデキ各氏によるユニット)による一連の「大阪ミキサー計画」、中山ダイスケ氏たちによる「スタジオ食堂」などがオフミュージアム志向の顕著な例としてあげられるでしょうが、それらが本質的に持っていた「オブジェとしての作品を「つくらない」」ことへ向かっていくベクトルが、骨董商の息子として生まれ――ちなみにレントゲン藝術研究所自体も父親の事業の一環という態で起こしたという(だから同所に東京美術倶楽部の人たちが大挙してやってきたこともあるそうで)――現在に至るまで造形物としての出来の良さや作りの細かさを第一義に作家や作品を選別している池内氏的には違和感しか覚えなかったらしい。で、そういうシーンへの違和感を伏線として、ある日収蔵庫(レントゲン藝術研究所は二階が収蔵庫になっていた)に置かれていた作品群がどこに何があるかわからなくなっていたことに気づいたことが決定打になって、閉鎖を決意したのだという。もちろん、他にも様々な要因があるのかもしれませんが、少なくとも池内氏の中では自身の身体感覚に直接やってきた違和感が契機になっているというのは、非常に徴候的ではあります――「東京ポップ」が持っていたかかる活動の非物質化/コンセプチュアル化と、池内氏が抱いた身体感覚からの遊離への嫌悪感とが、ここでは互いに鏡像関係を描いているからです。

 

 一方、中村ケンゴ氏は、池内氏が述べていく様々な思い出話を自身のアーティストデビューまでの軌跡と状況論に接続させつつ「歴史化」していっており、その手つきの良さに普通に勉強になりました。関西に住んでいると東京の動向についてはどうしても手薄になってしまうので(まして、先に述べたように資料・史料自体が少ないのだから、なおさらである)、これは普通にありがたかったです。とりわけ「東京ポップ」が敢行し、後に村上隆氏が〈スーパーフラット〉という形で理論化して押し出すことになる「「ポップカルチャーと現代美術」というカップリングを表現の根幹に据えること」を前時代の西武・セゾンカルチャーと切断した形で提示していたのにはハッとさせられることしきり。

笹川治子「リコレクション――ベニヤの魚」展

f:id:atashika_ymyh:20171231145344j:plain

f:id:atashika_ymyh:20171231145417j:plain

笹川治子《リコレクション─ベニヤの魚雷》(2015)

 Yoshimi Artsで8月25日から9月17日にかけて開催された笹川治子「リコレクション─ベニヤの魚」展。過去何回か同ギャラリーで個展をしたことがある笹川治子(1983~)女史ですが、今回は一昨年(2015年)に東京藝術大学で行なわれた博士号取得のための審査展での出展作を再構成した新作が出展されていました。東京藝術大学では個展と博士論文とをセットにして審査するそうですが、笹川女史はこの個展と、総力戦体制下におけるメディアや広告のありようについて調査研究した論文で臨み、無事パスして博士号を取得したとのことです。

 

vimeo.com

 

 以上のような経緯で大阪にやってきた今回の新作は、自身の祖父から聞いた戦争体験をもとにしてベニヤ板の端材によって作られた潜水艦っぽいオブジェを中心に、写真や映像も配する形で構成されたインスタレーションというものでした。彼女の祖父は戦時中陸軍の特攻隊員として木造の一人乗り潜水艦(「人が乗れる魚雷」と言った方がより正確でしょう)に乗る予定だったが、終戦を迎えたため結局出撃することはなかったそうで、そんな祖父の証言をもとにいろいろリサーチしたり、実際に任地を訪ねたりしてきた――ギャラリーの壁にはその際に撮影された風景写真が(上下逆に)貼られていた――中から生み出されたという。これまで笹川女史は戦争をテーマにした作品を数多く制作してきており、一昨年には博士審査展と並行して「戦争画STUDIES」展というグループ展(2015.12.9〜20、東京都美術館)を企画して記録集を出版するなど、自身の作家活動全般にわたる大きな柱となっておりますが、今回の「リコレクション――ベニヤの魚」では、肉親の証言をもとにしていたり現実の第二次世界大戦(太平洋戦争)にこれまで以上に綿密に取材したりするなど、彼女の作風を見慣れた者からしてもアプローチの仕方が少々変わっているように見えるわけで、その意味では彼女の作家活動全体においてひとつの画期をなしていると言っても、あながち揚言ではないでしょう。

 

