「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展&「泉茂PAINTINGS1971〜93」展

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 関西を代表する画家の一人として長年大阪を拠点に活動してきた泉茂(1922〜95)の画業を回顧する展覧会が和歌山県立近代美術館と大阪市内のYoshimi Arts、the three konohanaで3月26日まで開催されていた。 和歌山県立近代美術館での「泉茂 ハンサムな絵のつくりかた」展では泉の画業全体を通観する形で、Yoshimi Artsとthe three konohanaでの「泉茂 PAINTINGS 1971-93」展では1970年代以後晩年に至るまでの絵画作品(Yoshimi Artsでは1970年代の、the three konohanaでは80年代以降の作品が集中的に展示されていた)が集中的に俎上に乗せられており、三つの会場を回ることで泉の画業を最初期から晩年に至るまで通観できるようになっていたわけで、関西の公立美術館の常設展で一、二点出展されているという形で展示されることが依然として多い――逆に言うと、それ以上の存在として遇されることが地元においても稀であるということでもあるのだが――中にあって、版画のみならず絵画をも含めて見ることができたわけで、きわめて貴重な機会となったように、個人的には思うところ。

 

 1950年代に瑛九(1911〜60)が始めたデモクラート美術協会に参加し、版画家として活動を開始した泉は、同会の解散後渡米。アメリカ〜フランスと滞在して1968年に帰国した後は大阪を拠点に多くの絵画・版画を制作しつつ、大阪芸大の教授として後進――有名なところでは中川佳宣(1957〜)氏や館勝生(1964〜2009)をあげることができるだろう――の育成にもあたるなど、終生にわたって関西の現代美術界隈に大きな影響を与え続けていく。没後20年以上を経て開催された今回のこれらの展覧会では、これまで版画家としての活動の方がクローズアップされることが多いきらいのあった(そのような傾向の近年における重要な達成として、2015年にBBプラザ美術館で開催された「泉茂の版画紀行」展をあげることができる)泉の美術をより立体的に理解するためのヒントに満ちていたと言えるかもしれない。

 

 泉の画業を改めて通観してみると、デモクラート美術協会時代におけるシュルレアリスム象徴主義が入り混じったような物語性の強いエッチング作品から、10年近い海外生活の中で抽象絵画に大胆に舵を切り、特にフランス滞在時代にはドローイングの筆触を改めて絵画として描き直すという作品を手がけるようになる。帰国後はエアブラシを多用しつつ幾何学的に明快なフォルムによる絵画を、さらに1980年代後半から最晩年にかけては雲形定規を用いて描かれた有機的なフォルムが画面上をカラフルに乱舞する絵画を多く手がけるようになるといった具合に、おおむね十年ごとに画風を大胆に変えている。個人的には上記のそれぞれの時期の作品に単独で断片的に接してきたものだから、彼の画業を通観するということ自体がほぼ初めてで、とりわけ最晩年の絵画作品には管見の限り全く接したことがなく、純粋にへぇこういうスタイルでも描いてたんやと思った次第。実際、今回は――特に「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展において顕著だったのだが――この「作風を時々に応じて大きく変え続けた作家としての泉茂」という側面が強調されていたのだが、重要なのは、泉において画期をなすこれらの転換が、そのランダムで場当たり的な見かけとは異なり、かなりの程度内的な要請に応じてなされたということである。特に「PAINTINGS 1971-93」展の出展作品は、そのような観点から見て分かりやすい作品が集中的にセレクトされていたと見受けられるから、なおさらである。

 

 泉における作風の変容と絵画の内的な変容との関係は、形象・フォルムという要素に焦点を合わせて見てみると分かりやすいかもしれない。上述したように、泉の画風は渡米によって象徴から抽象へ、さらに帰国後は描かれる対象がストロークそれ自体から幾何学的な形象へと変化していくのだが、以上のような過程が、自身の絵画から形象以外の要素を排除する(少なくとも表面的にはそれを志向している)過程であることにさしあたっては注目する必要があるだろう――渡米に際して「何かが何かを表象-代行する」というモーメントを排除し、帰国後は(エアブラシを多用することで)筆で描いた痕跡を画面内から排除する、といった具合に。泉がこのような方向性に向かった背景には、デモクラート美術協会時代に瑛九から「構造」の重要性について諭された経験が大きいと言われているが、瑛九がどのような文脈においていかなる定義のもとに「構造」という言葉を用いたのかについては不明なところが多いものの、泉の絵画を見る限りにおいては、絵画が画面の外部――それは既存の象徴性(や、それをインデックスとして発動する物語性)のみならず、作者自身の存在にも及ぶことになるだろう――との関係において成立している状態は「「構造」がない」状態であり、従って形象をそれ自体として画面内においてのみ成立させることが、泉における「構造」の導入であったとは言えるだろう。帰国後間もない時期から継続的な探求が行なわれた果てに行き着いた80年代前半における、円や三角形が歪みをともないながら描き出され四囲が赤い線で囲われた作品は、瑛九によって与えられた「構造」というキーワードに使嗾されて描かれた泉の絵画の、「構造」それ自体の翻案ぶりも含めた、ひとつの到達点である(が、そこからさらに変化して、有機的な形象とカラフルな色彩自体が主題となった最晩年のスタイルに身を翻すことになるのだが)。

 

 ところで会期中の3月4日には、「泉茂  ハンサムな絵のつくりかた」展の担当学芸員である植野比佐見女史による講演がthe three konohanaで開催されている。講演の具体的な内容についてはこちら( http://www.yoshimiarts.com/exhibition/20170225_Shigeru_Izumi-PAINTINGS_1971-93-add2-170304talk.pdf )を参照されたいが、以上のような「構造」の導入と翻案の過程を、デモクラート美術協会参加以前にまで遡ってさらに細かく見ていくものとなっていた。「構造」の導入による画面の自立という一連の過程が、唐突な飛躍によってではなく、以前から描いてきたモティーフ(鳥など)の酷使と言うべき執拗な使用によってなされてきたことが様々な傍証を積み重ねながら丁寧に論証されていて、個人的には非常に得るものの多い講演だったわけで。