 とは言え、作風の根幹となる部分は変わっておらず、むしろある面においてはより徹底化されていると考えられるのもまた、事実といえば事実です。ことにそれは制作において「戦争」というテーマを俎上に乗せる際の手つきにかかわって、重大である。

 

 先に触れたように、笹川女史は戦争をテーマにした作品をこれまで継続的に制作してきていますが、その際に、20世紀に確立し現代の戦争にも影響を与え続けている総力戦体制に焦点を絞った上で、サブカルチャーないしオタク文化的想像力に駆動された位相を挟み込んでいくというところに、彼女の独自性があります。しかもその挟み方がかなり独特で自由度が高い、という。近作に限っても、ニコ動にアップロードされたFPSのプレイ動画のキャプチャ画面のような油画や、(湾岸戦争時に「テレビゲームのような」と評された)ミサイルに搭載されたカメラからの映像をモティーフにした油画といった作品に、それは顕著である。かと思えば、ダンボールと端材で戦車を作ったり、ビニール袋を大量に用いてアニメによく出てきそうな巨大ロボットみたいなモノを作ったり、戦争画の代表作とされる藤田嗣治の《アッツ島玉砕》の寸法に美術館の壁を照らしたり、さらには(太平洋戦争時の激戦地であり日本軍が玉砕した地として知られる)アッツ島に赴いて現地の様子を記録したという態で実は利根川の河川敷をそれっぽく映した映像作品というのも手がけたりしているわけで、これらの作品に見られる自由度の高さには瞠目しきりではあります。とりわけ映像作品については、当方は「戦争画STUDIES」展で接したのですが、アッツ島って現在ここを領有しているアメリカの国民であっても特別な許可がないと上陸できないはずなのにとなかば訝りつつ見ていたら、最後に種明かしされるわけで、バラされた側は乾いた笑いを引き起こしてしまうことしか、もはやできないのでした。

 

 このように、ギャグや不謹慎すれすれの表現をも躊躇なく用いているようにすら見えてくる笹川女史の作品ですが、単なる露悪趣味のゆえにこういった表現を採用しているわけではもちろんない。ここで彼女が総力戦体制下における広告やメディア――そこには「戦争画」も含まれることになるだろう――について研究していたことを思い起こす必要があるでしょう。既に瞥見してきたように、彼女においてはメディアの研究と制作活動とがサブカルチャーないしオタク文化的想像力に駆動された位相を介して密接にリンクしているわけですが、ここから見えてくるのは、彼女は“現代の戦争はメディアによってスペクタクル化されている”という、今日においてはありきたりなものと化して久しい現状認識を徹底して字義通りに作品化しているということである。その結果、“現代の戦争はメディアによってスペクタクル化されている”という現状認識は、“メディアとスペクタクル(化された私たち)が戦争である”というテーゼへと超展開することになります。そこでは戦争をめぐる語り自体が既にスペクタクルの言語によって媒介されている、というか乗っ取られている。このようなメディア状況の中で、笹川女史の方法論は、戦争に対して「経験」や「記憶」を持ち出すことに代えてスペクタクルを持ち出し、もって私たちを戦争とを結びつける新たな回路を作り出そうするという理路を取っているわけです。それは同時に別種の資本(主義)批判をも要請することになる――「スペクタクルは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である」((C)ギー・ドゥボール

 

 かような迂回を経て「リコレクション――ベニヤの魚」展の出展作に戻りますと、上述したように、今回の出展作は笹川女子の祖父の証言をもとにしているのですが、しかしその証言は既に相当あやふやなものとなっており、そこから過去を再構成することが全く不可能というわけではないにしてもかなり難しいものとなっている《祖父は、最後まで特攻として出撃には呼ばれず、終戦間際に出撃し捕虜になったが釈放されたと言っている。70年前の記憶が部分的に薄れ、様々な情報が入り込んでいる可能性もあり、どこまで本当なのかを完全に照合することは難しい》(展覧会に際して鑑賞者に配布された小冊子より)。それは彼女の祖父が高齢者であるという要因もありますが、やはりそこには「様々な情報が入り込んでいる」=戦争をめぐる語り自体が既にスペクタクルの言語によって媒介されているということも無視できないでしょう。そこでは「経験」や「記憶」は当事者性を失い、スペクタクルの言語の一要素に還元されてしまっている。そのような「個人」という位相が――ということはつまり「経験」や「記憶」が、ということと同じなのですが――失効したところから考察と制作を初めているところに、笹川女史の慧眼が見出される。この展覧会が彼女の作家活動全体においてひとつの画期をなしているのは、このような点においてなのです。




加賀城健「〈Physical/Flat〉」展

f:id:atashika_ymyh:20171231144805j:plain

 いささか旧聞に属する話ですが、此花区にあるthe three konohanaで6月16日から8月6日にかけて開催されていた加賀城健「〈Physical/Flat〉」展。関西を拠点に染色作品を作り続けている加賀城健(1974〜)氏の、同ギャラリーでは三度目となる個展でした。

 

 1990年代から染色作品を作り続け、現代工芸の一分野としての現代染色において一定の評価を得て久しい加賀城氏。そんな氏を三たび取り上げるに際して、今回は過去二回とはうってかわって加賀城氏の約20年にわたるこれまでの制作の軌跡を(簡単にではあれ)振り返ることに主眼が置かれていました《本展では、これまでの加賀城の制作の展開を、2つの要素の着目から、考察していくことを目指します》(同展チラシより)。実際、会期前半(6.16〜7.9)では「〈Physical Side〉」ということで90年代からゼロ年代前半の作品が、後半(7.15〜8.6)では「〈Flat Side〉」ということでゼロ年代中頃から現在に至る作品がフィーチャーされていたわけで。さらに会期中に開催されていたART OSAKA(7.7〜9ホテルグランヴィア大阪)では、the three konohanaの出展スペースが加賀城氏の新作による個展形式「〈New Works-Extention〉」で構成されていたわけですから、夏の加賀城氏祭り状態であったと言っても、あながち揚言ではありますまい。

 

f:id:atashika_ymyh:20171231144823j:plain

加賀城健《Discharge──かみなりおこし》(2007)

 出展作に即してより具体的に見てみますと、〈Physical Side〉においては上述したように主に初期作品が中心となっていましたが、その時期においてなされていたのは、十数メートルにおよぶ布地の上に乗せられた大量の糊を力ずくで引きずり、脱色することで行為の軌跡・痕跡をそのまま見せるというものであった(画像参照)。ほかにも柔らかい布地を無理に引っ張った状態で染めたりするなど、この時期の作品においては、〈Physical〉にふさわしく、物理的な力や行為が主題になっていたと言えるでしょう。布地はここではそれそのものである以上に、力や行為の軌跡・痕跡がその上で展開される場としてある。この時期の作品に概してモノクロの作品が多いのも、そのような性格をさらに強めています。

 

 一方、ゼロ年代中頃から現在に至る〈Flat Side〉(及び新作による〈New Works-Extention〉)の出展作においては、〈Physical Side〉において等閑視されていた――あるいはもっと積極的に「抑圧されていた」と言った方が良いかもしれません――色彩が一転して全面化していました。一枚の布地を普通に様々な色で染めた作品に加えて、何枚かの布地を重ねた作品、シェイプドカンヴァスの発想をそのまま導入した作品など、見せ方が多様化しているのが一見して即解できたわけですが、それらが単に奇をてらったウケ狙いではなく、「布地」と「色彩」との関係性に対する考察を(特に絵画との対質において)多分に含んでいることに注目する必要があります。

 

f:id:atashika_ymyh:20171231144842j:plain

加賀城健《明るい地獄めぐり(連作・部分)》(2017)

 染色において「布地」は単なる画面(の基体)ではないのではないか――加賀城氏における染色への考察をドライブさせているのは、このような認識であると考えられます。言い換えるなら、「布地」を画面と同一視している限り、逆に「染めること」それ自体が抑圧されることになるだろう。絵画との対質を通して染色を考え直すという氏の態度には、染色というジャンル自体が「染めること」を排除しているということに対する危機感が存在する《染色をして作品発表する方々と話す機会があるとする。話の内容は決まってあの人は絵が描ける、描けない、という話に終始して、その絵がなぜ染色でなければならないのかの議論が少ない。私はこのことにずっと疑問を抱いてきた。染色家たるもの、その求める中心に染めることがあるべきだと考えるからだ》(加賀城健「創作をとおしての所感」)。

 