 

 あと、泉と同時代の絵画の諸動向との関係についても一定の知見が披歴されていたことも印象的であった。泉における「構造」の導入と翻案の過程は、アメリカにおける抽象表現主義やフランスにおけるシュポール/シュルファスといったムーヴメントと明らかに並行している――さらに言うと、最晩年の作品は、有機的な形象とカラフルな色彩それ自体が主題となっているだけに、その少し前に欧米を席巻したニューペインティングとの並行性も指摘されうる――のだが、しかし泉の絵画からは、どの時期においてもそういったムーヴメントに完全に含みこまれるのを拒絶するような契機も存在することが同時に指摘されるべきであろう。そこには時間的な非同期性(ニューヨークに着いた頃には抽象表現主義のムーヴメントが収束期にさしかかっていた、とか)以上の要素が存在すると考えられ、そこにこそ泉のハンサムネスがあるのではないか――と書くといささか理に落ち過ぎるきらいがあるのだが、しかし彼のハンサムネスが私たちの想像以上に全方位的なものであった(それは極限まで画面の自立を求める態度と表裏一体ではあるのだが)ことを含めて、改めて考えるべきことは相当多いように思われる。

 

 そういったことも含めて、「「今なおアクチュアルな画家」としての泉茂」への評価の転換を促しているという意味では、非常に真っ当な展覧会であったと言えるだろう。

「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展+山部泰司トークショー

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 2月18日〜3月5日の日程で@KCUAで開催されていた「1980年代再考のためのアーカイバル・プラクティス」展は、数年前から同ギャラリーがこの時期に行なっている各年代ごとの回顧展(卒業時に大学によって買い上げられた作品を中心に展示されている)の一環という位置づけの展覧会ですが、今回は作品に加えて、1980年代前半における様々な美術動向――後にそれらは「関西ニューウェーブ」と一括され、この時期の現代美術における特権的なムーヴメントのひとつとされることになる――の熱気を今に伝える資料・史料が多く並べられていました。とりわけ重点的に揃えられていたのが、1982年に始まってその後数年間続いた、京都市立芸大と東京藝大の有志による交流展「フジヤマゲイシャ展」をめぐるものでして、様々な紙媒体に加えて、図録を引用元とする当時の出展作品の写真が壁に多く貼られたりしていました。当方のような資料ヲタ的には名前だけが伝説化されて一人歩きしていることこの上ない感がある展覧会ですから、不十分ではあるにしてもその一端に触れることができて、テンション爆上がりだったり。

 

 さておき、この展覧会、当方は2月19日に見に行ったのですが、そのフジヤマゲイシャ展の第一回の出展作家の一人――というか企画運営側の人でもあった――現代美術家の山部泰司(1958〜)氏のトークが開催されていました。もともと事前告知はなく、当方も@KCUAに行く前に立ち寄った某ギャラリーのオーナー氏から当日聞かされて知ったわけで。実際、超突発的に告知されたためか、その場に立ち会ったのはスタッフ以外では当方とそのオーナー氏のみだった、という。

 

 それはともかく、長年関西の現代美術界隈で評論やキュレーションを手がけてきた大阪電通大教授の原久子女史と、この展覧会に協力している京都市立芸術大学芸術資源研究センターの研究員である石谷治寛氏を聞き手として開催されたこの超突発トーク、おそらく後日芸術資源研究センターから何らかの形で公開されることになるでしょう(?)から詳細はそちらに譲りますが、山部氏の目から見たフジヤマゲイシャ展開催に至るまでの経緯が主な話題になっていました。フジヤマゲイシャ展自体がというより、その前夜の風景――とりわけ当時誰がどのように存在し、行動したか――に語りの多くが割かれていたわけですね。で、そこに、現在もなお旺盛な制作活動を展開し続けている山部氏による理論的思考と(個人史も含まれる)歴史とを交差させる試みが重ね書きされていくという形で進行していたと、さしあたってはまとめることができるでしょう。理論と歴史が交錯するとき、物語が始まる。

 

 山部氏は1978年に洋画専攻に入学しますが、この時期の京都市立芸大は、60年代末から70年代初頭にかけての学生運動の中で行なわれたカリキュラム「改革」の余波が残る一方で、大学自体が東山区から西京区に移転することが決まるなど、いろいろと混乱していた時期であったそうです。そんなこの時期を回顧する際に、氏がとりわけ重要な契機として語っていたのが、カリキュラム「改革」でした。京都市立芸大の場合、当時猖獗をきわめた全共闘運動とリンクする形で勃発した学生運動の中で、運動側から提案された案がかなり反映された形でカリキュラム自体の改革がなされるという超展開をたどっていく(トークの中で氏は「文化大革命」と表現していました)わけですが、そこで行なわれた「改革」によって、美術学部入学者全員に対する導入科目として――「ものづくり」を素材やメディウムに従属させずに、フラットに考え直す・やり直すことに主眼を置いた(と当時受け取られていた)――「総合基礎」という授業が導入されたり、「構想設計」という専攻が新設されたりするという、現在にも受け継がれている体制がこの時期に作られた。で、さらに、この時期から特定の研究テーマのもとに学年を超えて学生が教員のもとに参集する勝手連的なゼミが叢生していたそうで、専攻を越えた横のつながりと学年を越えた縦のつながりとが比較的自由にできやすいという環境が、この時期の京都市立芸大にはあったというわけです(それは同時に「自分たちがやることには既に先人がいるから意味がない」という(解放感と表裏一体の)絶望感をも醸成することになっていたのですが)。

 