 で、「染めること」を改めて「求める中心」に据えたとき、それは「布地」に対する態度変更をも同時に迫ることになるはずです――染色は布地を文字通り染め上げる行為ですから、そこにおける色彩は絵画のように画面上に配置されるものとは違った位相に置かれる(というか、染め上げられる)ことになるからです。今回の展覧会に即しつついささか思弁的に言うと、〈Physical Side〉と〈Flat Side〉との間の最大の違いは、色彩の有無以上に、色彩を通した「布地」に対する認識の変容である。〈Physical Side〉の出展作において「布地」はその上で行為や物理的なベクトルの軌跡・痕跡が展開されるという点においてなお絵画的な「画面」の範疇を超えるものではなかったのですが、〈Flat Side〉の出展作においては「布地」は固有の物質性を持って「画面」とは違った形で色彩やフォルムを生かすものとして改めて立ち現われてくる。こうして「布地」や「色彩」に対する態度変更が「染めること」を染色というジャンルの「求める中心」に再び据えることになるだろう。今回の「〈Physical/Flat〉」展が染色と現代美術の双方に問いかけているのは、そのことにほかならないのです。





井上裕加里「堆積する空気」展

f:id:atashika_ymyh:20171231144112j:plain

井上裕加里「堆積する空気」展フライヤー

 Gallery PARCは毎年この時期に展覧会の企画案を公募し、入選した三つの企画展を連続して開催しておりますが、その第三弾として8.1〜13の日程で開催されていたのが井上裕加里「堆積する空気」展。日本の近現代史や――日韓・日中間の歴史認識問題や北朝鮮の核開発問題など、軋轢の絶えない――東アジア情勢を取り上げた作品をここ数年手がけ続けている井上裕加里(1991〜)女史の、およそ二年ぶりとなる個展です。

f:id:atashika_ymyh:20171231144141j:plain

井上裕加里《罪の意識》(2017)

 今回は新作《罪の意識》と旧作《Auld Lang Syne》という二点の映像作品を中心にした構成となっていました。前者は原爆ドームをバックに井上女史が二画面に分かれて向かい合う形で(画像参照)、当時エノラ・ゲイに搭乗していた米兵やマンハッタン計画の参加者といった原爆を開発して投下した側の証言と、被爆した少女たちの証言をそれぞれ(あたかも対話しているかのように)朗読するという作品。一方、後者は日本で「蛍の光」というタイトルで親しまれているスコットランド民謡「Auld Lang Syne」が、韓国や台湾では全く違った歌詞が当てられていることに想を得て、三ヶ国の人が同曲をそれぞれ歌っているのを三画面で同時再生しているという作品となっています。上述したように、井上女史は、以前からアジア太平洋戦争に取材したり現下の東アジア情勢をダイレクトに反映させつつひねりを加えた作品を作ってきていますが、今回もその部分においては一貫していると言えるでしょう。この展覧会の直前に――京都市で近々始まる東アジア文化都市2017の関連企画である――フェルトシュテルケ・インターナショナル( http://www.kac.or.jp/events/21603/ )に参加して中国や韓国をリサーチして回ってきたそうで、そのことも作品にフィードバックされているのだろうかと思いながら作品に接したのですが、日米間あるいは日韓台間において微妙なこわばりや空気感を醸成するトピックを取り上げることで、戦後において何が無意識的なレヴェルに追いやられていったのかを逆照射するものとなっていたと、さしあたっては言えるでしょう。「堆積する空気」という展覧会タイトルに偽りなし。

 

 かような井上女史の作品がいかなる政治や歴史認識に導かれ、またそれらを(再)起動しているかについては一度触れたことがありますので( http://atashika-ymyh.hatenablog.jp/entry/2016/06/30/000000 )、ここでは縷々繰り返しませんが、彼女が――最新作である《罪の意識》を含めて――主だった作品において今回のような複数の画面の映像を表現手段としていることは、表現と政治・歴史との対質において考える際に、きわめて示唆に富んでいると言わなければならないでしょう。ここには、単なる趣味・趣向の問題を超えた何かが存在する。

 

 「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」――これは夏目漱石が1905年から翌年にかけて書いた断片の一節です。後に柄谷行人氏がこの一節を何回か取り上げて論じたことで有名になりましたが、井上女史の映像作品において通奏低音となっているのは、この漱石の一節のような認識を導入しつつどうやって脱構築するかということであると考えられます。上述したように、《罪の意識》においては原爆を落とした側と落とされた側という相異なる(しかも極端に対立している)立場からの発言が井上女史の実演によって突き合わされているわけですが――今回に限らず、昨年の日韓交流展(於:京都嵯峨芸術大学)では韓国での反日デモと日本でのヘイトスピーチデモとが同じ方法で俎上に乗せられていました(危)――、そのように、自己の身体を介して、いわば肉体的な問題として「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という漱石の言葉を実演して見せているところに、井上女史のクリティカルな部分が存在する。



ところで、われわれは漱石が「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」と書いていることに注意すべきであろう。このとき、彼は人間と人間との関係を、どんな抽象(観念)的な媒介によってもみていないので、肉体的な空間(space)においてむき出しにされた裸形の関係としてみているのである。(略)漱石の小説に関して、「自己本位」(エゴイズム)や自意識の相克をみることは、これまでの一般的な見解である。だが、漱石は人間と人間の関係を意識と意識の関係としてみるよりも、まず互いが同じ空間を占めようとして占めることができないというような、なまなましい肉感として、いいかえれば存在論的な側面において感受していたのだ。(柄谷行人「意識と自然」)

 

 

 「人間と人間との関係を、どんな抽象(観念)的な媒介によってもみていないので、肉体的な空間(space)においてむき出しにされた裸形の関係としてみている」「人間と人間の関係を意識と意識の関係としてみるよりも、まず互いが同じ空間を占めようとして占めることができないというような、なまなましい肉感として、いいかえれば存在論的な側面において感受していた」――このような、(柄谷氏が注意を差し向ける)漱石の認識の一端を井上女史もまた共有し、複数の画面を用いた映像作品という形で「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」状況をリテラルに表現し提示することで逆照射していると考えられるわけですが、とはいえ、ここで言う「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」ことを、「二個の者」の単純な和解と捉えてはならないのもまた事実でしょう。それは「意識と意識の関係」のレヴェルでのことに過ぎないからである。井上女史が作品という形で招来させようとしている事態はあくまでも「意識と意識の関係」においてではなく、「なまなましい肉感」において堆積している。それを「意識と意識の関係」に置き換えている、あるいは置き換えられうるものとしている配置(dispositif)が問題とされるわけです。

 

 したがって、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」というのは、この配置の結果であり、「二個の者がsame spaceヲoccupyスル」状況(ホッブズなら「自然状態」というところかもしれない)という「なまなましい肉感」の位相に対して、それをどんな形にせよ解決しようという「意識と意識の関係」における当為のもとで発せられたものであると見る必要があります。それは、私たちの文脈に引きつけて言い換えるなら、私たちの現在を規定する戦後民主主義ないしそのバックボーンとされる平和主義がそのような解決ではなかったのかという懐疑のもとに井上女史の作品に接するということである。彼女がしばしば書きつける「答えは目の前にあり、見えていないのは問いである」というステイトメントは、この「なまなましい肉感」の位相において読まれる必要があります。「答えは目の前にあり、見えていないのは問いである」というステイトメントは、そのような解決が果たして解決であったのか、それは解決の名による(想像的な)解消ではないのかという彼女自身の認識の発露であると見なければならないでしょう。だから余談になりますが、この一点において井上女史の作品は68年革命における「戦後民主主義批判」を現在において反復しているわけです。

 

 いずれにしましても、今回の出展作品においてなされていたのは、広島という、平和主義の起源の地であるとともに急所でもある地を俎上に乗せることで、「平和」を様々なスペクトルのもとに、言い換えるなら「平和」を平和主義という「意識と意識の関係」においてではなく「なまなましい肉感」の位相において感受し、そこから別種の「平和」を再考していく(しかし、それはいったいどのようなものになるのだろう?)ことにほかならない。




「>Gather — 群れ<」展

f:id:atashika_ymyh:20171231143250j:plain

 深江橋にあるギャラリーノマルにて7.22〜8.5の日程で開催されていた「>Gather - 群れ<」展は、精神科医で美術評論家でもある三脇康生(1963〜)氏のキュレーションのもと、中川佳宣(1964〜)氏と高橋耕平(1977〜)氏がフィーチャーされているという趣の展覧会でしたが、実際に展覧会に接してみるとキュレーター+二人展という構成とはいささか異なる様相を見せているように感得され、個人的になかなか興味深いものがありました。

 