 かかる「改革」によってもたらされた環境のもとで山部氏が研究テーマとして設定したのは「知覚をオールオーヴァーな感覚の粒子としてとらえ直す」というものでした。現在の部外者的な視点からすると、「改革」によって大学の環境自体がオールオーヴァー状態になっていた――既に入学直後に「総合基礎」という授業をくぐり抜けた以上、それは必然なのですが――ことを割と率直に反映したテーマ設定ではあると思わせるところですが、それを特定のコンセプトのもとではなく、絵画内部にとどまらない自身の行動込みで実践しようとしていたところに、当時の思考の一端が現われていると言えるでしょう。実際、この時期の氏は「編集される作家でもあり、時代を編集する側にもなりたい」と思っていたのだとか。そういう思考/志向のもとでいろいろな活動に参加したり旗振り役を買って出たりした結果、1981〜82年にかけての時期にはスピリチュアル・ポップ展とイエス・アート展とインテリアアートショー(←心斎橋にあったソニービルで開催されたという)と自身の個展(←1981年にギャラリー白で行なっている)が同時進行している状態となっており、そこにさらに持ち込まれたのがフジヤマゲイシャ展の企画だったそうです。

 

 ここでようやくフジヤマゲイシャ展自体の話になるわけですが、現在も版画家として関西を中心に活動しているマツモトヨーコ女史が当時立ち上げていた勝手連的なゼミ――山部氏のほか、杉山知子女史、松井智恵女史、石原友明氏etcといった面々でファッションについて研究するものだった――にいた池田周功氏が当時東京藝大生だった関口敦仁氏と意気投合して勝手に企画を立ち上げたことが、そもそもの始まりだったという。そのような経緯で始まったがゆえに、少なくとも山部氏の中においては、美術運動ではあるけど特定の主義・思想のもとに人々が参集するという「〜ism」というものではなかったし、そういうもののもとに(当時次代を担うと目されていた)作家が動員されたというものでもなかったということに話の力点が置かれていました。むしろそのようなスクールやエコールを外すこと、そのために逆説的に二つの大学の交流展ないしは東京vs京都というアングルを用いることが意図されていた、というわけですね。さらに言うと、「フジヤマゲイシャ」というネーミング自体もかかるアングルの一端として使われたわけで(だから後年言われるような自虐的ニュアンスというのは、少なくとも現場レベルではなかったとのこと)。言い換えるなら、勝手に集まった面々――「メインストリームからのアウトサイダー同士の交流」と表現されてましたが――で大学という制度との距離感を測ることが第1回のフジヤマゲイシャ展では意識され、出展作家たちの間で共有されていた、という。それが上手くいったかどうかは別問題だとしても、です。

 

 実際、山部氏の歴史認識においては、第1回フジヤマゲイシャ展が開催された1982年が自分自身や周辺のみならず、関西の現代美術界全体におけるある種の特異点・ゼロ年として設定され、それ以降は自分たちが対抗しようとしたフレームワークやアングルが再び絶対化されて、その特異点によって開かれた位相が変質していくとされていまして、それは自身がかかわらなくなった第2回以降についての評価に最もストレートに現われていました。京都市立芸大と東京藝大との交流展自体は1987〜88年までなんらかの形で続いたが、末期には「フジヤマゲイシャ展」とは呼ばれなくなり、会場も銀座の貸画廊になっていくそうで、それは山部氏においては端的な変質・裏切りとされることになる。もちろん、このあたりについては人によって見解が相当異なるでしょうが、少なくとも自分の語る物語がどのような歴史と論理の交錯によって支えられているかを、かような形でオープンにしていることには一定の注意を払う必要があります。

 

 山部氏はその後、絵画に絞って制作活動を続け、最近では古今東西の風景画から任意の要素を抽出して再配置するというメタ風景画というべき絵画を多く手がけています。そういった活動の全体像について論じることは本記事の任ではないので割愛しますが、矛盾する諸力・諸要素の交錯する場として自覚的に再設定することを絵画一般のミッションとした上で描くという氏の作品は、絵画というよりインスタレーションに近しいところがあり(今回のトークでも「絵画の枠を外すとインスタレーションになる」と言っていました)、また知覚のオールオーヴァー性という問題意識を70年代後半から一貫して抱いていることは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。

 

柳瀬安里「光のない。」展

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 三条神宮道にあるKUNST ARZT( http://kunstarzt.com/ )で3月7日〜12日の予定で開催されている柳瀬安里「光のない。」展は、柳瀬女史の初個展となる展覧会ですが、控えめに言ってもかなりクリティカルな展覧会でした。在日米軍のヘリパッドの移設先としてとりわけ昨年以来当局と各種反基地運動の最前線と化している沖縄県東村の高江地区に柳瀬女史が赴き、そこをオーストリアの劇作家エルフリーデ・イェリネクの戯曲『光のない。(原題:Kein Licht)』を朗読しながらそぞろ歩くという20分ほどの映像作品でしたが、様々な文脈に対して開かれつつもそれらの安直なトレースに陥らず、行為自体が現地における政治的な情勢に批判的に介入にもなっていたわけで、俎上に載せた場所やテクスト自体の極端さにとどまらないレヴェルであぶないところを攻めてるなぁと、一鑑賞者的に震撼しきり。

 

 今回の映像作品、劈頭に反基地運動のデモ隊が多くたむろすベースキャンプめいた場所で柳瀬女史がスピーチするシーンがある以外はほぼ全編にわたって『光のない。』を諳んじながら高江地区に通ずる道を歩いていく柳瀬女史の記録映像となっています。その歩みは、現地にいる機動隊員によって進路を調整されたりストーキング(?)されたりしながら跛行的になっていき、最終的には金網(おそらくその向こう側は米軍が管理する(=反基地運動が返還を要求している)地域であろう)を背にして朗読がなおも続く様子を映しながら終わっていく――

 

 柳瀬女史は、昨年末に同じKUNST ARZTで開催されたグループ展「フクシマ美術」展( http://kunstarzt.com/VvK/180FukushimaBijyutsu/FukushimaBijyutsu.htm )で出展されていた別の映像作品――そこでは一昨年に盛り上がった反安保法案の国会前デモのさなかにチョークで路上に線を引いて回る様子が記録されていました――でもその行為の中で『光のない。』を朗読しておりまして、この作品がある種特権的なテクストと位置づけられていることが容易に想像できます。当方も「フクシマ美術」展を見た際にこの映像作品を見たことがありまして、線を引く-引き直すという象徴性の高い行為をデモという最前線の真っただ中において敢行するというところに目の付けどころがシャープやなぁと好感しきりでしたが、今回の「光のない。」展に出展されていた映像作品においては、彼女の問題意識はさらにヴィヴィッドに、かつ複雑に多層化された形で提示されていたと言えるでしょう。双方の映像作品において主題化されているのは「私(たち)とは誰か」という問いであり、その変奏としての「「私(たち)/彼(ら)」を分かつものは何か」という問いである。『光のない。』は、(ギャラリー内に置かれていた単行本( 光のない。 - 白水社 )を瞥見する限り)「私」「私たち」「あなた」という指示代名詞が濫用されることでそれらの指示対象を逆に溶解させ、未明で不分明な存在たちの場を開かせるというテクスト的実践が全編にわたってすさまじい強度で展開されていくといった趣を読む側に強く印象づける作品と見ることができますが、柳瀬女史はそのテクストを素読することによってさらに濫用し、もって「私(たち)」や「彼ら」という線引きに対して介入しようとしていると言えるでしょう。しかもそれを、よりによってと言うべきか、高江地区において再演しているわけですから、これはもう。

 

 このように、「私(たち)」をめぐる言語-言説的な実践に基づく行為として『光のない。』を再演/再利用した記録として今回の出展作はあるわけですが、しかしそれは単なる言語的な実践にとどまっていないことに注目する必要があるでしょう。彼女が高江地区に赴いてこの映像を収録したのは昨年11月だったとのことで、その頃というのは、長年このあたりにおける沖縄県民による反基地運動を率いてきた指導者(山城博治という人らしい)が逮捕されたことで、運動をめぐる潮目が大きく変わっていた時期にあたります。しかも彼が逮捕された原因というのが、反基地運動に加勢するために本土から派遣されてきた活動家が先に逮捕され自供したことによるものだった、という。してみると、「私(たち)」/「彼ら」、もう一歩突っ込んで言い換えるなら「友/敵」((C)カール・シュミット)をめぐる線引きの政治的な配置がこの事件によって一挙に流動化していた――それはつまり、「私(たち)」/「彼ら」という対立軸自体が一方で溶解し、単純な国家権力vs市民運動というような構造が宙吊りにされたことと等しいのですが――時期に、柳瀬女史は高江地区に飛び込んで制作していたことになるわけです。その結果として、彼女の行為は国家権力vs市民運動という二項対立を斜めに横断している。

 

 ところで『光のない。』はもともとイェリネクが東日本大震災福島第一原発の事故に触発されて書かれたそうです。そういう出自もあってか、ポストシアトリカルで難解な代物揃いな彼女の作品にしては珍しくというべきか、日本でも2012年の初演以来たびたび俎上に乗せられている様子です(演劇に疎い当方も、そう言えば以前小沢剛氏を演出と舞台美術担当に招いて東京で上演された(F/T13イェリネク連続上演『光のない。(プロローグ?)』(小沢 剛) 東京芸術劇場)と当時小耳に挟んだことがありまして)。そんな作品を沖縄で朗読することは、一見するとかなり場違いなことのようにも見えるところですが、しかしイェリネクの元テクスト自体、2011年のフランクフルト市での演劇祭における「デモクラシーの黄昏」というお題へのレスポンスとして書かれたこと(これは当方、会場内に置かれていた単行本の訳者あとがきで初めて知りました(爆))を勘案してみると、これはむしろ高江地区においてこそなされるべきことなのかもしれないと、勝手に納得することしきりでした。「デモクラシーの黄昏」というお題が当時どのような意図と文脈のもとに発せられたのかは窺い知れませんが、沖縄(に限った話ではないのですが)において進行しているのは、表層的にも国家権力vs市民社会という対立構造がもはや成立しなくなっているという点において、端的に戦後民主主義の黄昏と言いうる事態であるからです。しかしそれは「68年革命」とその日本における徴候としての「戦後民主主義批判」において既に告知され、露呈していたのではなかったか。

 

 柳瀬女史がイェリネクを通して示しているのは、かかる時間的・歴史的な広がりのもとに未明で不分明な存在たちの場を開かせるというテクスト的実践を置き直すことであるわけです。このとき、「デモクラシーの黄昏」は別の民主主義への合言葉となるであろう――そのようなことを考えさせられるのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

当方的2016年展覧会ベスト10

 年末なので、当方が今年見に行った545の展覧会の中から、個人的に良かった展覧会を10個選んでみました。例によって順不同です。

 

◯「村上隆スーパーフラット・コレクション」展(2016.1.30~4.3 横浜美術館

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 森美術館で個展(村上隆の五百羅漢図展)も開催されるなど、昨年から今年にかけては海外での展覧会が多かった村上氏の展覧会を日本で見る機会に恵まれたのだが、現代美術から書画骨董、古物に至る氏の膨大な個人コレクションの一端を見せたこの展覧会には普通に瞠目しきりだったわけで。個人的にはアンゼルム・キーファーの超大作に驚かされる一方、日本における同世代や少し前の世代の作品(岡崎乾二郎、大竹伸郎、中村一美、中原浩大、奈良美智etc)も案外多くコレクションされていることにも別種の驚きがあった。さらに若手の作品も見ていくことで、単に手当たり次第に集めているのではなく、村上氏自身が出てくる美術史的必然性がこういったコレクションによって雄弁に語られているということが納得できるようになっていたわけで、その意味では個展以上に氏の戦略的な立ち居振る舞いを身近に感じることができる展覧会だったと言えるかもしれない。



田中功起「共にいることの可能性、その試み」展(2016.2.20~5.15 水戸芸術館現代美術ギャラリー)