 今回は中川氏の新作数点と、滋賀県の山奥にあるという中川氏のアトリエに転がっていた廃物にそこの記録写真を貼りつけた高橋氏の作品《N氏のアトリエ》シリーズが大小十数点、三脇氏が中川氏にインタビューした様子を高橋氏が撮影した映像作品が出展されていましたが、このようなラインナップ自体が、この展覧会の性格をきわめて雄弁に語っていたと言わなければならないでしょう。三脇氏はキュレーターであり中川氏に対する聞き手でもあり展覧会全体の言葉による記録者でもある――実際、三脇氏の執筆による小冊子が販売されていました(画像参照)――し、中川氏は出展作家であり映像によって記録される客体でもあり自身が接してきた過去の美術家(ex. 泉茂、村岡三郎)について語る主体でもあるし、そして高橋氏は出展作家であり三脇氏と中川氏に対する映像による記録者でもある。このように、それぞれがキュレーターや出展作家といった単一の形象に収斂せずに展覧会全体の中で複数の役割を担っており、そのことによっていささかなりとも拡散的な性格を帯びた存在としてこの展覧会に臨んだことになるわけで。「>Gather - 群れ<」という展覧会タイトルは、そのことをこれ以上ないくらい端的に言い表わしています。

 

 《各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く。もはや、群れを入れておく各人は不要で、群れをかき集めることだけになった気がしたら、それが成功というものだろう》と三脇氏は小冊子の中で述べています。このような氏の意図通りに展覧会が機能しているかどうかについては議論が別れるところではあるでしょうが、少なくとも高橋氏(の作品)に焦点を合わせてこの展覧会を見たとき、三脇氏の「各人の中の群れをgather(かき集める)ことができた時、各人の中の群れは創造的に動く」という発言は、この展覧会のみならず、高橋氏の最近の映像作品について考える上で、きわめて示唆的である。

 

 上述したように、この展覧会において高橋氏は、三脇氏による中川氏へのインタビューの記録映像のほか、自身が撮影した中川氏のアトリエの記録写真を氏のアトリエから拾ってきた廃物に貼りつけるという作品を出展しておりますが、映像作品とサイトスペシフィック感のあるモノ――それは(加工された)ファウンドオブジェクトの場合もあるし、展覧会に合わせて高橋氏が新たに作ったものの場合もある――と写真や映像作品を混在させて展示空間内にインスタレーションするというのは、近年の高橋氏において断続的に試されている手法である。例えば、近作に限っても、一昨年(2015年)に岡崎市旧本多忠次邸で開催された城戸保(写真家)氏との二人展「ほんとの うえの ツクリゴト」展では、岡崎藩主の後裔である本多忠次が昭和初期に東京都世田谷区に建てた私邸を移築した会場でその場所の思い出を本多家の人たちが語っている映像作品と建物の資料が混在された形で展示されていましたし、昨年(2016年)に兵庫県立美術館で開催された「街の仮縫い、個と歩み」展では、阪神淡路大震災で被災した身体障害者三人への取材映像と人と防災未来センターが所蔵する震災直後に撮影された写真を高橋氏が再撮影して拡大コピーした写真が同じく混在された形で展示されていた。その意味では、この「>Gather - 群れ<」展の出展作品もまた、そうした傾向の延長線上に位置づけることができるでしょう。

 

 《私には、他者の経験に自らの身体を接続することで、自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望がある。そしてその欲望に形を与えることで、他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事を望んでいる。たとえそれが失敗の先例であったとしても》(「街の仮縫い、個と歩み」展図録より)――以上で概観した近年の作品について高橋氏はこのように述べています。ここからもわかるように、氏においては「他者」ないし「他者の欲望」が自分自身の作品制作を駆動する重要なファクターとなっている様子なのですが、その際にストレートに「他者」「他者の欲望」に向かうのではなく、独特の迂回を経た上でそうしていることに注目する必要があるでしょう。高橋氏がしばしば用いているのは、取材映像の中でインタビュイーの発言を自分自身のアフレコ音声に差し替えるというものですが(「ほんとの うえの ツクリゴト」展でも「街の仮縫い、個と歩み」展でもそれは効果的に用いられていました)、それは「他者の経験に自らの身体を接続する」ことを映像の中でリテラルに行なうということであり、それによって「自分の未来に起こりうるかもしれない経験を先取りしたいという欲望」「他者が未来に経験するかもしれない事例を先行する事」を仮想的かつ実効的に行なおうとしているわけです。そこから自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す道が開かれることになるだろう。だから、映像の中で自己と他者が仮想的かつ実効的に差し替えられるという経験を多用することは、他者の経験を我が物とすることではない。