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 田中氏が2013年のヴェネツィアビエンナーレ日本館での展示で特別賞を受賞して以降、国内の美術館では初の大規模な個展となったこの展覧会。事前に様々なバックグラウンドを持った人々を集めて行なわれた各種ワークショップの様子を収めた映像作品をメインに、若干の旧作を混ぜているという形で構成されていたのだが、複数の人間が集まったときにそこに発生する人間関係の微細な綾やグラデーションがミクロな(そしてマクロな)権力関係になっていき、人々の言動を拘束していく過程を記録するという、氏の近年の作風の集大成的な展覧会となったと言えるだろう。田中氏を取り扱っているギャラリー(青山|目黒)のオーナー氏が「地獄の黙示録」という比喩でこの展覧会を評していたというが、それは実に慧眼である。個人的には「社会運動」とキャプションされたセクションが気になることしきりだった。複数の人間が「共にいる」ことで生成される権力関係を即物的に主題にすることからの氏の微妙な立ち位置の変化がここに現われているように見えたわけで、今後の動向に引き続き要注目。



◯「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏―」展(2015.12.8~2016.2.14 兵庫県立美術館

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 ボローニャのアトリエで、いくつかの瓶や壺、カップなどを配置した静物画を終生描き続けたジョルジョ・モランディ(1890〜1964)。「終わりなき変奏」というタイトルから一見即解なように、同じモティーフを描いた静物画と若干の風景画だけで構成されていたのだが、それらを見ていくうちに絵画的な探究の過程やその結果としての作風やモティーフの扱い方・向き合い方の微細な変化が味読できるようになっており、教育的な効果がきわめて高かった。この良さが分かるようになった己が目を褒めたい(爆)。個人的にはモティーフの形や色彩と外界との関係が溶け合っていくような水彩画に瞠目しきり。



◯「クロニクル、クロニクル!」展(2016.1.25~2.21及2017.1.23~2.19 CCOクリエイティブセンター大阪(名村造船旧大阪工場跡))

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※キュレーター:長谷川新

※出展作家:荒木悠、伊東孝志、大森達郎、荻原一青、川村元紀、清水九兵衞、斎藤義重、笹岡敬、清水凱子、ジャン=ピエール・ダルナ、鈴木崇、高木薫、田代睦三、谷中佑輔、牧田愛、三島喜美代、持塚三樹、吉原治良リュミエール兄弟

 一見するとまるでまとまりを欠いたような出展作家陣と、同じ展覧会を二回繰り返すという趣向など、長谷川氏の超キュレーション全開といった趣のこの展覧会だが、制作と労働と生とが(近代以降の美術において分離されたとするなら)再び出会うような場所を、元造船所という場所において再演・再提示(representation)することという点で驚くほど一貫しており、長谷川氏の「作品」を通じて語る/語らせるという姿勢が、これまで氏がキュレーションしてきた展覧会と比べてもかなりあからさまになっていたと言える。で、この展覧会を繋留点として、長谷川氏や周辺の人物たちによる様々な行為(トーク、ワークショップ、読書会、飲み会……)が「クロニクル・クロニクル!」の名のもとに現在も繰り返されており、展覧会を「展覧会以上の「出来事」」として感受する/させる試みが運動体としてなされ続けていることにも注目しつつ、来年1月からの二回目の展覧会にも期待。



◯「私戦と風景」展(2016.1.30~2.27 原爆の図 丸木美術館)

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※キュレーター:斎藤桂太

※出展作家:亜鶴、市川太郎、鈴木操、角田啓、手塚太加丸

※ゲストアーティスト:釣崎清隆

 「私戦」とは、明治時代に制定された「私戦予備罪」なる法律(一昨年、某大学生がISに個人で参戦しようとしてこの罪で警察に逮捕されたことで一躍話題になった)に由来するそうだが、そんな不穏な展覧会を、戦後民主主義・平和主義の桂冠画家として長年遇されてきた丸木位里、俊夫妻の個人美術館である原爆の図 丸木美術館で開催するというフレームワークに驚くことしきり。斎藤氏も丸木美術館もイケメンやなぁと素直に思ってしまう(爆)。いずれにしても、「戦争と平和」という問題系からこぼれ落ちる「私戦」というタームを軸にして、そこから出てきた作品を「風景」として差し出すという試みには、単に同世代の作家を紹介するという以上の、近代史〜現代史への鋭い問いかけが内包されていることに、私たちはもっと瞠目しなければならないだろう。私戦予備罪も含まれる現在の刑法が制定されたのと第一回文展が開催されたのが同じ(日露戦争から間もない)1907年であるというのは、この展覧会について考える上で、何か非常に暗合めいている。



◯「辰野登恵子の軌跡/イメージの知覚化」展(2016.7.5~9.19 BBプラザ美術館)

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 元伊丹市立美術館館長の坂田義太郎氏が館長に就任して以来、一企業のプライベートコレクションを見せるという当初の目的を大きくはみ出したクリティカルな展覧会を連発しているBBプラザ美術館だが、辰野登恵子(1950〜2014)の初期から晩年までの作品を、大阪の某大コレクター氏の個人コレクションだけで回顧したこの展覧会には、美術史ヲタ的にテンション爆上がりだったわけで。絵画における色彩やフォルムの諸問題に対して、絵画が本質的に「描かれたもの」をめぐるイリュージョンであるという一点をそれまでの画家たち以上のテンションで支えにした上で、様々なアプローチをかけていったところに辰野の画業の特徴があり、それは版画やデザインといった周辺領域の問題系を絵画に躊躇なく描きこむことでなされていったと、現在の観点から超乱暴に整理することができるが、彼女のこういった画業を、同時代の画家たちとの対質において見ていくことが、今後ますます求められているのかもしれない――そんなことを考えさせられる好展覧会。



◯岡山芸術交流(2016.10.9~11.27 岡山市内各所)

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※アーティスティック・ディレクター:リアム・ギリック

※出展作家:荒木悠、トリーシャ・バガ、ノア・バーカー、ロバート・バリー、アナ・ブレスマン+ピーター・サヴィル、アンジェラ・ブロック、ホセ・レオン・セリーヨ、マイケル・クレイグ=マーティン、ペーター・フィシュリ+ダヴィッド・ヴァイス、サイモン・フジワラ、ライアン・ガンダー、リアム・ギリック、メラニー・ギリガン、ロシェル・ゴールドバーグ、ドミニク・ゴンザレス=フォルステル、ピエール・ユイグ、ジョーン・ジョナス、眞島竜男、カーチャ・ノヴィスコーワ、アーメット・オーグット、ホルヘ・パルド、フィリップ・パレーノ、レイチェル・ローズ、キャメロン・ローランド、島袋道浩、下道基行、リクリット・ティラヴァーニャ、アントン・ヴィドクル、ハンナ・ワインバーガー、ローレンス・ウェイナー、アニカ・イ

 コンセプチュアルアートの現在を語る上で外せない美術家であるリアム・ギリックをディレクターに迎えるなど、近年の地域アート全盛期にあって「本気度の高い」人選が話題になっていたが、実際見て回ると、現在30代〜50代前半くらいの、多少はっちゃけた作品も作れる面々を揃えたこともあってか、コンセプチュアルアートとしては王道感がありつつも、非常に新鮮な感じがした次第。「コンセプト」が概念や論理だけでなく、歴史や社会問題を含みこんだ壮大なプロジェクトでもあることを改めて知らしめるとともに、それがアーカイヴやドキュメンテーションと結びつくことで新たな活況を呈しているという近年の動向にも目配せが利いていて、ポイント高。個人的には、こういった近年の動向の上にさらに旺盛な想像力を歴史の上に重ね書きしてみせた荒木悠氏の作品や、人間と自然との関係を人間と擬人と自然の関係に書き換えたピエール・ユイグの作品がとりわけ印象的。



◯「はならぁと2016こあ 人の集い」展(2016.10.1~31 高取土佐町並みエリア)

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※キュレーター:遠藤水城

※出展作家:雨宮庸介、石垣克子、島崎ろでぃー、捩子ぴじん、本山ゆかり

 同時期に同じ会場で開催されていた「町家の案山子めぐり」の中に出展作家たちの作品を交ぜるというキュレーションには賛否両論あったようだが、展覧会を「展覧会以上の「出来事」」として感受する/させる試みとしては、なかなか意義深いものがあったのではないだろうか。「作品」と「作品以外の、ただそこにそのようにあるもの」を分離した上で交雑させるところに、近年の遠藤氏の関心は集中しているように見えるが、そのような手つきから「人」=〈他者〉を「地域」「アート」に導入するという氏の試みが今後どのように展開していくことになるのか、気になるところではある。



◯「THE PLAY since 1967 まだ見ぬ流れの彼方へ」展(2016.10.22~2017.1.15 国立国際美術館

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 池水慶一(1937〜)氏を中心に1967年に結成され、メンバーの離合集散がありつつも来年50周年(!)を迎える美術家集団THE PLAYのこれまでの行為の全容を資料や記録映像で回顧するというこの展覧会。自作のいかだで淀川を下っていく、京都府南部に丸太を組み合わせて巨大なピラミッド状の構造物を作り(美術館内に再制作されている)、避雷針を設置して落雷するのを待つ(しかもそれを10年間にわたって続ける)といった大掛かりな行為に目が行きがちであるが、個人的にはそれらの合間になされた小ネタめいた行為(某場所の実物大地図を作る、口永良部島にあるという謎の大穴を見に行く、など)も気になることしきり。パフォーマンスやアクティヴィズムなどが、当初の新鮮さや制度批判的なモーメントを失って硬直化している感のある現在において、一見すると社会に直接働きかけるという契機に乏しいようにも見える彼らの行為(池水氏は「ハプニング」と呼んでいるが)は、今なお示唆的であろう。資料の見せ方も良かった。



◯迎英里子「アプローチ2[石油]」展(2016.3.26~4.10 Gallery PARC)

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 今年、個人的に最も目からウロコ感があり、「その発想はなかった」と思わされた展覧会がこれ。謎のインスタレーションの中で彼女がモソモソと動くというパフォーマンスを見せられたあと、それが地質学的モジュールの中で石油の生成過程を身体を張って見せていたことが事後的にわかるという仕掛けになっていたわけで。俎上に乗せる現象をモジュールとプロセスの複合体として取り出し、それをパフォーマンスによってトレースすることで「わからない」ことから「完全にわからない状態ではない」ことへと置き換え、(それが通常の意味とはかなり異なるにしても)パフォーマンスをする側も観る側も「理解」に近づくことができる――という認識をもとにした作品を数年前から継続して作り続けている迎女史だが、このような形で〈身体〉を前景化させ、現象を「身体がそう受け取る限りにおいての現象」に置き換えるという所作は、今後もっと注目されるかもしれない(彼女が中原浩大氏のもとで学んでいたということも含めて)。

 

「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実―」展

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 箕面市にあるコンテンポラリーアートギャラリーZONE( http://art-gallery-zone.com/ )で12月10日〜27日の日程で開催されていた「私、他者、世界、生 ―現実を超える現実―」展。詩人の京谷裕彰氏のキュレーションで、OKA、川崎瞳、松平莉奈、松元悠、百合野美沙子という五人の女性画家の平面作品が展示されていました。