 

 「>Gather - 群れ<」展に戻りますと、今回の中川氏へのインタビュー映像においては、以上のような方法は用いられていません。映像はあくまでも三脇氏による中川氏へのインタビューの(時間的に多少端折っている部分はあるにせよ)ストレートな記録に終始している。しかしながら、上述してきた高橋氏の映像作品の理路を概観した上で改めて接してみると、映像作品において立ち上がっているのは、自己/他者という二分法とは違った形で経験や欲望を語り直す場であり、それを「中道性」(小冊子所収の三脇氏の文章「Gather - 群れ」より)というそれ自体精神分析的な実践の中で作っていくプロセスであるように、個人的には思うところ。自己も他者も、さらには「群れ」も即自的に存在するのではなく、精神分析的な介入によってはじめて存在する。「群れは、この中道性の中で作られる」(ibid.)。

 

 かかる〈中道性〉を通過することがどのような結果をみることになるか――それが(当方も含めた)観る側の課題となるでしょう。

今道由教展

f:id:atashika_ymyh:20171231142624j:plain

今道由教展DM

 西天満にあるOギャラリーeyesで開催中の今道由教展。関西を中心に1990年代から制作活動を続けている今道由教(1967〜)氏ですが、近年は毎年だいたいこの時期(7月下旬)にこのOギャラリーeyesで個展を行なっております。当方は一昨年に初めて氏の作品に接して以来毎年見に行ってまして、個人的に何か気になる美術家の一人だったり。

 

 さて今回出展されていたのは、一枚の大きな紙に切れ込みを入れて折り返すことでランダムに色面を成形していくという平面作品。昨年の個展においてそれまでの作風から超展開するような形で発表され、個人的には大いに瞠目したものですが、今回はその作風をさらに発展させた作品が出展されていました。昨年の個展における出展作では表面と裏面を違った色に塗った上で最小限の介入を施すことで色彩と形態にリズム感を与えていたわけですが、今回の出展作では、そういった手法はそのままに、切れ込みの入れ方や折り返し方が複雑化したり、色面の一部にラメやキラキラシールでデコレーションを施したりしており、昨年の出展作のようなミニマリズム的な緊張感とはまた違った側面からこの作風を試していたと言えるでしょう。

 

f:id:atashika_ymyh:20171231142641j:plain

今道由教《無題》(2017)

f:id:atashika_ymyh:20171231142657j:plain

今道由教《無題》(2017)

 当方、昨年の個展でかかる作風の作品に初めて接したときには、作風がその前の個展のときの作品と全くといっていいほど変わっていたことに加え、色彩と形態との関係性に対する手つきの巧みさ――そこでは技術の高さや複雑さを誇示することよりも、むしろ完成に至るプロセスの手数をいかに少なくするかという方向にベクトルが向いていた――見せ方のアトラクティヴさに驚くばかりでしたが、今年の個展の作品に接してみると、主に色彩に関して「遊び」の要素がやや前面に出てきたことによって、作られた部分によって構成された形態がリズム感を持って存在していることが昨年以上に前景化していたと見ることができます。上述したように、今道氏の作品は大きな紙に切れ目を入れて折り返すという形で作られているのですが、作られた各部分は個別性を持ちつつも、折れ目や(意図的に残された)折りの甘い部分が容易に見出せることによって、それらがもともと一枚の紙を超展開して作られていることからくる連続性も併せ持つことになるわけです(もし同じものを様々な大きさの紙をコラージュして作っていたら、見え方はかなり変わってしまうだろう)。

 

 このように、今道氏の作品は絵を描く際に支持体として機能する紙に対して直接手を加えるという形で制作されており、実際、氏自身も「支持体そのものが造形に深く関わる作品」「物質の身振りから生じる平面性と立体性が交錯する表現」(プレスリリースより)にフォーカスして制作していることを自認している様子ですが、そこに1960年代末から1970年代初頭にかけてフランスにおいて一時的に大きく盛り上がったムーヴメントである(とされる)シュポール/シュルファスの影響を見出すことは、さほど困難ではないでしょう。絵画を支持体(シュポール)と表面(シュルファス)に両極端に還元し、それらの複合体として絵画を再定義=解体するというのがシュポール/シュルファスの最も基本的な定義ですが、今道氏の場合、ここまで見てきたように、表面よりも支持体自体の持つ平面性と立体性そしてそれら同士の関係性にその関心は明らかに向いているわけで、してみると「シュルファスなきシュポール」と言うべきものへと絵画を編成-変成させようとしていると見ても、あながち的外れではありますまい。