 「現実を超える現実」というサブタイトルから容易に類推できるように、シュルレアリスムが主題として前面に押し出されていた感があるこの展覧会ですが、実際に作品に接してみると、シュルレアリスムという語が喚起させるイメージや(ブルトンやダリ、ミロ、デ・キリコマン・レイ瀧口修造etc.といった固有名によって語られる)アーカイヴの現在をなぞることよりも、「超現実主義」という訳語が当てられることしきりなこの語における「超現実」の、絵画における現在地の一角を五人の画家の作品を通して走査することに重きが置かれていたと、さしあたっては言えるでしょう。そこでは「超現実」とは非現実的なイメージ群の中に閉じこもることというより、(一見するとそういう行為に耽っているように見えているとしても)別種の現実を絵画によって構築し、もって生活世界の中でそれと対峙する行為にほかならないわけです。ですからそこでは他者や世界から遊離することよりも、それらへの関わりを改めて自己の中に繰り入れることが改めて主題化されることになる。京谷氏がシュルレアリスムの本義として提示する――「非現実ではなく現実を超える現実」としての――〈強度の現実〉とは、それ以外ではない。ところで、このような形で自己と他者・世界との関わり方を押し出す哲学は、通例「実存主義」と呼ばれます。ですからこの展覧会において試みられているのは、シュルレアリスム実存主義が端的に同じ実践である/ありうることを、絵画というもの/行為によって示すことにあるのではないだろうかと、個人的には思うところ。それはフランスにおいてサルトルブルトンを激しく批判していたとしても、そうなのである。

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 当方が見に行った12月12日には出展作家+京谷氏が勢揃いしてのアーティストトークが開催されまして、彼女たちがどのようなことを考えながら作品に向かっているのかを聞きながら出展作品に接することができました。そこでどのような言葉が発せられたかについてはいずれ当人たちが改めて言葉にするでしょうからここでは多くは語りませんが、カタツムリという象徴(西洋では「不滅」の象徴とされることが多いという)へのこだわりを追求し続けているというOKA女史、指をモティーフとしたイメージたちが乱雑に存在するユートピアディストピアを細密なペン画で描く川崎女史、檻のような中に閉じこもりながら味噌汁をすする青年(画像参照)を描いた松平女史、自身の身の回りの個人的な出来事やメディアで接したことから想を得てコラージュ的に描いていく松元女史、様々な虫が女性の周りを飛び回る幻視的な光景を描いている百合野女史と、シュルレアリスム美術においてまま見られる表現技法や発想法を用いつつも、それらを〈強度の現実〉へと差し向ける指向性がきわめて強い作品が揃ってまして、非常に見応えがありました(この文脈で見た場合、管見の限りにおいて日本画のヴィルトゥオジティの文脈でしか接することがなかった松平女史の作品が全く異なる相貌を見せていたのは、個人的には大きな発見でした)。

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 出展作はどれも印象的な作品でしたが、とりわけ個人的には百合野女史の絵画(上画像参照)に瞠目することしきり。上述したように様々な虫が女性の周りを飛び回るという幻視的な光景が描かれていたわけですが、そこでは女性の腕がくりぬかれて本来骨があるべきところに蛍光灯が埋め込まれており、虫はそれに誘われてやって来ているという筋立てになっている。ですから、虫を厭わしく思うとともにしかし寄ってきてしまうという、相反するイメージの流れ、ストーリーの流れが画面の中に描きこまれているわけですね(しかも作品タイトルは《うるさい》ですから、これはもう)。今日、絵画において何らかの形で象徴性を主題にするときに必要とされているのは、おそらくはこのようなイメージをめぐる実践でしょう。それによって、画家が幻視するものは、単なる幻想絵画と異なった位相に置かれることになるだろうから。

 「シュルレアリスム絵画というのは存在しない。正確に言えば絵を描くシュルレアリストがいるだけだ」――今回の展覧会に接して反射的に思い起こしたのは、このアンドレ・マッソンのアフォリズムでした。五人の作品はそれぞれの流儀で「シュルレアリスム絵画」ならぬ「「絵を描くシュルレアリスト」としての実存」への思考/指向を表現していたわけで、彼女たちの今後の探求や実践がどのような成果をもたらすことになるか、注目していかなければいけないなぁと思わされることしきりでした。

「見えてる風景/見えない風景」展

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 高松市美術館で開催中の「見えてる風景/見えない風景」展。当方は今回初めて訪問したので知らなかったのですが、高松市美術館は「高松コンテンポラリー・アニュアル」なる企画展を定期的に開催してまして、今回の「見えてる風景/見えない風景」展はその第5弾となるそうです。

 さておき、今回は流麻二果(1975〜)、ドットアーキテクツ、谷澤紗和子(1982〜)、伊藤隆介(1963〜)、来田広大(1985〜)という面々が出展していました。「風景」を俎上に乗せていることや〈見えてる〉/〈見えない〉という対立軸が展覧会タイトルに限らず前面化されていることなど、グループ展としては展覧会を成り立たせているフレームワークの点において新しさよりもむしろ懐かしさを感じさせる――それはとりわけ〈見えてる〉/〈見えない〉という対立軸という設定に顕著である――ところもないではなかったわけですが、実際に上記の面々の作品に接してみると、〈見えない〉という要素をめぐる各出展作家間における設定の仕方の違いが如実に現われていて、なかなか面白かったです。全てが過剰に可視化されている今日においては、〈見えないもの〉についても、単に見せないこととも「「見えないもの」として見せる」こととも異なったやり方で扱うことが求められているものです。

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 そういう観点から見たとき、個人的に最も興味深かったのは、ドットアーキテクツの作品(画像参照)でした。2004年に建築事務所として創業し、現在は家成俊勝(1974〜)、赤代武志(1974〜)、土井亘(1987〜)、寺田英史(1990〜)の四人で北加賀屋を拠点にして建築にとどまらない活動をしているそうですが、そんな彼らの今回の出展作は展示室にパイプやワイヤーを用いて超簡単な構造物を作り、そこに美術館のバックヤードから持ってきたという椅子やコーン、傘、コンクリートブロックといった日用品や廃物などを置いたり組み込んだり吊るしたり、というインスタレーション感あふれるものでした。一見するといろいろなモノを加工せずに乱雑に配置するという、日本ではとりわけゼロ年代以降多く見られる傾向を建築家らしい構築性の高さをともないながらなぞっているように見えますが、置かれたモノを一個でも動かしてしまうと全体が崩壊してしまうそうで――実際、備えつけられたモニターには搬入中に発生したその模様が映し出されてました――、見た目に違わずというか、見た目以上に繊細な構造となっている。