 

 そう言えば、当方が一昨年に接した、現在の作風に超展開する前の今道氏の作品は、大きな紙に二色で太い線がランダムに何本か引かれているというものでしたが、そこでは線は描かれたもの(表面)であるとともに、線同士の交点における絵の具の滲みや垂れといった偶発的なものを隠さないことで、線自体が面としての物質性も持っていることが(これまたプロセスの数の少なさを感じさせることによって)見る側に容易に感得されるような作品となっていました。支持体の上に描かれた表面としての線というより、もう一つの支持体としての面として、つまり二種類の支持体が同じ物質性の上で存在していたわけですね。してみると「シュルファスなきシュポール」という路線は、氏においては昨年突然登場してきたわけではなく、少なくともゼロ年代から形を変えつつ試されてきたものであるとも考えられます(それ以前はどうだったのかは、ちょっと調べがつかなかったのでアレですが)。

 

 いずれにしましても、今道氏の絵画的(それは以上に述べたように、なお絵画なのである)探求がどのような成果を今後もたらすことになるのか、さらに継続して注目していく必要があるのは間違いないでしょう。

A-Lab Artist Gate 2017

f:id:atashika_ymyh:20171231142238j:plain

 7月17日まであまらぶアートラボ(尼崎市)で開催されていた「A-Lab Artist Gate 2017」。新人作家の登龍門的な位置づけのグループ展といった趣で開催されてまして、今回は大学や大学院を卒業して間もない人たち(稲垣美侑、井村一登+makership、木原結花、木村友美、榑松夏実、濱口芽、吉野滉太)が選出されていました。

 

 出展作品は絵画やオブジェ、映像、インスタレーションetc.と多岐にわたっており、新人作家の多様な表現を(様々な制約はあれど)一望できる機会となっていたとさしあたっては言えるでしょうが、個人的にはその中でも木原結花女史の《行旅死亡人》シリーズに瞠目しきり。この作品、昔の新聞に掲載されていた身元不明の行き倒れ――作品タイトルの「行旅死亡人」はそのような死者のことを指すそうで――の記事の切り抜きと、そこに書かれている身体的特徴や服装の描写をもとに様々な写真をコラージュして作られたそれっぽい人の写真とを並べて展示するというもので、今回は老若男女12人分制作されていました。個人的には死者、それも「行旅死亡人」という存在をテーマにするという目の付けどころがなかなか良いところをついてるなぁと思うことしきりでしたし(理由は後述)、駄コラ・クソコラであることを割と隠さない画質のコラージュも、古新聞の画質と揃えているように見受けられ、意図的なのかそうでもないのかはともかくとしてこの手の作品としては上手いなぁと思うところ(画質が良かったら違和感が先に立ってしまうでしょうし)。しかも木原女史、大阪芸大出身だそうで、ART OSAKA後の飲み会の席でその事実を聞かされて驚くばかり。かような作品だから京芸か精華大OGとばかり(ry

 

 ――というわけで、自治体が運営しているアートスペースでの、「若手作家をフィーチャーする」という公共事業的性格(?)の強い趣旨のもとで開催された展覧会にほとんどあるまじき不穏さを全開させていたこの《行旅死亡人》シリーズ、個人的には発想や作品の形式という点において、これはむしろ欧米のアートアクティヴィストの活動や作品に近いものがあるなぁ日本人でここに注目する作家って昨今意外と珍しいなぁと思うことしきりでしたが、ここで木原女史が行旅死亡人という存在に着目していることが結果としていかなる射程を含んでいるかに注目することが必要でしょう。上述したように行旅死亡人とは身元不明のまま行き倒れて亡くなった人のことですが、現在の日本でも年間数百人〜数千人単位で存在していると言われている。木原女史がそういう現状とどの程度切り結ぶことを意図してこのような作品をものしたのかは(彼女と実際に会っていない以上)判然としませんが、少なくとも「死」や「死者」の存在を絶対化し、そのことをもって公共性の基礎に据えるというような――レヴィナスあたりの哲学を俗っぽくしたような――態度が排除している何かを明るみに出していることは間違いない。