 この作品においてミソなのは、〈見えないもの〉が構造物によって直接的に可視化されているのではなく、構造物を成り立たせる力学的諸関係として、それ自体としては依然として可視化されずにあるということです。観客は監視員とかの説明を聞いて、あるいはその上で件の動画を見ることではじめて、構造を成り立たせている〈見えないもの〉の位相が逆説的に主題となっていることを知ることになる。実際、当方もたまたま遭遇したボランティアによる展示説明会に混ざって話を聞いたことで初めて知ったし。ともあれ、こういったことごとによって、〈見えないもの〉を構造に対する潜勢力の位相にとどめておくという姿勢で一貫していたわけで、そこは個人的にきわめてポイント高。

 あと、個人的には来田広大氏による、(滞在先のメキシコで)空き地に線を引き、街とスラム街の境界線を描き出すという映像作品がなかなか良かったです。風景を反映するのではなく風景に介入するという、きわめて政治的でもある姿勢をミニマルな手つきで行なっていたわけで、上手いことやりよったなぁと感心しきり(でも出展されていた、チョークで描かれた風景画が映像作品ほど鋭くなかったのがなぁ……)。

 

早瀬道生「表面/路上/その間」展

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 KUNST ARZTで9月13〜18日の日程で開催されていた早瀬道生「表面/路上/その間」展。京都造形芸大の大学院に通っているという早瀬道生(1992〜)氏の、同所では初めての個展です。

 今回出展されていたのは、今年7月に沖縄本島に赴いて撮影した写真作品と、特定の日の各紙の紙面データをひたすら重ねて引き伸ばしたフォトモンタージュ系作品でしたが、個人的には前者の写真作品に瞠目することしきりでした。米軍用のヘリパッド建設問題で今に至るまで大揺れな――その割に現地の動向がマスコミレベルで報じられることが少ない――沖縄県東村高江地区に赴き、現地でうち続く反対デモに参加しながら、彼らに対峙している機動隊員を撮影したというポートレイト写真が出展されていましたが、そのジャーナリズム的なフットワークもさることながら、写真には機動隊員個々人の顔がバッチリ写されていたわけで、それが整然と並んでいるのを見るにつけ、こういう展示はこれまでもあぶない展覧会を仕掛けてきたKUNST ARZTでしかできないよなぁと謎に感心してしまうところ(一見すると肖像権に抵触しそうですが、法的には一応問題ないようです)。

 とは言え、在廊していた早瀬氏から撮影裏話を聞きながらより仔細に見てみると、そのようなジャーナリスティックな、あるいはスキャンダラスな位相にとどまらない問題意識のもとに撮影されたものであることが感得されるのも、また事実である。氏曰く、これらのポートレイトは盗撮ではなく、その場で機動隊員たちに事前に伝えた上で撮影されたとのことで、道理で真正面からストレートに撮影された写真が多かったわけだと、納得しきり。で、かような、突然闖入してきたカメラマンによって撮影されるというイレギュラーな事態に際会してもなお、少なくとも表面的には動ずる様子もなく概ね無表情で写真に収まったというところに、個々人の個性が消去された状態、さらに言えば個々人を超えた存在の不気味さを見出したそうです。そういう意味では、これらの写真作品においては機動隊員個々人がというより、彼らの形を取って現前するものが撮影されていると言えるかもしれません。言うまでもなくそれは、ドイツ写真におけるベッヒャー・シューレについてしばしば語られる「タイポグラフィ」に通ずる態度である。

 個人的には、かようなポートレイト写真を見て連想したのは、2013年に大阪で開催され、その後東京と金沢に巡回したMOBILIS IN MOBILI展に出展されていた河西遼氏の写真作品でした。河西氏が東日本大震災後に一時的に盛り上がった反原発デモに参加し、デモ隊の内側からそれを遠巻きに眺める路傍の人たちのポートレイトを撮影するというものでしたが、そこでの被写体たちの表情は一様に何か奇妙で不気味な事態に出くわしてしまったというような、困惑とも何ともつかないものだった。そのような画一的なリアクションを写し出すことで、河西氏のカメラは彼/彼女たちの表情にではなく、個々の彼/彼女たちを超えたところに措定される「市民」の姿にフォーカスされていたと言えるでしょう。デモ隊を不気味なものとして見つめる「市民」たちが反転した形で不気味なものとして立ち現われてくる――そのような奇妙さをこそ河西氏のカメラは雄弁に切り取っていたわけです。彼の写真作品が提示しているのは、今日において「市民」とはある種の市民運動が無邪気に設定するようなヒューマニズム的な理念ではなく、単にそこにあるモノに過ぎないという現実である(で、このような、モノとしての市民を撮影するという態度の一つの起源として、例えば阿部淳氏の《市民》シリーズをあげることができるでしょう)。

 「表面/路上/その間」展に戻りますと、早瀬氏の行為は、デモ隊の側から撮影するというところに河西氏との共通点が見出されるわけですが、タイポグラフィ的な視線によって、早瀬氏の写真もまた、機動隊員の不気味さの向こう側にある「市民」の不気味さが写し出されていると見ることができるでしょう。それによって、現地で起こっていることとともに、あるいはそれ以上にと言うべきでしょうか、「沖縄における米軍基地問題」と私たちが呼ぶことの基底をなす前提条件が写し出されていると見ることも、あるいは不可能ではない。機動隊員の不気味さは、「(沖縄県民視点からの)本土の人」である私たちの不気味さでもあるわけです。戦後日本における「理念としての「市民」」の限界としての「沖縄における米軍基地問題」は、これまで多くの写真家(東松照明森山大道氏など)によって向けられてきた沖縄への視線に対する批評としてもある。